皇太子が帰国して、東宮御所に着いた時
重苦しい雰囲気に戸惑ってしまった。
マサコが出迎えていないのは予想がついたが、侍従も女官も
顔つきが暗くて言葉が少ない。
アイコは父親が帰って来ても嬉しそうな顔をするわけでもなく
何事かつぶやいている。
それでも皇太子は可愛い娘を抱き上げ、広々としたリビングに入った。
「お土産があるんだよ。デンマーク産のチョコレート」
彼は自らチョコレートの包みを開ける。
「すごい。これ、一体、何キロあるの?」
マサコは嬉しそうに言う。
「2キロくらいかな。まとめて買ったからレイコさんやセツコさんの所にあげるといいよ」
甘いものの匂いを嗅ぎつけ、アイコは早速手にとる。
紙の包みをあけてやりながら、少し旅の思い出話をしようかと思った時だった。
「東宮大夫が接見を希望している」という知らせが入った。
「じゃあ・・・」と言いかけた皇太子にマサコは「会う事ないわよ」と言い放った。
「え?どうして?」
「あのね。今、日本はあなたが出国前にやった人格否定発言で大騒ぎになってるのよ」
マサコはありったけの新聞を持ってこさせ、広告欄を見せた。
そこには、「皇太子の人格否定発言は是か非か」というような文言ばかり並んでいる。
皇太子は顔色を変えた。
「どうしよう。東宮大夫はきっとこの事で話をしたいと言うんだろうね」
「そうでしょ。多分」
「何を言われるんだろう。こんなに大騒ぎするなんて思っていなかったもの。
お義父さんに聞かないとダメだろうね。でもその前に東宮大夫に会わないと。
ああ、きっと参内したら陛下からも言われるよ。僕はなんと答えたらいいんだろう」
「だから会う必要はないって言ってるでしょ」
マサコはチョコレートを口に運びながら言った。
「そんな事言ったって」
「東宮大夫だけじゃないわ。侍従長だってびっくりして、すぐに皇居に飛んで行ったのよ。
あの人達、両陛下から色々言い含められているに違いないもの。だから
会わなくていいの。断りなさいよ」
「そんな事」
「出来るわよ。あなた、皇太子でしょ?やりたくない事はしなくていいし、
会いたくない人とは会わなくていいの。あなたの立場はそれだけの力を
持っているわ」
マサコなりに夫の身を案じて言ってるようにも聞こえるが、皇太子にしてみれば
今まで自分にそんな事を言う人はいなかったので、さらに驚くやら気が楽になるやら。
「そ・・そうか。負担だって言えばいいんだね」
やっと皇太子は一息ついた。
しかし、ふと天皇の顔が浮かんでくる。するとがたがた震えて来た。
「どうしよう。陛下には何と言ったらいいんだろう。きっと叱られるよ」
「叱られるって・・・あなた、そんな叱られるような事を言ったわけ?」
マサコは馬鹿にしたように言って、少し皇太子から離れた。
「あの人格否定発言は間違ってると思ってるの?思ってるんなら謝ったらいいじゃないの。
あの発言は撤回しますって」
「いや・・そういうつもりじゃ」
「じゃあ、何なのよ。悪いのは皇室でしょ。私は皇室のせいで自分のキャリアを棒に振ったのよ。
本当は今頃、外務省でずっと上の地位についていたかもしれない。
外国にだって何度も行ってた筈よ。
なのに、あなたが結婚してくれっていうから断れなかったんじゃない。
あなたが皇室でも皇室外交があるんだからって言ったから」
また堂々巡りの話である。
しかし、皇太子は真面目にうんうんと頷いた。
「そうだよ。だからこそ、僕はああ言ったんだ。間違ってないよ。わかった。
陛下にはちゃんと言うよ。言うから」
とりあえず、東宮大夫には会わない事にした。
翌日、参内した皇太子に天皇は矢継早に質問を投げかけた。
「なぜあのような発言をしたのか。その意味は?何を言いたかったんだ?
