真夜中の電話がけたたましく鳴る。
一体、何時だと思っているのだろう。
ヒサシは無視を決め込んでいあたが、ユミコはそうはいかなかった。
随分長い間、騒音のように鳴り響く電話に、結果的には起きてしまったのだ。
「まあちゃんかもしれないもの」
ユミコはガウンをはおり、電話の方へ向かっていった。
日本は今昼か・・・・とはいえ、時差を考えたらそうそう軽々しく電話は出来ない筈。
ヒサシは無視して眠りにつこうとした。
うとうととみない夢の中へ自分を誘っていく。
しかしユミコの「え?」という驚きの声に、神経が逆撫でされて目が覚めてしまった。
「そんな事言ったって。ママ達、今オランダなのよ?いきなりは無理よ。じゃあ、家は?
嫌なの?御用邸は?それも?どうしてなの?一体どうしたっていうのよ」
何ともらちがあかない会話だ。
「いい加減にしろ。今、何時だと思ってるんだ」
ヒサシは思わず怒鳴った。部屋の向こうから
「とりあえず相談してみるから」という声が聞こえた。
全く。今度は何だというのだ?
アイコの障碍を聞かされた時は正直、ショックだった。使えない娘に使えない孫。
なんて自分は運のない男だろうと思う。
そもそもユミコが女しか生まなかった事がケチのつき始めなんだ。
マサコが男でありさえすれば、人生は変わっていたかもしれない。
マサコが生まれた時の喪失感。何とも言えない・・力が抜けていくような。
あんな思いはしたくなかったのに、アイコが誕生した時にまたも味わってしまった。
人間は時々人生を投げ出してしまいたいと思う事がある。それが自分は2度・・・
いや、セツコとレイコが生まれた時も含めたら3度か。
でもそれをバネにして、ありとあらゆる手を尽くして生きて来た。
アイコの事だって、最初の絶望感を通り過ぎれば、メリットを最大限に引き出す方策を
考える。
だから心配するなと言っておいたのに。
日本ではマスコミがマサコの帯状疱疹を「皇室のプレッシャーのせい」と報じている。
「男子を産めというプレッシャーに潰されてしまった可哀想な皇太子妃」という印象操作を
かけているのだ。
無論、一人でそんな事は出来る筈がない。
利害の一致、政治がらみ、様々な思惑の中で作り上げられている「皇太子妃像」
それは今の所、大成功だ。
世の中、ジェンダーフリーだ、夫婦別姓だと、男女の結婚観を変えようとする動きはある。
戦前の家父長制度をやめて、現在の民法になったのは一重に
「男女平等」を憲法にならうものだ。
男女平等。女に出産を強要してはいけない。産むも産まないも本人の考え次第。
不妊治療に悩む女性の神経を逆撫でする事は許されない。
男子が家の跡取りになるのは不平等だ。戸籍の筆頭者も世帯主という名称も
何もかも女性を傷つけるものだ。
いっその事、夫婦別姓にして戸籍制度をやめてしまえ。
そして男女不平等の頂点に立つ「天皇家」に泣く泣く嫁いだマサコ様は
可哀想に、学歴や能力を生かす事が許されず、ひたすら「子産みマシーン」として
男子を産めと強要されてしまった結果、心を病んでしまった・・・・・
そんなストーリーだ。
サラリーマンが読む雑誌、女性雑誌、月刊誌、新聞に至るまで「可哀想なマサコ様」
のオンパレード。
そしてもう一つ忘れてならないのが「アイコ天皇擁立」だ。
「どうしてアイコ様は天皇になれないの?」
「それは女の子だからです」
「どうして女の子は天皇になれないの?」
「それは日本が長い間男尊女卑の国で、その風習を継いでいるのが天皇家だからです」
「それは間違っていませんか」
「はい。間違っています。憲法にも男女は生まれた時から平等であると定められており
それに反する天皇家の在り方は間違っています」
「ではアイコ様を天皇にすべきではありませんか。そうなったらマサコ様は心を病まずに
すむのでは」
「その通りです」
こんな感じだ。日本人は「平等」という言葉が好きだし、「日本国憲法」「民主主義」こそが
この世でもっとも崇高なものだと思っている。
ゆえに、この3つを言えばたいていの日本人は頷き、反論できなくなる。
成程、天皇家は存在そのものが憲法にかなっていないし、民主主義にもかなっていない。
そんな旧弊で不平等な悪癖を持つ天皇家を改革するのが「マサコ様」なのだから。
「だから何も心配しなくていいのに」
