宮邸の門に着いた時、マコもカコも無言だった、
カコの着物の袖は少し敗れていたし、汚れてもいた。
髪もすっかり乱れてしまい、出迎えた侍女や宮務官は言葉を失った。
連絡は来ていたので、みなは二人を部屋に通すと
さっさと着物を脱がせ、そして食堂に招いた。
「今日はお二人だけのご夕食ですからね。おいしいものがたくさんありますよ。
妃殿下は今日はお二人の好きなものばかりご用意するようにと」
「私、いらない」
カコはぷいっとして、自分の部屋に戻ろうとする。
「カコ、食べなきゃダメ。叱られるわ」
「叱られたっていいもん」
「どうしてそんなこというの。私達、何も悪くないのに」
「悪くなくたって叱られるんでしょ」
「カコ・・・」
マコは泣きそうな目をする。そんな姉の様子を目にしたカコは
それ以上何も言えず、かといって部屋に戻ることもせず、じっと
席に座っている。
「私、悪くないもん」
「わかってる。私はちゃんとわかってる。お父様もお母さまも」
「おじいさま達も?」
ふとした不信の言葉。マコは何も言えなくなってしまった。
静かに供される黄金のスープ。普段は「音を立ててはいけない」と
言われるけど、スープを巣くう音すらしない静かな食事風景だった。
皇居では何事もなかったかのように、マサコ以外の全員が
テーブルについていた。
お祝い御前は毎年、内容が決まっている。
老齢の天皇と皇后に合せてあっさりで薄味にできているのだ。
決して豪華というわけではないが、上品な料理が並ぶ正餐だ。
天皇の義務は「長生きをすること」にある。
天皇という存在が健在であれば、国家の安泰を示すものでもある。
だから、毎年の天皇誕生日は国民にとっても祝いの一日であるといえる。
国民は、きっと今頃、皇居では皇太子夫妻やアキシノノミヤ夫妻などと
華やかな晩餐会が行われているだろうと思っている。
しかし、実際は。
テーブルの上には、コーヒーか紅茶のみ。
時計の針は正餐開始時刻を遥かに過ぎていた。
侍従がたまらず伺いをたてる。
「あの。そろそろおはじめになったほうが」
だれもがそのほうがいいと思っている。
だけど、誰もそうは言い出せないでいた。
皇太子妃が戻って来ないのである。
先ほどから、何度東宮御所に連絡をとったかしれやしない。
今日は、内親王付きの女官以外は出払っている。とはいえ
まるっきり人がいなくなったわけではない。ない筈なのに。
「妃殿下は内親王殿下と東宮御所にお戻りになりました。が。
お二人で部屋に閉じこもられて出ていらっしゃらないのです」
ありえない女官の声に、千代田側は慌てた。
「だって、すぐに戻るとおっしゃられて。一体、何をしているのか」
「お食事は先ほど、運びました」
「じゃあ、こちらの晩餐はキャンセルなのか」
「ではないかと」
「ではないかとって。ちゃんと確かめないか」
侍従の怒鳴り声が響く。
「もちろん、何度もお部屋の前で申し上げました。でもドアが開かないんです。
こっちではドアが開かないともうダメなんです」
もはや女官の悲鳴のような声に千代田側も意味不明に頭を抱える。
「携帯だ・・携帯でかけろ」
妃は常に携帯を持っている。そっちにかけたらと思ったのだ。
が
「電源が入ってないそうです」
「わかった。じゃあ、妃殿下の晩餐はキャンセルにする」
この事はすぐに大膳に伝えられ、侍従は報告をしに食堂へ行った。
「陛下、妃殿下はたぶん、お戻りにならないかと存じますので、先に
お食事を始められては」
「戻らないって、言ったの?」
天皇は憤懣やるかたないといった風情だ。
さすがに空腹を覚えるし、かといって、皇太子妃のこと、無断で先に
始めたらまた悲劇的な態度で回りを困らせるのだろう。
「いえ・・・妃殿下とはまだ連絡が」
「どうして連絡が取れないの?電話くらいあるんでしょう?」
珍しく嫌味を言う天皇に侍従は頭を抱える。
「ナルちゃん、どういう事なのかしら?」
皇后が水を向ける。
先ほどからまるっきり他人事の顔で
とりとめのない会話をしながら笑っていた皇太子は困ったような表情になった。
「さあ。僕にはわかりません」
「わからないって。自分の妻のことでしょう」
いきなりアキシノノミヤが声を荒げたので、一瞬、場が凍り付いた。
皇太子はむっとした顔で宮をにらみつける。
「両陛下をお待たせする事自体、ありえないことだのに、さらに連絡が
とれないってどういう事なのか。皇太子殿下が一番よくご存じでは
ないのですか」
「そうですよ。今日は陛下のお誕生日ですわ。こんな前代未聞のことが
あっていいのですか」
サヤコも負けてはいなかった。
そもそも、可愛い姪の着物が汚された時から不機嫌極まりないのに
こんなに待たされて。ヨシキは明日も仕事だというのに。
「そうやってマサコを追い詰めるから来ないなんじゃありませんか。
彼女は病気なんですよ」
「だったら最初から晩餐は出ないという事でよろしいのでは」
「みんなでマサコをのけ者にするのか」
今度は皇太子が怒鳴った。
「サーヤ。お兄様に失礼ですよ」
皇后の静かながらも厳しい声が飛んだ。
「サヤコは何も悪くありません。ただ、このような事態になって、
皇太子殿下が何も知らないではすまされないと言っているのです」
アキシノノミヤはさらに畳みかけた。
「両陛下のおからだのこともある。すぐに晩餐を始めるべきです」
全員がそう思っているという感じで、皇太子はいたたまれなくなった。
