10月は秋・・・ではあるが東京は紅葉とはほど遠い。
もうすぐ皇后誕生日の御所の庭だけが何となく秋めいているようだ。
オワダ邸の殺風景さは今に始まった事ではない。
コンクリート打ちっぱなしの冷たい外観。そしてかきねすらない庭。
リビングに咲くチョウセンアサガオ・・・これは10年前と変わっていないようだった。
「誰にも見つからずに来たか」
ヒサシは玄関からそっと入ってきたマサコに向かって言った。後ろからはレイコと
その子供も入ってきた。
「大丈夫」
マサコはそういって、アイコを出仕に預ける。
レイコも当然のように自分の子供をあずけた。
出仕のフクもまた当たり前のようにアイコとその従兄弟を預かると
別室に消える。
「まあ、万が一ばれてもエガシラのばあさんの見舞いだと言えばすむからな」
ヒサシはサイドボードから高級なウイスキーを出した。
グラスを3つ並べて注いでいく。
エガシラ家のスズコの具合が悪いのは事実だった。
具合が悪いというより、ついに「お迎え」が来ているだけなのだが。
それでユミコはスズコがいる病院に詰めていて留守にしている。
そう、長くはないという事でヒサシも帰国しているのだった。
「おばあちゃま、大丈夫なの?」
マサコは聞きながら父の目の前に座った。
高級な家具を置いてあるわりに少しも温かさを感じないのは、オワダ夫妻達が
すでにこの家に住んでいないからか。
それでもわざわざ皇宮警察に頼んで警備をさせている。
そういう事が「無駄」だとか「身分不相応」などとは思わない一族だった。
「ばあさんはもう歳だ。いい加減お迎えが来ても文句は言わないさ。後にじいさんも
控えているんだから」
ヒサシはウイスキーを一口飲んだ。
結婚してからこの方、エガシラ夫妻に親近感を感じた事などなかった。
一人娘を貰ってやったが息子を産んでくれなかったユミコ。エガシラ家に
子供はユミコ一人だった事をもっと考慮にいれるべきだったか。
散々金銭的に世話になっておきながらも「チッソの娘を娶ってやった」くらいにしか
思わないのがヒサシだった。
「だがな。人の死というものは一つのハク付けにはなる。死んでどんな葬儀をして
貰えるかでその人間の格が決まるというかな。
エガシラのばあさんは皇太子妃の祖母として死ねるんだから幸せだ。せいぜい
大きな花と供物を頼むよ。そうだな。記帳所をもうけさせるか」
「当然よね」とレイコが言った。
「イケダ家も、おばあちゃまの葬儀が大がかりだったらきっと驚くわよ。私を見る目が
かわるはず」
「なんだ、レイコ、婚家で苛められてるのか?」
「そういうわけじゃないけど。こっちだって大変なのよ。お姉さまのご病気は色々面倒だから」
「適応障害と命名したじゃないか」
ヒサシは笑った。
「それに一役買ったのはお前の夫だろうが」
「夫はいいのよ。夫は。でも舅とかね。まあ、私の事はいいの。息子を産んであげたんだし」
「なによ。それ、私への嫌味?」
マサコは露骨に嫌な顔をした。この妹は時々毒を吐く。
「あら、ごめんあそばせ。うちは皇太子殿下みたいな高貴な夫じゃないもので」
「私が何に傷ついているかわかってていうわけ?」
「だから謝ったでしょ」
「二人ともやめないか」
ヒサシが声を荒げたのでマサコとレイコは黙った。
「アイコの様子は相変わらずなのか。医者には見せてるのか。オーノは何といってる」
「お父様。オーノ先生は精神科のドクターで小児科じゃないわよ」
またもレイコが口を挟む。
「だからオーノを通してそっちの権威を探すとか」
「もう探したわよ。だけどなかなか秘密を守れる医者がいなくて。とりあえず
有名所の発達障害のドクターはおさえたわ。それから、青山にある
リトミックの教室に通わせるわ。頭の発達にいいとかなんとか」
「絶対に治らないのか」
「そうらしいわね。ナルもみんなもアイコがあんなだっていうのにのんきすぎて
やってられないわ。あの人、おばさん達もああだから気にならないのね。
でも私は無理。とても受け入れられそうにない」
「まだ国民に真実を・・・などとほざいているのか」
「宮内庁はそういうスタンスよ。でも私は絶対に嫌。どうしてそんな事、はっきりと
言わなくちゃいけないの。全然わかんない。こうなったのは全部ナルの血筋なのに
あの人達は私に謝りもしないのよ」
マサコはぶすくれて茶色い液体を飲み干した。
全く・・・とヒサシは思う。
アイコが生まれてもうすぐ3年だというのに、いつまでも同じ事で文句を言う。
だが、下手に叱り飛ばすとまた軽井沢のような事が起こりかねない。
結果的になだめすかす方法しかとれないのだ。