ヒサシは起き上がりメガネをかけつつ、大きくのびをした。
そこに入ってきたユミコは困り果てたような顔をしている。
「一体、どうしたっていうんだ」
「「まあちゃん、離婚したいっていうの」
「離婚?」
さすがのヒサシも驚いて立ち上がった。着替えもせずにリビングに入ると、
気を落ち着かせる為に冷蔵庫からミネラルウォーターを出して飲んだ。
「今、お茶を入れるわよ」
「茶なんぞどうでもいい。なんで離婚したいなんて言うんだ?」
「まあちゃん、去年の帯状疱疹から公務に出てないでしょ。病気だったんだから仕方ない
筈なのに、治ったのに公務に出ないって言われてるんですってよ」
「誰に」
「さあ・・・宮内庁じゃないの?ほら、5月にヨーロッパへ行く予定があるじゃない?
それもまあちゃんだけ行かせないって言われているらしいわよ」
「何で」
「公務をしてないからでしょ。12月からこっち公務は休んでいるし、お正月の写真撮影も
あっさりすませたし、皇太子殿下の誕生日行事だってまあちゃんの体調に考慮して
地味にしてもらったじゃない。でも、まずは国内の公務をきちんと果たしてから海外にって
言われたらしいわよ」
保守の宮内庁長官に東宮大夫か・・・ここらへんをすげかえる必要があるらしい。
マサコが12月以来公務をしていないというのは本当だった。
年末年始は皇室にとって行事が多い。特に正月は新年祝賀の儀に一般参賀に・・・・と
行事が目白押しだ。
しかし、マサコはそのどれにも出る事はなかった。
「だって嫌なのよ。ああいう席で、誰あが私の悪口を言ってるかと思うとたまらないわ」
確か、そんな話をしていたと思う。
誰が皇太子妃の悪口などいうんだろうとヒサシはぴんと来なかった。
だからその場で女官達に問いただしてみたのだが、みな
「妃殿下の悪口を言っている者はおりませんし、皇族方も同様でございます」と答えた。
ヒサシ自身も、それは単なる被害妄想ではないかと思う。
ただ、何でそんな風に思うのかが少しもわからなかったのだ。
「あなた・・・約束が違うと言われても仕方ないんじゃないの?まあちゃん、結婚さえすれば
海外に行けると思っていたのよ。なのにちっとも行けなくて。独身時代の方が
海外旅行してたんじゃないかしら。アイちゃんを産んでさあ・・・と思ったら、すぐに二番目はとか
言われて。何の為に皇室に入ったと思うのかしら。あの皇太子殿下の子供を産んであげた
だけでもありがたいと思って欲しいわ。でもそれにしたって約束が違うと言われても仕方ない。
だってあなた、約束したじゃない?まあちゃんはそれを怒っているの。
皇太子だって結婚の時に「皇室外交させてあげる」って言ったのに、ヨーロッパもダメって
あんまりよね」
「何を10年前の事をぐちぐちと。だったらさっさと男の子を産めばよかったじゃないか」
「またそれ?ひどいわ。こればかりは神様からの授かりものじゃないの」
「じゃあ、オワダ家は神から見捨てられているのか?」
ヒサシは怒鳴った。
驚いたユミコは黙って、お湯をわかし始めた。
「それで・・・海外に行けないから離婚するというのか?帰る家なんかないぞ。
世間の笑いものになって終わりだ」
ユミコは黙々と急須に茶の葉を入れ始める。
妻の不機嫌な様子にヒサシは少しトーンを変えた。
「御用邸で静養すればいいんじゃないか?」
「あそこは両陛下のお許しがないと使えないの。まあちゃんが仮病だって両陛下は
思ってるらしいわよ」
・・・・・
ヒサシは知り合いの医者にさりげなく「自閉症」について聞いてみた事があった。
「それは脳の病気ですから何ともしようがない」と言われた。じゃあ、なぜそんな子供が
生まれるのかと聞いた時も「それはわかりませんが先進国で増えている事は事実です。
ダイオキシンとか環境ホルモンが原因とか、色々言われていますが」
それを言われた時、思わず背中が冷たくなったのを覚えている。
ユミコの実家はいわずもがなのチッソ。
悪名高いミナマタ病を発症させた会社だ。環境破壊をして人体に多大な悪影響を与え
死に致らせた公害病の大元の会社。
いや、しかし、それは昔の事。それにユミコの父はミナマタ病の発症の後に会長に
就任したのだから責任はない筈。
なぜ今、それを思い出したのだろう。
まさか、これが…呪いとでもいうのか?
