最初は沈黙があたりを支配していた。
部屋の中はエアコンが効いているのに寒くて
殺風景な家具が冷たく思えて。
久しぶりに夫に会ったというのに笑顔を見せるでもなく
食事の間もずっと黙っていたマサコ。
時折、妹たちとこそこそ喋る以外は完全に無視をする。
日本の皇太子にこのような態度が出来る女性は
マサコだけだろう。
そして今、二人きりで部屋にいる。
皇太子はまず「元気そうでよかった」と言った。
「みんな心配しているよ」
それに対して、マサコは「うそつき」と返した。
「うそつき。うそつき。うそつき。うそつき。うそつき。うそつき・・・・・」
呪文のように繰り返されるその言葉に皇太子は思わず体をひっこめる。
「うそつき・・・?って・・・・」
「だってそうじゃない。何でも全部うそつき。
約束が違うじゃない。そう、約束が違う。違う。違う。違う!」
「マサコ」
「外国旅行させてくれるって言ったでしょう?
私、外務省に勤めて楽しかったのよ。お父様もいるし外国にいけるし。
英語だって喋れるし、色々な特権があったんだわ。誰だって外務省に勤めていると
いえば驚くし、態度が変わるし。そういう世界だったのよ。
なのに、無理やり皇太子妃になれって言ったんじゃない。
皇太子妃になっても外務省にいた時と同じ事させてくれるって言ったよね?
そう言わなかった?マサコさんの事は僕が全力でお守りするって
言ったわよね?言ったわよね?言ったわよね?」
「・・・・・マサコ」
皇太子はうろたえてちょっと震えた。
目の前の妻が別人に見えたのだ。
「なのに何よ。結婚して10年。何回、海外に行けた?
中近東じゃ途中で帰されるし、アイコが生まれるまでは一切行けなかったし。
海外に行けると思えばこそ、嫌いな祭祀だって公務だって我慢してやってきたのに
ありがとうの一言もなくて、次から次へとあれもやれこれもやれって。
何なの?全然約束と違うじゃない。
私はハーバードを出ているの。外務省出身なの。黙って外務省に勤めていたら
いずれは出世して外務次官にだってなれたかもしれないのよ。
なのに、両陛下も宮内庁も口を開けば「子供」を産めって、そればっかりじゃない。
私だってもっと海外に行かせてくれたら、もっと自由にどこにでも行かせてくれたら
子供の事だって真剣に考えたわよ。
なのに日本の狭くて古くて意地悪な人達の中で、我慢ばかりさせられて、したくもない
公務をさせられて、産みたくもない子供を産まされて。
英語だってね。もうどれくらい喋ってないかわかる?
あなたの宮内庁が私に英語で喋るなと言うからよ。
外国の要人が来ても英語で話しかけるな。通訳がいるんだからって。
しかも、お天気と芸術の話しかするなって。私をなんだと思っているのよ。
子供なんかほしくなかったのに、産め産めって。産んだらうんだで女だから
次は男を産めって。私をなんだと思っているの。この嘘つき。嘘つき。
大嘘つき」
マサコの頬からはポロポロと大粒の涙が零れ落ちた。
顔がぐしゃぐしゃになってもマサコは泣き続けた。
「外務省にさえいたらこんな思いはしなかったのに。
こんな・・・・こんな侮辱、受けなかったのに。もっと幸せだったのに」
皇太子は呆然とマサコを見た。
それから自らも大粒の涙をこぼし始めた。
「ごめんなさい。マサコ。君がそんなに傷ついていたなんて」
時折しゃくりあげるマサコと、泣き声の皇太子の声は、まるで
何かにとりつかれているようだった。
「ごめんなさい。本当にごめんね。僕が皇太子なばっかりにこんな目にあわせて」
「あなたなんか学歴もないし、背も低いし、皇太子ってだけじゃないの。
私以外の誰が結婚してくれたと思うの」
「うんうん。その通りだ。マサコの言う通りだ」
「なのに何で私を大事にしないのよ。10年もこんな目に合わせて」
「本当にすまないと思ってる。元々皇室育ちの僕には一般から入った君を
理解することが出来なかったのかも。弟の所がすんなりやっていたから」
「あっちは好きで結婚したんじゃない。しかも学生結婚でしょ。貧乏育ちだから
欲がないのよ。おいしいものを食べたいとか思わないんだわ。
私の一番嫌いな人種よ。そんなのがいつもそばにいるなんて耐えられない」
「わかったよ。アキシノノミヤ家とは金輪際仲良くしないから」
「両陛下だってすかした顔しちゃって」
「すか・・?」
「人を馬鹿にしてるっていうのよ。何でもかんでも宮内庁の言いなりで
私がせっかくアイコの教育の為に公園デビューしただけなのに、
ぐずぐずと。言いたい事があるなら直接言えばいいじゃない。
なのに遠回しに、何となくみたいな雰囲気で。
そういうの嫌いなの。大嫌い」
「うんうん。その通りだ」
マサコの怒りがおさまるようにしたい。けれど、皇太子はどうしても彼女に
言わなくてはならない事があった。
恐る恐る口を開く。
「今回のヨーロッパ歴訪は一人で行かなくちゃいけないんだよ」
「何ですって?」
マサコは皇太子を睨み付け、思わず立ち上がった。
「何で?何でよ」
「だって君はこんな状態だから。相手国に迷惑はかけられないから」
「迷惑ってなによ。私が最初から行かないという方向で考えていたんじゃないの?」
「だってそれは」
「私、行くわよ。ヨーロッパには行くもの」
「マサコ。今回、一人で行くというのは最初から決まっていた事じゃないよ。
ぎりぎりまで二人で行けるかどうか宮内庁は検討していたんだよ。