「まあ、彼は彼なりだろう。しかし、せっかく爆弾発言したのに、その後の対応が
悪すぎたな」
例の「人格否定」発言以後、宮内庁や天皇から再三にわたって
「説明を」と言われ、皇太子はどうこたえていいかわからず、右往左往していた。
今まで記者会見の原稿などはノリノミヤに聞いて書いてもらったりしていたので
自分の「意志」としての発言が波紋を呼び、しかも自分で責任を取らなくては
ならない事態というのに対応できないのだった。
説明を・・・・と言われても実は答えようがない。
結果的にヒサシに相談し、やっとひねり出した言葉は以下の通り。
「記者会見では雅子がこれまでに積み上げてきた経歴と,その経歴も生かした人格の大切な部分を
否定するような動きがあった,ということをお話しました。
その具体的内容について,対象を特定して公表することが有益とは思いませんし,
今ここで細かいことを言うことは差し控えたいと思います。会見で皆さんにお伝えしたかったのは,
私たちがこれまで直面してきた状況と今後に向けた話です。
記者会見以降,これまで外国訪問ができない状態が続いていたことや,
いわゆるお世継ぎ問題について過度に注目が集まっているように感じます。
しかし,もちろんそれだけではなく,伝統やしきたり,プレスへの対応等々,皇室の環境に
適応しようとしてきた過程でも,大変な努力が必要でした。
私は,これから雅子には,本来の自信と,生き生きとした活力を持って,その経歴を十分に生かし,
新しい時代を反映した活動を行ってほしいと思っていますし,
そのような環境づくりが一番大切と考えています。
会見での発言については,個々の動きを批判するつもりはなく,
現状について皆さんにわかっていただきたいと思ってしたものです。
しかしながら,結果として,天皇皇后両陛下はじめ,ご心配をおかけしてしまったことについては心が痛みます。
皆さんに何よりもお伝えしたいことは,今後,雅子本人も気力と体力を充実させ,
本来の元気な自分を取り戻した上で,公務へ復帰することを心から希望しているということです。
雅子の復帰のためには,いろいろな工夫や方策も必要と考えますし,
公務のあり方も含めて宮内庁ともよく話し合っていきたいと思っています。
多くの方の暖かいお励ましに,私も雅子もたいへん感謝をしています。
雅子が早く健康を回復し,復帰できるよう,私自身も全力で支えていくつもりです」
最後に,雅子の回復のためには静かな環境が何よりも大切と考えますので,
引き続き暖かく見守っていただければ幸に存じます」
要するに
「何であんな発言をしたのかと理由を説明する必要はないと思う。マサコは皇室の
環境に適応できないのだから皇室が変わるべきと思う。
今後はマサコの好きなようにやらせようと思うので文句を言わないで欲しい」
という事を言いたいが為の長々とした文章だったのだが、皇太子の言葉で語ると
本当にソフトで、意味不明に見えてしまう。
ヒサシからすればそれは「特技」だ。
本当に言いたい事が何であるかぼかしながらも、文章だけは整っている。
こんなに都合のいい話はあるだろうか。
皇太子の文章はわかりにくい。わかりにくいが国民はそれに文句をつける事すら出来ない。
なぜなら、意味がわからないから。
そう考えると笑えてしょうがない。ヒサシは一人でくくと笑いながら
「まあいいさ。あの人格否定発言は大きな意味があった。これでもう誰も文句は言わない。
マスコミも同情的。要するに悪いのは皇室なのだと印象づけられたから。
戦というのは先手必勝。そしてイメージ操作が一番大事なんだよ。
私はこれを中国から学んだな」
酒が入ったのか、ヒサシはここで壮大な陰謀の中国史を語り始め、娘達は
いささかうんざりした。
だが、いつまでも無駄話をしているヒサシではなかった。
ころあいをみて本題に入る。
それは今後の戦略だった。
「人格否定発言」によって、マサコは悲劇のヒロインになった。
かつての「ミチコ妃いじめ」のように、国民の同情を一手に集めている。
あとはアイコの事だけなのだ。
これも、「プライベート映像」を出した事で一つの結果が出ている。
誰もあれを「替え玉」とは思うまい。
この調子で何度か映像を出せば・・・・その間に世論を「女帝容認」へ持って行く。
「女帝を立てる為には皇室典範の改正が必要だ。しかし政治家どもはこれに
触るのを嫌がる。だから、お前が病気になった原因を皇室の「男女差別」に
置きかえれば国民の世論を盛り上げる事が出来る。
総理には話しておく。まあ、あのコイズミは皇室には無関心だ。