いやいや・・・とヒサシは首を振る。そんなバカげたこと。
「今は自閉症だけではなく、アスペルガーなどいわゆる発達障害という分野の研究も
進んでいます。昔からいたでしょう?ちょっと変な子供。落ち着きがなくて動き回って
ばかりいたとか、協調性がゼロだった子とか。例えばサルバドール・ダリとか。
一部の能力に優れていても生きづらさを抱えて生きる人たちがいるのです。
そしてそれは欝を発しやすいし、統合失調症などを併発しやすいという事も」
ああ・・なぜ、そんな事を今、思い出したのか。
「まあちゃん、暴れて手がつけられないらしいわよ」
ぼそっとユミコが言った。
「実家じゃダメよ。噂になるもの。本当は御用邸がいいけど・・無理だし。
このままじゃ、あの子、どうなってしまうか。可哀想に。アイちゃんの事でどれだけ
苦しんでいるか」
「自業自得だ。親の言う通りに頑張ればすむ事を、いつもいつも反対の事ばかりする。
全く。どれだけ苦労して皇室に入れたと・・・・この件に皇太子は何と言ってるんだ?」
「そういえば皇太子殿下の話は出てこなかったわ。まあちゃんたら興奮して泣いているん
ですもの。夫婦喧嘩でもしたのかと思ったけど違うのかしら?ならやっぱり宮内庁に
あれこれ言われて傷ついているのかしら。だったら夫として妻を守ってくれないと。
話にも出てこない皇太子殿下ってどうなのよ」
多分、一人でヒステリーを起こしているんだろう。
あの能天気な皇太子は、目の前でぎゃあぎゃあ言っている妻を理解できなくて
呆然としているに違いない。
しかし、仮にも一国の皇太子だ。彼に対して妻とはいえ、あまりに傍若無人な態度をすれば
宮内庁がどう動くか。
天皇と皇后も「離婚やむなし」と思うかもしれない。
マサコはそれでいいかもしれないが、こっちは困る。
ここは一旦、夫婦を引き離す必要性があるかもしれない。
「軽井沢だ」
「軽井沢?」
ユミコは顔を上げた。
「軽井沢の別荘の事を言ってるの?」
「ああ。そこでマサコとアイコ二人で暫く過ごしたらどうか。1週間くらい。
宮内庁が何と言おうと構うものか。ガイムを通じて東宮職に圧力をかける。
反対させはしないさ」
「そ・・・そうね。じゃあ、そう連絡するわ」
ユミコはちょっと機嫌を直して、いそいそとお茶を入れると、電話に向かった。
その時、またもけたたましく電話が鳴る。
ちょうど受話器に手を伸ばしていたユミコはびくっとして一瞬、電話から離れた。
「以心伝心だわ」
ユミコは笑って受話器を取った。
が、その声はすぐに失望と・・・そしてまた驚きに変わった。
またマサコか・・・今度は何をしたのか?
ヒサシは湯呑を両手で包んでひとすすりしながら「今度はなんだ?」と言った。
「せっちゃんが別れたいって」
血圧が一気に上昇するのがわかった。
ヒサシは、バンと湯呑をテーブルに叩きつけると
「いい加減にしろ!」と叫んだ。