「マサコだけなんです。僕と結婚してくれたの」
そう言って息子は泣いた。
皇后は胸が痛くなり、思わず目をつぶった。
「マサコの所へ行ってもいいでしょう?」
そんなにも息子の心をとらえて離さない女性がいるとは。
皇后に止める術はなかった。
思えば可哀想な子だった。
仮死状態で生まれ,
息を吹き返した時はどんなに嬉しかったか。
単に自分の子が授かったというだけではない。
この子を失ったら、皇室の中で自分の立場はなかったのだ。
二人目を流産した時に「皇太子さまのお子を流してしまうなんて」と
散々陰口を言われた。ましてや死産などという事になったら・・・・
それを思うと、あの時の奇蹟は神の手によるものだと信じている。
生まれるべくして生まれた日嗣の皇子。
それが皇太子だったのだ。
感情の起伏に乏しく、融通のきかない子ではあった。
だから、集団で行動するのが苦手だったり、成績が悪かったり。
一つの事を飲み込むのにとても時間が必要な子で、いわゆる「ごゆっくりさん」だったのかも。
けれど、将来天皇になる身がそれでは困る。
まして自分の子であればもっと困る。
だからこそ、小さい頃から何事も噛んで含めて言い聞かせて育てて来たのだ。
うまく行ってきたと思う。
イギリスから帰って来た時までは。
留学だって、本来、日嗣の皇子はしない慣習だった。
でも、この子には私の夢をかなえて欲しかった。私が男だったら海外留学も出来たろうに
あの時代、女が大学へ行くというだけでも大事で、ましてや留学など・・・・
だからこそ、ヒロノミヤには広い世界を見せたかったし、経験もしてほしかったのだ。
あの子は・・・・あの子は・・・・本当に理想通に育ってくれた。
生まれた時に私を救ってくれただけでなく、留学と言う夢を叶えてくれた。
下に生まれた子供達と差別しているわけではない。
でも、庶民でも皇族でも最初の子というのは特別だ。ただそれだけの事なのだ。
(だから庶民を皇太子妃にしてはいけないと言ったのに)
ああ・・・またあの声が聞こえる。今夜は誰か?イツコ妃?
(あの日、日本中が大騒ぎした日、私だけは失望の中にいたわ。もう日本はダメだと。
その意味を長い間日本の国民は知る事がなかった。
でも、いよいよ真実を知る時がきたわ)
「私は皇太子妃として皇后として精一杯国の為に尽くして来たわ。
私が皇太子妃に選ばれたのは天の御心だと言うわ。私もそう信じています」
(天の御心・・・・それが天の心なら皇室は滅びるべきだという事ね。
あなたが皇太子妃になったのは、純粋な東宮の思いだけではない。
皇室解体を目論む彼らの思惑が勝っただけよ。そりゃあね、コイズミだってイリエだって
皇室に忠義を尽くしてくれた。あの人達はそれが最善の策だと思っただけ。
皇室に皇族でも五摂家でもない、平民の血を入れる事こそが進歩的で
皇室と国民の間を取り持つ筈だと。
彼らに抜けていた思想は、国民と皇室の絆は妃の身分で繋がったり切れたりする程
弱いものではなかったという事よ。
天の御心は天照の子孫である天皇が、ただただ一心不乱に国の安泰を願い祈る事。
そこに政治的な野心を抱けば、いつか必ず鉄槌が下る。
織田も徳川もそうだったでしょ?藤原だって)
「身分や家柄で人を差別する世の中ではありません。この21世紀は。
人間は自由で平等。誰にでも教育を受ける権利があり、妃になる権利だってあるわ。
私達は戦後、そういう世の中を目指して憲法を守り、戦前の悪習を退けて)
(戦前の悪習ですって?教育勅語が悪だったとでもいうの?ご真影が悪だったとでも?
終戦時に子供だったくせによくいうわ。
私は知っていてよ。戦前の華やかな日本の姿を。天皇陛下を敬い、皇族はそれぞれの
立場でその立場にふさわしい行動をしていたわ。そりゃ、中にはハメをはずす人も出てくる。
そういう人は自然と排除されて、皇籍から離脱したものよ。華族とて同じです。
その身分には義務が課され、果たせないなら華族をやめるしかない。
そういう厳しくも整然とした社会だったわ。
新憲法を盾に、成り上がり新興貴族ごときが語る事ではないわ)
「それが差別だというのです」
(だったらあなたはなぜ皇太子殿下と結婚したの?あなたの心の中は透けて見えてよ。
東宮妃という日本で二番目に高い地位に付きたい。自分はその資格があると思った
んでしょう?そりゃあ、そうよ。あなた程綺麗で頭のいい女性は早々いないもの。
そして財産がある娘もね。でも、皇族と言うのはそんな世俗的なものではない)
「私は皇室の伝統を大事に思っています。先の皇后陛下から受け継いだことも多々あります。
守っております」
(そう。だったらそれを皇太子妃に伝えたらどう?)
皇后は言葉を失った。高笑いが聞こえた。
「皇后陛下」
女官の声が聞こえた。
皇后ははっとして顔を上げた。
「お顔の色がすぐれませんが」
「大丈夫・・・・大丈夫よ」
皇后はそういい、一口、お茶を飲んだ。
「みー、大丈夫かい?今回事はかなりショックだったろうね」
天皇の優しい言葉にほっと胸をなでおろす。
大丈夫。私の味方はまだいる・・・・・日本で最強の人。
「陛下こそ。私の教育が至りませんで、申し訳ございません」
「もう40すぎの息子の教育云々を言われてもね。東宮は独立した組織なんだから
あちらはあちらで解決して貰わないと。
しかし、離婚は避けられないだろうね。そうなるとトシノミヤはどうなるかな。先例があるかな」
「東宮は妃を許しているのではありませんか。優しい東宮ですから」
「そうはいっても、今回のような事を許せばみなに示しがつかないのでは」
「少し、様子をみましょう。東宮がどうするか。私達が口出しをしてあとで恨まれても」
「・・・・」
天皇はどこか不満そうだったが、反論はしなかった。
どちらにしてもスキャンダルになるだろう。しかし、火の粉は最小限にしなくてはならない。
東宮を悪者にしてはならないのだ。
もし、足元から何かが崩れ落ちるにせよ、一気にではなく、なだらかに行けばいい。
その間に補強ができようから。
(イツコ様、あなたの思うようにはなりません。日本はダメなんかじゃありません。
私達は虫食いのリンゴではないのです)
強く、強く心に思った。