だからこそ頼もしい。アイコの事だってろくに見もしないだろうから
典範改正に向けてスタートするのは簡単だ。
だが、何とかその流れが出来るまでにアイコを人前に出せるようにしておけ」
「しておけといわれても・・・・」
マサコは口ごもった。
「そうねえ。アイコちゃん、この間、参内するのを嫌がって車に乗らなかった事があった
でしょう?そういう事が続くといつかは気づかれるわ。ただでさえドイツの新聞でしたっけ。
自閉症の事を書いてたって」
「ドイツなんぞほっとけばいい。もう書かせん」
ヒサシは吐き捨てるように言った。
「なんでぐずった?女官がいるだろうに」
「知らないわよ。突然嫌がって・・・あの子、そういう時はものすごい力を出すの。
しかも、一旦嫌だってなるとてこでも動かないし。そういう病気なんだから仕方ないじゃない」
マサコは酔いもあってイライラしはじめる。
それを察知したレイコは
「アメリカの新薬って手もあるしね」と助け舟を出した。
「アイコちゃんの事は何とか隠せばいいわよ。いくら両陛下だってアイコちゃんの
両親が言う事に口なんか出せないわ。お姉さま達も皇居に行かなければいいんじゃないの?」
「そうだな・・・せいぜい機嫌をそこねない程度に参内を控えておけ」
「うん」
マサコはうつむいた。
そんな娘を見てヒサシはため息をつく。
一体、どこまで続くのか、この長い道は。
ヒサシの最終目的は「天皇の祖父」になる事だ。
かつての藤原氏のように「外戚」として権力を振るう。
なぜ権力が欲しいのか。それは金だ。力だ。
かつて先祖が貧しさと出自によって貶められた恨みをはらすためだ。
澱のように心にたまっている「コンプレックス」を根こそぎ抜き取るには
是が非でもアイコの即位が必要だ。
アイコの即位・・・・それを見る事が出来ないのならせめて「立太子」だけでもいい。
皇太子の祖父でも構わない。
「皇后の父」「皇太子の祖父」やがて「天皇の祖父」となれば、この赤坂東宮御所も
堂々と自分の居城と出来るだろう。そしたらこの屋敷は双子のどちらかに与えて
いや、それとも新しく家を買うか。
イケダもシブヤもそこそこの資産家だが、「天皇の親戚」としてふさわしい格をつけて
やらなくては。
マサコとアイコを支えていくのはイケダ・シブヤの両氏なのだから。
そんな不敬な事を考えるのが好きだった。
そんな事を考えていると現実を忘れる・・・・・・
オランダで国際裁判所所長の地位にありながらも、実際は「まだ辞めないのか」と
思われている事。
椅子に菊の紋をつけてみたが、あまりしっくり感じない事。
それどころか、裁判官の連中は敬意を払いもしない。
そして何より頭にくるのは、ヨーロッパの社交界が自分を受け入れない事だ。
国際司法裁判所の所長であり、皇太子妃の父だというのに!
会員制のクラブやゴルフ場は、至極丁寧に「お断わり」を入れる。
理由は「紹介がないから」だというが、誰に頼んでも「ええいいですよ」と言われるだけで
実際には紹介してくれない。
日本人だからバカにしているのか。
やはり戦前の日本の行為が全てのガンなのかもしれない。
これに対抗する為にはやはり「金」なのだ。
金と権力なのだ。
「マサコ、宮廷費は毎年全部使い切る必要性があるんだろう?
少し融通してくれないか」
ヒサシは小さい声で言った。
「え?」
マサコはちょっと驚いたように聞き返した。
「お金がないの?」
「いや、ないわけじゃない。しかし、国際司法裁判所の所長ともなると
色々物入りなんだ。コネを作ったり権力を得る為に。
いくらあっても金は足りない。私が高い地位についていながらみすぼらしい恰好を
していてもお前は平気か?
ヨーロッパの連中は家柄もよく、財産家ばかり。
しかし私は一代でここまでのしあがってきたのだからなあ。
まあ、うちは金がないので酒を飲みにいけません・・・・とは言えない。わかるだろう?
皇太子妃の父親なのに欧州の特権階級と肩を並べる事が出来ない悔しさが」
「わかった・・・・・」
マサコは素直に頷いた。
「私だってお父様がそんな目にあっているなら助けたいと思うわ。
でも東宮のお金を管理しているのは宮内庁なの。どうやってお金を引き出すの?」
「それは私が教えようじゃないか」
ヒサシはにやりと笑った。
「よく覚えておくといい。金というものは使あるところにはある。そして
それを使えるのはごく一部の選ばれた人間だけだ。
一度、それを得ればスロットマシンのように金は出てくる。ざくざくと。
その方法を教えよう」
娘達はごくりとつばを飲み込んで父の方に顔を向けた。