本当に久しぶりに東京宝塚劇場へ。
離れようとしても離れられない。それが宝塚なんですわ
それも姫ちゃんと一緒でした
姫ちゃん、25日に大劇場デビューするので、心はそわそわ村の空の上。
「ねえ、ママ、何を着て行ったらいい?ねえ、ママ、靴はどれがいい?ねえママ・・・」
面倒なので適当に答えていたら「ママっ娘の事、愛してないの?」というので
「わかった。じゃあ、お洋服を買ってあげましょう。ついでにアクセサリーも」
と・・・貰ったお給料が右から左ーー
二人で有楽町や日比谷を歩いてはいけない。
ママのお財布のひもが緩みすぎるので。
でもまあ、見終わった後の姫ちゃん、久しぶりに目がうるうるしてたからいいっか。
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ストーリーについて
小池先生はパンフレットに「フランス人が描くフランス革命ってどんなだろう」と
思って、結構構えてみたようですが、実際は「超大衆娯楽」だったと書いています。
堅く考えないでと言われているような。
群像劇
歌とダンスパートが分かれている。
フランス版よりもロナンとアントワネットの歌が増えている。
・・・ああ・・・・それでーーと納得しました。
まず。
主役の「ロナン」がまるっきり主役に見えないんです。
こんなに存在感のない「真ん中」はそうそうないです。だけど、これを宝塚のスターシステムに
合わせて考えるからおかしいのであって最初から
主要人物はロベスピエール、デムーラン、ダントン、ルイ16世、アントワネットと
考えてみる。そしてロナンはいわば「アイドル」がやるような「そこにいればいい役」なんだなと。
例えば「ベルサイユのばら」におけるオスカルとアンドレは架空の人物だけど
歴史物語の「主役」としてしっかり存在しています。
実在の人物との会話や絡みに無理がなく、しかも史実を曲げることなく話が進んでいきます。
ところが、この作品の場合、ロナンが不要人物なんですよね。
実在の登場人物だけで十分ストーリーが成り立っているんです。
だって、多分、当時の農民が革命のリーダーシップをとるという意識がないんだと思います。
物語の中で話しているように、革命を叫んでいたのはプチ・ブルジョワと
呼ばれる人達であり、ロナンとは身分的、経済的に格差があります
本を読む環境になかった、毎日食べる事で精一杯だったロナンとその妹にとって
議論したり、政策を考えたりという事は別の世界のお話。
ゆえに、革命の話が進むにつれてロナンの存在意義はなくなり、結果的に
バスティーユからオランプの父を助け出す為だけにいたような感じになっています。
ロナンの「死」も唐突で、何でここで死なせるかなあ・・・・と思う程。
まるで「ベルばら」のオスカル様そっくりで、「バスティーユに白旗が」って
出てくるか?と期待したら、あっさり人権宣言に行っちゃった
小池先生は女性達のヴェルサイユ行進のシーンをカットしたらしいですが
もしかして東宝版では復活して花總まりさまの素敵なお辞儀が見れるのかしら?と
期待しつつ。
小池先生なら、龍真咲に合わせてロナンをもっと膨らませる事は可能だったのでは
ないかとも考え。そうしなかった理由が他にあるのか?
などとうがった見方をしてしまうのでした。
原作がどんな風なのか知るよしもないのですが、フランスミュージカルの流行は
ミュージカルぽくないポップな音楽
プロモーションビデオが先に存在する程、独立した音楽
奇抜な衣装
という所でしょうか。そういう意味では王道。まさに庶民があまり考えないで見る事が
出来る、日本でいうと下町の玉三郎みたいな感じの舞台なんだろうと思いました。
そうはいっても、小池先生が言う通り、日本人の頭の中では「ベルサイユのばら」に
おけるフランス革命の流れが染みついており
(だって・・・・頭の中で池田利代子「ベルばら」のシーンが同時進行してましたよ。
特に三部会の解散のシーンは「ああ、ここでオスカル様が馬で飛んできて
「ここから先は一歩も通さん!」だったっけなどと考えながら見てました。ゆえに
ロナンが死ぬシーンはアランが「バスティーユに白旗が」って言わないといけないわけで)
庶民の味方、ロベスピエールやデムーランがプチブルという認識がなかなか出来ないので
ありました。
(私の中でデムーランは常にベルナールに変換されておりました)
ロナンのようなド庶民とアントワネットが僅かながらもすれ違う風、フェルゼンとロナンが
短いながらも会話をする・・・っていうのが不思議なミュージカルでしたね。
振付について
フランス版はもうちょっとアクロバティックなんでしょうね。