どうして欲しいのか?誰があのような発言をさせたのか」と。
皇后は「帰って来たばかりで疲れているので」と皇太子を庇ったが
天皇は容赦しなかった。
ヒロノミヤと呼ばれていた時からこの子は、何かあれば母親の陰にかくれる。
言葉に真実がないというか、行動に責任がないというか。
皇太后の葬儀の時もそだった。
突然、「夏バテ」などと言い出して葬儀を欠席すると言った妃の事情を
皇太子はろくろく説明する事も出来ず、しかも面倒な事務手続きは全部
弟と妹に任せきりにしたのだった。
皇太子は大きく息を整えた。
そして、心配げに見守る母をみやり、まっすぐに父に向かった。
「そもそも、「動き」というのはどういう事なのか。キャリアや人格を否定する動きとは
どういう事なのか」
「言葉通りです」
「誰か」
「誰って・・・思い当たる人は沢山いるんじゃないでしょうか?
結婚して以来、外国訪問はほとんど許されていませんでしたし、皇太子妃は慣れない
皇室のしきたりに戸惑って苦しんでいました。
もっと丁寧に教えて下さればいいのに、こんな事も知らないのかといった態度をされ
マサコは傷ついたと言っています。
些細なこと、例えば食事会の時にアキシノノミヤ妃が陛下のコップの水を取り替えた
くらいで気が利くとおっしゃったとか。そういうこれみよがしな所に傷ついたんです。
まるでアキシノノミヤ妃は気が利くけど自分はそうじゃないと責められているようで
辛かったと。
先に入内した方がもっと気を利かせて皇太子妃をたてるべきだったんじゃないでしょうか。
ノリノミヤもそういう意味では姉をないがしろにしていたんじゃないかと思います。
歌を作る事一つとったって、得意か不得意かという事がるのに、殊更に注意されたら
誰だって嫌になります。和歌の家に生まれたわけじゃないんですから。
外国要人とだって、好きに会話をさせて貰えず、やれプロトコルがと。
マサコはたった一つの特技さえ生かせないまま10年を過ごしました。
それだけじゃありません。早く世継ぎを産めとそればかり。
その為に外国旅行を制限されたり、プレッシャーを与えられたり。どれだけ苦労したか。
たっとアイコを授かったのに、今度は男の子じゃないとダメなんて。
僕は男ですから出産の大変さはわかりません。そのあたりは皇后陛下の方が
御存じなのでは?
気軽に女性に子供を産めと言えるものなのでしょうか」
一気にまくしたてて皇太子はほっとした。
マサコに「言う時は間髪入れずに言い続けること。相手は圧倒されて
何も言えなくなるから」と言われていた通り、天皇も皇后もあっけにとられて
暫く言葉が出なかった。
「皇族の一番の役目は世継ぎを得ることだと皇太子妃は理解していなかったのか」
天皇が静かに言った。
「無論理解していましたが、そればかり求められたらおかしくなるじゃないですか」
「いつそればかり求めた?誰が求めたんだ?」
「宮内庁です。だから外国訪問が許されなかったんでしょう?」
「世継ぎを産む事と外国訪問と何の関係が」
「とにかく、マサコはもっと外国に行きたかったんです!なのに世継ぎを産む事を
優先した宮内庁が悪意を持ってそれを阻止しました」
決めつけに天皇は絶句した。
「だったらなぜもっと早く不妊治療を始めなかったのですか」
横から静かに皇后が口を挟んだ。
今、皇太子は宮内庁を悪者に「しているが、それはみせかけで
本心は自分達へ意見しているのだという事はわかった。
だが、普段、宮内庁の職員は忠実に自分達に仕えてくれている。
彼らを悪者にするわけにはいかないのだった。
「皇太子妃はブライダルチェックを拒否しました。また3年経っても
医師の診察を受けようとしなかった。それはすぐに子供が授かると見込んでの事
だったのですか?」
「そんなプライバシーに関する事を第三者にあれこれ探られるなんて
嫌に決まってるじゃありませんか。
マサコは日々の体調をいちいち聞かれる事も負担だと言っていました。
女性なら当然のことです。皇后陛下はそうではなかったのですか?
