ご日程
両陛下
3月6日・・・天皇陛下 → ラオス首相と会う
通常業務
両陛下 → 三の丸尚蔵館鑑賞
勤労奉仕団に会釈
歌会始め詠進者とお茶
3月9日・・・両陛下 → 勤労奉仕団に会釈
警察庁長官表彰の全国優秀警察職員
天皇陛下 → ドイツ首相と会う
3月10日・・・両陛下 → パラオ訪問の主席随行員に会う
勤労奉仕団に会釈
天皇陛下 → 通常業務
3月11日・・・両陛下 → 東日本大震災追悼式出席
外国訪問の事前訪問について説明を受ける
3月12日・・・天皇陛下 → 天皇陛下 → 離任大使と会う
最高裁判所長官始め最高裁判所判事,高等裁判所長官等と午餐
警察大学校警部任用科第42期学生に会う
皇太子同妃両殿下
3月9日・・・皇太子殿下 → 海外青年協力隊と会う
3月10日・・・皇太子殿下 → キューバ閣僚評議会副議長と会う
海外青年協力隊と会う
3月11日・・・両殿下 → 外務省から進講を受ける
3月12日・・・皇太子殿下 → 勤労奉仕団に会釈
秋篠宮家
3月6日ー7日・・・佳子内親王 → 三重県訪問
・ 伊勢神宮参拝及び遷宮進捗状況視察
・ 神武天皇陵参拝
3月9日・・・秋篠宮殿下 → 研究会出席
3月10日・・・両殿下 → 都内戦災並びに関東大震災遭難者の春季慰霊大法要出席
外務省から進講を受ける
両殿下・佳子内親王 → 国際協力機構(JICA)海外派遣専門家に会う
追悼式での皇后陛下の着物。なかなか見慣れなくて困ってしまいます。
佳子様の伊勢参拝時、電車に群がる人々。スマホでばしゃばしゃ。
しかも隣の車両にどどどーーっと人が・・・・・
確かにありえない光景です。セキュリティ的には本当にありえない。
これが東宮家ならそうはいかないんだろうと。
だけど。皇室に対し、若い人がここまで関心を持つというのもまたまれに見る事で。
こんな風にぶしつけにばしゃばしゃやるというのは、正直、皇室とは何かとか
皇室についてちゃんと教えて貰っていないが為の事なのです
「敬愛する」「恐れ入る」「わきまえる」というのは、ある程度訓練が必要だし、知識も必要。
それによって初めて感じる思いです。
そういう意味では、現在の「皇室」というのはとことん地に落ちてしまったんだと思います。
それでも、伊勢ではみなきちんと整列してお迎えし、静かに見送ったわけですから
最低限の「敬愛」はあるんだろうと
地に落ちてしまった皇室の権威を取り戻す存在になるのは眞子内親王と佳子内親王です。
まずは関心を持たせる→皇室について知る→敬愛
ということで、佳子様に対する「バシャバシャ」については今回は大目に見て頂きたいと。
どんな形であれ(それが「佳子様かわいい」であっても)まずは知ってもらう事が大事。
ミュージカル「エリザベート」で、
♪ 皇后はついに気づき始めた その美貌が役にたつと ♪
という歌があります。
初めて見た時はその歌詞の意味がわかりませんでした。
でも今はわかります。
まさに佳子様の美貌が人々の関心をよびさまし、新しい「カリスマ性」を引きおこす。
その事が将来、悠仁親王の即位の力になる筈だと私は思います。
かつてダイアナ妃がその美貌で世界中をとりこにし、大英帝国の広告塔として
大きな力を発揮し、それが結果的にウイリアム王子の立ち位置に影響を与えているように。
眞子様も佳子様も大変だと思うけど、どうか頑張って頂きたいです。
皇太子妃が絶対に出ない「勤労奉仕団への会釈」
(一部の高校生だけには会うみたいですが)
皇太子妃からすれば「奉仕団と会話する事になんの意義があるのか」ということ?