でも宝塚もなかなか負けてないなと。
特に2幕目の最初、手と足を使ったダンスは、面白いというかちょっと歌舞伎っぽいと
思いました。なかなか宝塚ではお目にかからないもので、振りつけた人も知らないし。
フィナーレの群舞も非常にかっこよかったです。
出演者について
龍真咲・・・・龍ファンには申し訳ありません。だけど、あの喋り方が許せない。
学芸会の延長のようなわざとらしい喋り方。今まで、くせのある話し方を
するトップは何人もいましたけど、これほどとは・・・高汐巴以来の不愉快さ。
さらに主役としてここまで目立たなくていいのか?という印象。
歌はまあまあ、だけどダンスになると「私は踊りません」って言ってるみたいに
上から目線に見えてしまう。
フィナーレの群舞で途中でいなくなってくれてほっとしてしまったし、デュエットダンスに
至っては、ほとんどからまず。これでいいのか?トップスター。
今回は若い専科が二人に別格が二人。下級生なのに妙に貫禄あるってのが一人で
並のトップでも威圧されそうな雰囲気ではありました。
だけど、逆にここまで実力派を脇でがっちり固める程のトップなんだよーって話で。
いわゆる「宝塚らしさ」を追及しているわき役に対して、ただそこに君臨している
だけのトップでは困るのではないかと。
作品に恵まれ、100%観客が感動して帰る。それはいい。だけどそれは決して
ロナンに感動しているわけではない事を自覚して頂きたい。
愛希れいか・・・・ちゃぴ様は登場シーンからすごかった。いやいやほんと。
以前も書きました。月組の実質トップは愛希れいかであると。
今回もその通りでした。トップとトップ娘役の実力の格差がありすぎて。
愛希は決して美人というわけではないと思います。花總まりや白城あやかの
ような神々しい美しさを秘めた人ではない。
けれど、彼女がひとたび舞台に上がると圧倒的な存在感で観客を魅了します。
その立ち姿、演技力、メキメキ上達した歌唱力、そして自由自在に踊る姿。
何もかも、近年の娘役の中では突出しています
まさに「ちゃぴ様」です。ちゃぴ様が踊れば横に龍真咲は必要なく、ちゃぴ様が
歌えばそこに龍真咲は必要ない。そんな感じですね。
それでいて、自分勝手に動いているのかといえばそうではなく、相手をたてる事も
ちゃんとご存じ。それに応えていないのがトップというだけで。
ちゃぴ様の前にひれ伏す月組はまとまっています。
凪七瑠海・・・なぜロベスピエールではなくデムーランなのか。そのわけがわかります。
ぱっと見、綺麗なんだけどどうにも弱い。おまけに歌が・・・・
この人がエリザベートをやったってほんと、認めたくない事実です。
でも今の方が幸せそうですけど。
美弥るりか・・・アルトア伯。姫いわく「星組出身の人ってコスチュームが似合うだけじゃなくて
ごてごてメイクの研究もすごいのね」だそうです。
確かにこのアルトア伯(何でプロヴァンズ伯じゃないのかしら)
媚薬を使って女性をとりこにするちょっと変質狂。フランス映画によく出てくる
タイプ。でも「私は神なのだ」とエコーを聞かせた声で歌うとドキドキしました。
フィナーレの銀橋に出てきた時は貴公子に早変わり
本当にかっこよかったです。群舞でも中心にいると落ち着く人ですね。
星条海斗・・・・恐ろしいペイロール様。鞭がこんなに似合う人とは。さすが専科の貫禄です。
場面が引き締まりますね。
沙央くらま・・・・何気ない役柄なのにそこにいるだけでほっとするダントン。
助演者として実力を発揮できるといいですね。
珠城りょう・・・・背は高く、ごっつく、男役の為に生まれて来たような珠城りょうは
ロベスピエールのイメージにぴったりでした。歌もそこそこだし
美弥も凪七も、龍をも吹き飛ばしてしまいそうな存在感があります。
ただ「華」があるかどうかは疑問符。
海乃美月・・・いわゆるヒロイン。その任によく耐えて頑張ったなと。
特に色気もへったくれもない龍真咲相手に演じるのはプレッシャー
だったのでは。
暁千星・・・正直「メリーウイドウ」の時から気にはなってたけど、適当な「七光り」組
なんだと思ってました。今回のフェルゼン抜擢もその一環?と思ったけど
アントワネットの愛の告白を聞くフェルゼンの横顔に惚れた・・・かも。
声がいいのよねーーアントワネットとのデュエットは芸術的でした。
今後、注目して行こうかな。私のハートをつかむにはもう一歩。メイクが
上手になってね。
いわゆる「本場フランス革命物語」を見つつ思ったのは
「ベルサイユのばら」の面白さです。本当によく出来た作品だったんだなあと再認識。
日本人ってすごい。