女性なのに妃の気持ちがわからないのですか」
「皇族にプライバシーなどない」
「だったら」
皇太子はつい勢いあまって、決定的な事を口にしてしまった。
「そんな皇室が間違っているのです」
「な・・・・」
天皇は言葉を失った。
「個人のプライバシーを尊重すること、それが僕達のめざす皇室です。
回りからあれこれ言われたくないんです。
時代に即した公務というのは、そういう事です」
どういう事なのかさっぱりわからない。
結局、挨拶はそこで途切れた。
仕方ないので天皇は「文書」で今回の事を釈明し、広く国民に伝えるようにと
言ったが、皇太子は動かなかった。
彼にしてみれば、出国前に言い放った言葉で全て終わっていたのだった。
それが始まりとは思ってもいなかった。
一方、皇太子に面会出来ない東宮大夫や長官はイライラして日々を送る。
宮内庁記者会からは「どうなっているんですか?皇太子の言葉の真意は?」と突っ込まれ
「まだお目にかかれていない」というのは精一杯。
「それって宮内庁が悪いんですよね」と責められても
「精一杯殿下の意に沿うように努力する」と言うしかない。
天皇も皇后も東宮大夫や長官が責められて苦労している事は知っていたが
今、下手に東宮御所に手を出せば、何を言われるかわからず・・・・
一応、息子のプライドを傷つけないようにしようとする配慮だった。
東宮大夫からの再三の連絡に、ある時、直接マサコが電話に出て
「説明しろですって?そんな事いうなら皇太子妃をやめてやるわ!」と
言って受話器をがちゃんと置いた。
驚く傍らの皇太子に「言ってやったわ。いい。これくらい強気にならないとダメなの。
だって宮内庁の連中なんて目下なのよ。召使なんだもの。
あなたは皇太子。私は皇太子妃。この東宮御所の中では一番権力があるの。
そして将来は日本で一番の権力者になる筈よ」
「日本で一番の権力者。総理大臣じゃないのに?」
「ばかね。総理大臣がひれ伏す。それが天皇でしょ。私達の意見が通るか通らないか
試してみる?」
マサコはにやりと笑った。
日本は東宮家の味方だった。
どの雑誌も新聞もこぞって東宮夫妻の味方をした。
「皇太子殿下は婚約記者会見の約束を守った」
「皇太子殿下の深い愛は素晴らしい」
「皇太子妃があんな状態になったのは旧弊で堅苦しい皇室のせい」
「籠の鳥になった皇太子妃の悲劇。繰り返される悲劇。皇后様もかつて
心を病んで葉山へ長期静養を余儀なくされた。心無い皇室のせいで」
「宮中のマサコ様いじめ」
かまびすしい報道の裏で
「皇族にはプライバシーなどないし、そもそも人権などない」と
少数派が叫んでみても、かえって敵を作るばかり。
「マサコ様の状態は何なんですか?」
あまりに発表がない事でマスコミは騒ぎ、しかし東宮大夫は
「病気というとらえ方は出来ないかと」と答えるのみ。
じゃあなぜ公務をしないのか。祭祀をしないのか。
「やりがいのない公務はマサコ様のキャリアには勿体ない」
「祭祀は理論的な整合性がとれないのでやりたくない」
「檀上に上がるだけ、手をふるだけの公務はやりたくない」
「時間にしばられるのは負担」
と次々と女性週刊誌が報道し、
「外出もままならない可哀想な皇族のマサコ様」と持ち上げる。
「マサコ様は私達国民の為に、ご自分のキャリアを捨てて皇室に嫁いで
下さったのに」
はては「マサコ妃の悲劇は日本中の女性の悲劇」とまで言われ・・・・
ジェンダー問題にまで波及した。
日本中の女性を味方につける週刊誌のやり方は成功した。
皇后とマサコを一緒に述べる事でさらに正当性を増した。
きちんと公務に励むキコは「次男の嫁は気楽だし、好きで皇室に嫁いだのだから
適応できて当然」と繰り返し言われる。
アキシノノミヤ家では週刊誌を読まないようにしたが、それでも新聞の刻刻欄までは
塗りつぶせず、笑顔を保つキコを誰もが気の毒に思った。
そんな時、イギリスの新聞がとんでもない話を報道した。
「皇太子夫妻は天皇と皇后が死ぬのを待っている」
この報道には宮内庁が反発。訂正を求めたが、誰もその記事の
真偽を確かめようとはしなかった。
そうこうしている間に今度はドイツ紙が
「アイコは自閉症」と報道したのだった。
日本と海外の間に事の真偽に関する温度差がある事を日本人は
全くわかっていなかった。
ただただ「中傷」と受け止め、宮内庁はまたも「訂正」を求める。
東宮大夫が
「全くの事実無根で不本意だ」とコメントしたが、内心は
「ああいっそ、事実と認める事が出来たら」と思っていた。
しかし、「事実無根」「不本意」とまで言ってしまったからには
その証拠を見せなくてはならなかった。
証拠・・・・など、本来は見せようがなかったのだが。