でも、君の状態では公式行事には出られないだろう?晩さん会とか会見とか
普通に出来る?」
「出ないもの。私だけ別行動でいいもの」
「そういうわけにはいかないよ。皇族の外国行きというのは相手国からの
招きがあって出来るものだし、社交辞令とか・・・」
「私が礼儀知らずだっていうの?」
「そうじゃないよ。そうじゃないけど、今回は荷が重いだろうと」
「じゃあ、次はいつ行けるの?外国にいつ行けるの」
「それは・・・わからないけど」
「あなた一人でいい思いをするんでしょ?私を日本に残して。こんな牢獄みたいな
場所に残して。それでも夫なの?そもそも一人で行くって決めた宮内庁って
何様よ。なんのつもり?私達より偉いわけ?」
そう言われてみると皇太子ははたと答えられなくなった。
今まで「公務」というのは宮内庁が決めて、その通りに動くものだと教えられていた。
そもそも自分の周りにいるのは全員「宮内庁職員」なのだから。
下手に逆らったりして困らせたりしてはいけないと教えられてきた。
でも、マサコの言う通り、よくよく考えたらおかしいのではないか。
「皇室」の長は天皇である。そして皇太子は後に天皇になる人間だ。
さすがの宮内庁も天皇の意志を無視するわけにはいかない。
「思し召し」として宮内庁に意志を表明したら、たいていはそうなる。
では東宮はどうなのだろう?
今まで、あまり考えた事がなかったけれど、そもそもマサコの怒りの根源は
「思い通りにならないこと」なのではないか。
目の前のマサコは怒りを抑えられないようだった。
ぎゅっと握りしめた両手が真っ白になっているし、始終、ソファの皮をひっかいている。
時々、ソファをばんばん叩くのだが、これがもし机だったら大きな音がするだろう。
「自分だけいい思いをして。ずるいずるい・・・ずるい・・・」
わあっとマサコは声を上げた。いわゆる「号泣」状態だ。
皇太子はどうしていいかわからず固まってしまった。
「マサコ、いい加減にしないか」
ドアがいきなり開いて、入って来たのはヒサシだった。
「皇太子殿下が困っておられる。それが皇太子妃のとる態度なのか」
父の言葉にマサコはびくっとなって泣くのをやめた。
けれど、怒りの目は収まらない。
「お父様の言う通りにしたからこうなったのよ。お父様のせいよ。
お父様が悪い」
マサコは突然わめきだし、父親に突っかかっていく。
「ちょっと、まあちゃん!」
慌ててユミコが止めに入る。びっくりしてかけつけた妹達も姉の様子に
ただならぬ空気を察して、皇太子をソファから立たせた。
ヒサシは娘の頬をばしっと叩いた。
そのぱしっという乾いた音と一緒に時間が止まったかのようだった。
マサコは呆然自失で立ちつくし、赤くなった頬を抑えている。
ユミコは「あなた、ひどい」と言いながらマサコを抱き寄せる。
「マサコを部屋へ連れて行きなさい」
ヒサシは低い声で言った。
回りは逆らえなかった。
ユミコに付き添われてマサコは部屋を出ていく。妹達もそれに従った。
「いや、お見苦しい所をお見せしましたな」
ヒサシは悪びれもせず言って、皇太子に座るように促した。
皇太子は小さな子供のように椅子に座り、うなだれた。
「お許し下さい。娘は情緒不安定なのです」
「ええ・・全部、僕が悪いんです」
「いやいやとんでもない。皇太子殿下は何も悪くない。悪いのは娘ですよ。
あのようにわがままな娘に育ってしまって面目ありませんな」
「・・・・・」
「しかし。このまま東宮御所に帰っても結果は同じなのではありませんか?」
「え?」
皇太子は何を言っているのかわからず、きょとんとした顔でヒサシを見た。
「マサコが申した通り、宮内庁が皇族の上にいるようでは殿下の権威が傷つけられると
申しあげているのです。殿下はもう40も超えて立派な大人。
いつでも即位出来る程のお力をお持ちです。
なのに、いつまでも宮内庁のいいなりでは。
いや宮内庁というより両陛下のいいなりでは
殿下御自身、面白くないのではありませんか?」
「ええ・・・まあ。でも僕はこの通りの人間ですから。両陛下のおっしゃる事には・・・」
「弟君は」
ヒサシはにやりと笑った。
「弟君はいくつ総裁職を引き受けておられましたかな」
「さあ・・・10くらいかな」
「そう。10以上名誉総裁職を引き受け、しかも皇室会議予備委員でいらっしゃる。
しかし殿下は赤十字だけでしたな。予備議員選挙にも落ちた・・・・」
皇太子は言葉が出なかった。体中のプライドがズタズタに切り裂かれていくような
恐ろしさと痛みと苦しみが襲ってくる。
「なぜそんな事になっているかご存知ですか」
「僕はいずれ天皇になる身ですから、別に総裁職は・・・・」
「陛下が今日明日中に亡くなられるというならそれはそうでしょうが」
ヒサシの言葉はぬめっている。ぬめぬめしたヘビのように体を締め付けてくる。
「皇室会議予備議員選挙に落ちたという事は、
それだけあてにされていないという事です。
総裁職を沢山引き受けているアキシノノミヤは
国民と接する時間も多く、
それだけいい印象を残すでしょう。
しかし、皇太子である殿下はなかなか人となりが
見えない。
このままではアキシノノミヤを皇太子にしようという動きが出るかもしれません」
「そんな事はありませんよ」
皇太子は弱弱しく言った。
「なぜそう言い切れるのですか?先帝の時にも弟のチチブノミヤを
皇位につけようという動きがあった事、御存じでしょう?
