昭和天皇実録刊行に関して。昭和天皇との思い出
「昭和天皇実録は宮内庁書陵部が中心となって多くの資料に基づき編纂(さん)したもので,
完成までの苦労には計り知れないものがあったと察しています。
携わった関係者の努力に深く感謝しています。
これから折にふれ,手にとり,御事蹟(せき)に触れていくことになると思います。
このことは大変に困難な時代を歩まれた昭和天皇を,改めておしのびするよすがになろうと思っています。
昭和天皇との思い出については様々なことがありますが,
夏の那須の附属邸に滞在していて,御用邸に滞在していらっしゃる昭和天皇,香淳皇后をお訪ねしたり,
植物を御覧になるため,その植物の自生地にいらっしゃるのにお供をしたりしたことが懐かしく思い起こされます。
実録にも私の結婚の翌年の夏の記述に「皇后及び皇太子妃と御同車にて御用邸敷地外の広谷地(ひろやじ)に向かわれ,
同所にてお揃いで湿地のサギソウ等を御覧になる」と記されています。
この時私は那須を離れ,地方で行われる行事に出ていたのですが,
昭和天皇は生まれたばかりの浩宮を守って留守をしている美智子が寂しくないよう,
香淳皇后と共に散策にお誘いくださったのではないかと思います。
少し後になりますが,皇后と私とで,廻谷(めぐりや)であったかと思いますが,
お供した時には,皇后に水辺の白い花で,野生のスイレンであるヒツジグサの花をお教えくださいました。
この2度の大切な思い出のため,皇后にとりサギソウとヒツジグサはそれ以後ずっと特別な花となっていたようで,そ
れから大分後になって私どもが女の子に恵まれ,清子(さやこ)と名付けたその同じ日に,
私どもは清子のお印にヒツジグサを選びました。
昭和天皇が「大変よい」とお喜びくださったことが,うれしく思い出されます。
昭和天皇から学んだことは多いと思います。
結婚前には葉山の御用邸に昭和天皇,香淳皇后と一緒に泊めていただくこともありましたから,
そのような時に昭和天皇から学んだことが多くありました。
人のことを常に考えることと,人に言われたからするのではなく,
自分で責任を持って事に当たるということは,
昭和天皇の御言動から学んだ大きなことであったのではないかと思っています。
陛下の「昭和天皇との思い出」はとても温かく、美しいものだったと拝察します。
昭和天皇に教えて頂いた「ヒツジグサ」が紀宮のお印になり、昭和天皇が最後に
研究されていた「ヒオウギアヤメ」が紀子様のお印になり。
昭和天皇も植物学者として、父、祖父としてどんなに嬉しく思われているでしょうか。
結婚前には御用邸の本邸にお泊め頂く事もあったとか。
いわゆる「普通の親子」としての触れ合いが感じられます。
それだけに、陛下の言葉として伝わっている
「家庭を持つまでは死ねないと思った」という言葉に違和感を感じるのです。
いえ、言葉というよりその時の正田美智子さんの「受け取り方」ですよね。
「世界中の書物の中にもこんな寂しい言葉はなかった」と思われた事。
それは「皇族というのは普通の親子のように親しみを持って暮らす事が出来ない存在」
という思いこみがあったのではないでしょうか。
確かに庶民と皇族では「親子の在り方」は違います。
特に陛下がお小さい頃、昭和天皇は戦争という大仕事をされていて、非常に忙しく、また
精神的にも追い詰められていたでしょうから・・今のように平和な家族として暮らす
事は出来なかったと思います。
お姉さま方は「呉竹寮」で、弟君は「御殿」で別々に育ったというのも、皇室としては
決して特別なことではなかった筈で、陛下がそれを「寂しい」と感じる事はあまりなかったのでは
ないかと思うのです。
昭和天皇が美智子妃と浩宮を散策にお誘いになったというのも、とても温かいエピソード
ではあるけど、当の「嫁」から見たらどうだったのかなと、意地悪な見方をしたりして。
ラストの3行は、どうか、皇太子殿下にそのままおっしゃってください