噂ですけど、東宮御所の再改修の時に勤労奉仕団に会わずに外に出られる
地下道を作りたいと言ったとか、勤労奉仕団は信用できないとか
まあそんな事を思っていらっしゃるようです。
勤労奉仕団の大元は昭和20年11月24日まで遡ります。
その日、長谷川峻と鈴木徳一という二人の青年が、宮内庁の筧素彦氏に会いに
来ました。
二人は「お堀の草を綺麗に刈ってさっぱりして差し上げたい」と申し出ました。
そう、元々宮城の中まで入る事など考えていなかったのです。
ダメ元だったんでしょうけど、意外や意外。宮内庁は即答で「いいよ」と言った・・・・
だけど、終戦直後ですからまず掃除できる人を確保するのすら大変なありさまで。
それでもOKが出たから長谷川氏らは仙台へ帰って地元から60人を連れてくる約束をしました。
12月7日の夜。上野駅に着いた60人。
現金50円、米三升、野菜、味噌醤油、薪をリュックに詰めナタと鎌を手にしていたそうです。
紅白の餅をついてお祓いして貰って持って来た人もいました。
当時、宮城から東京まで東北線で一晩かかったんですよね。
混雑の仕方も相当。みな疲れていたでしょう。
宮城につくと、宮内庁から
「草刈よりも明治宮殿の焼け跡を片付けて欲しい」と言われたそうです。
みんな驚いて・・・でも、感動しつつ宮城の中へ。
で、驚いたわけです。
明治宮殿が空襲でがれきの山になっているのを見て。
当時、皇居は日本人の心の象徴でしたので、きっと「ああ、これが負けるということか」と
思ったでしょうね。
みな、作業をしているとそこに昭和天皇が現れました。
5・6人の侍従と一緒にソフト帽をかぶって。
事情を聞きつつ、天皇は「あ、そう、御苦労」
「どこから来た?」
「肥料は手に入るか?」
「一番不自由なものは何か?」とお聞きになったそうです。
それから自然発生的にみな君が代を歌いだしました。
歌いながら泣いていた人も多かったようです。
天皇は
「遠い所を着てくれて、ありがとう。国家再建のため。しっかりやってほしい」
とおっしゃってお文庫に帰られたそうです。
その経験が昭和天皇に「全国巡幸」を思い立たせたきっかけであったと
見る向きもあるようです。
そもそも不特定多数の人に声をかける経験をした事がなかった天皇。
何をどういえばいいのかわからず、最初はとまどって
何を聞いても「あ、そう」とばかりおっしゃっていたそうです。
それでも、それが国民の生の声を聞く唯一の方法で、直接励ましをしたり
慰めたりすることが出来る場であれば、自分が口べたであるかどうかなど
小さな事に過ぎないと昭和天皇は考えたのではないかと。
しかし、一方で、この勤労奉仕団の事を聞きつけたGHQは
キリスト教系の「自由学園」の生徒達を呼んで奉仕させ、
そこに昭和天皇・香淳皇后・東宮、内親王3人が登場し声をかけると
いう「場」を提供した事もあったようで。
この頃からすでに「皇室のキリスト教化」は始まっていたとも言われます。
ともあれ、勤労奉仕団の根本は、素朴な「皇室への敬愛」そのものでした。
それはどんなに欧米や中韓の人が理解しようとしても出来ない感情でしょう。
ゆえにマッカーサーですら「天皇を退位させずに利用しよう」としたのでしょうから。
70年の歴史を誇る勤労奉仕団の心は今も変わっていないでしょう。
だけど、迎える皇室の方はどうなんでしょうか?
すでに形骸化していませんか?
東宮御所では皇太子のみがつねに偉そうに会釈してさっさといなくなるようですが
昭和天皇と奉仕団の触れ合いの根本を知っていたら、こんな事は出来ない筈です。
「病気」(といっても熱があるわけでもない、スキーも出来るし晩さん会にも出られる)を
理由に不特定多数の人に会いたくない皇太子妃。
それを許す皇太子。そんな皇太子を産み、育て、放置している両陛下の見識を
私は疑います。
無論、宮内庁にも多々文句はあるけれど、今の宮内庁は昔と違うと思えば
今さら何も言えないだろうと。
だけど、そんな風に付け込ませたのは一体誰か・・・・真剣に考えて頂きたい。
そういう積み重ねが、あの佳子様への「ばしゃばしゃ」に繋がるわけですしね。