あの時の先帝には男子の世継ぎがいなかった。
今の殿下と同じです。
男系男子の伝統がある限り、殿下のお子であるアイコ内親王は
皇太子になれませんし、天皇にもなれません。それでいいのですか」
「いや・・・それは」
問題の核心にきて、皇太子はうろたえた。
自分でもアイコの処遇についてはわからなかった。
一人の内親王として幸せに育って欲しい。出来るなら身の丈にあった生活を・・・と望む。
けれど、この義父はそれではアイコは幸せになれないというのだ。
「東宮家のお子なのに女というだけで弟君の後ろを歩くような事になってもいいのですか。
殿下御存命中はそのような事はないでしょうが・・失礼ながら順番からいえば
殿下亡きあと、残されたマサコと内親王がどうなるか。皇居に住む事も出来ず
古い大宮御所の中に閉じ込められるんですよ。
皇位継承権を持たない内親王とその母がどうなっても宮内庁的には困らないでしょう。
世の中はすっかりマサコとアイコを忘れるでしょうね」
「そんな・・・・」
「私はそれを考えると悲しくてね。死ぬに死ねない気持ちですよ。せめて生きている
間に娘と孫の行く末をはっきりとさせておきたい。それが正直な気持ちです。
殿下は違いますか」
「僕だって同じ気持ちです」
「宮内庁は殿下とマサコを離婚させたがっていますね」
「え?・・・・ええ・・・・」
皇太子はなんと答えたらいいのかわからなかった。
離婚したがっているのはマサコの方だというのが宮内庁の見解の筈だが
今のヒサシの言葉で、むしろ宮内庁が必死にマサコを皇室から追い出そうと
しているのではないかと思われた。
「そんな事させません。絶対に」
「しかし、マサコが今の状態では東宮御所に帰っても同じです。
また同じことをしでかすでしょう。今度こんな事をしたら本当に・・・・」
「ではどうしたら」
「殿下にもう少し権力と言うものがあれば」
「権力」
「そう。権力です。あなたは皇太子。やがて天皇になるのです。天皇というのは
この日本の中でもっとも権威ある立場。しかしそれだけではいけません。
権威だけでは今回のように、本人の意思に反して公務を宮内庁が決めてしまう
という事になるのです。誰がどこに行くか、ご自分で決められる立場にならねば。
そうでしょう?」
「ええ・・・ええ。本当にそうですね」
皇太子は大きくうなずいた。
「宮内庁は殿下を一人前の男として扱っていないのです。そんな事が許されますか。
あなたは皇太子殿下ですよ。将来の天皇ですよ。
殿下はすでに家庭を構えて主でいらっしゃる。なのに、いつまでも子供のように
扱われていいわけがない。無論、宮内庁にそうさせているのは両陛下でしょう。
両陛下にとって殿下はいつまでも幼きわが子。
殿下、それでよろしいのですか?」
「いいえ」
「だったら私と考えましょう。私にとって殿下は大切な婿。敬愛の対象です。
娘よりも大切な存在なのです。私が殿下にして差し上げられるのは、東宮の長として
そして未来の陛下としてのゆるぎない地位を作って差し上げること」
ヒサシの声は小さくなったり、時に大きくなったり。そのトーンが変わるたびに
皇太子は頷き、「はい」と答え、みるみるうちに表情が明るくなる。
「お義父さん・・・と呼んで構いませんか」
「ええ。勿論です。私もナルヒト殿と呼んで構いませんかな」
「はい。名前で呼ばれると嬉しいです」
「ではまず・・・・・・」
その夜、深夜まで皇太子とヒサシの話し合いは続いていた。
蚊帳の外に置かれたマサコが憐れでもあった。