しょうがないので、自ら電話をかけようと部屋を出る。
それから暫く戻って来ない。
皇太子が戻ってこないのに食事を始めるわけにはいかなかった。
「みんな、そんなにお腹がすいているの?」
皇后はにっこり笑った。
「歳をとるという事はよいこともありますね。あまりお腹が空かないから」
「そういえば、那須の御用邸に疎開していたとき、食べ物がなくて
みんな腹をすかせていたな。たんぽぽの茎とか、雑草を食べていたりして」
「私も同じですわ。当時は食べ物がなかったですから」
「あんな思いは二度と御免だね。若いときは特に空腹が身に堪えて」
「今は平和な世の中ですから」
のんきすぎる天皇と皇后の会話にアキシノノミヤ夫妻もクロダ夫妻も
頭の中で感情が沸点に到達しそうだった。
キコは不安そうな目を宮に向ける。
(マコとカコは大丈夫でしょうか)
大人の事情に振り回された娘たちの心を思うといたたまれない。
本当は今すぐに宮邸に帰りたいと思っている。
けれど、それが許されないのだ。
宮はそれをわかっているが、帰るとはさすがに言い出せなかった。
そんな事が表に出たら、どんなバッシングを受けるかわからない。
非常識な態度をしているのはあちらなのに、どうしてこちらが
ここまで気を使わなければならないのか。
時間は刻々と過ぎていく。
ヨシキが少し焦ったような表情になった。
皇族と違ってヨシキは地方公務員である。
天皇誕生日は休日であっても、翌日は仕事だ。
ただでさえ、今日は精神的にへとへとなのに。
疲れたような夫の目を見て、サヤコはさらに顔をしかめる。
時計の針はとっくに夜の8時を過ぎている。
大膳でも料理長が怒りまくって侍従長や女官長に内線電話で
怒鳴っていた。
「食材の味が落ちる!いい加減にしてくれ!」
「一体、何人分の用意でいいのか」
大膳はすでに大わらわになっている。
人を減らしていいのか、そのまま待機なのか。
しかし、どうしょうもなかった。
皇太子が食堂に戻ってきたとき、時計の針は9時になろうとしていた。
「マサコが戻って来るそうです。だから先に始めてくださいとのことです」
天皇としても、これ以上食事の時間をずらすわけにはいかなかった。
「待たせたね。済まなかったね。大膳にはよく謝ってくれ」
天皇の一言で、やっと食事が始まったが、誰も楽しく食べることなど
できるはずがなかった。
ただ一人、皇太子だけがやたらほっとした顔で微笑みながら
食事を始めたことに、宮もキコもサヤコもヨシキも、ただただ
あきれ果てるばかりだった。
しかし、最も悲しかったのは、本来「礼」の最上級にいる天皇と
皇后が皇太子夫妻の無礼な振る舞いに何も言わないことだった。
サヤコなどは(考えてみるといつもお兄様は特別だったのだわ)と
頭の中で昔のことを思い出して、苦い顔をしていたし、
キコは、何とか勇気を出して宮邸と連絡を取りたいと思うばかりだった。
「もう、そろそろなんじゃない?皇太子妃が一人で部屋に入って
きたらきっと気まずいわね。私は廊下で待ちますわ。
陛下、みなさんはお食事を続けていらして」
皇后がすっと立ち上がったので、慌ててキコも立ち上がった。
「陛下、廊下は寒いですわ。お体にさわります。
私が廊下で待ちますから。陛下はどうかお席に」
「じゃ、私も廊下で待ちますから」
サヤコも立ち上がった。
「じゃあ、みんなで行きますか?」
皇太子が笑った。皇后は「いいわね」といいつつ、なおも
廊下に出ようとしたので
キコは「私達だけのほうがよろしいと思います。陛下や東宮様まで
廊下で待っていられたらかえって気を遣われるでしょう」
といい、さっさと部屋を出た。
後ろからサヤコも追いかけてきた。
二人はしんとした廊下を歩いて、玄関へと進む。
慌てふためいた女官たちもついて来る。
ぞろぞろとした行列になってしまったので、キコは何人かは帰した。
「マコとカコはちゃんとお食事をしているかしらね」
「ええ・・・」
「お姉さま。どうしてこんな風になっちゃったのかしら。
私、少しもわからないわ。前はこんなんじゃなかったのに。
両陛下のお気持ちが本当にわからない」
息が白くなる。
筆頭宮家の妃と、元内親王が、こんな冷たい廊下に立って
待っている。食事もろくにとっていない。
この信じられない立場が。
「仕方ないのよ」
キコは小さく言った。
「今は仕方ないの。サーヤはご自分の幸せだけを考えるのよ。
よろしい?」
「お姉さま・・・・・」
そこに、車が到着する音がした。
「妃殿下のご到着です」
先ぶれの侍従の声とほぼ同時に、コートを着込んだマサコが入ってきた。
マサコはキコ達が廊下で待っているのを見ると、ちょっと嫌な顔をした。
なんでこんな所で待っているのかといいたげな表情だった。
「皇后陛下がご心配でしたよ」
サヤコがそういうと、マサコは「それはどうも」と言い、そのまま
さっさと食堂に入っていく。
唖然としたキコとサヤコは暫く言葉もなく、立ち尽くしてしまった。
そのうちに、とうとう耐え切れなくなったキコの目から大粒の涙が
こぼれ落ちてきた。
笑顔を作ろうと必死に口角を上げているのに、どういうわけか
目からは涙がこぼれて仕方ないのだ。
思わず手で口をおさえる。
驚いたサヤコがキコの肩を抱いた。
「お姉さま。ねえ、お姉さま。しっかりして」
必死に慰める義妹の肩にすがってカイコは思わず泣きじゃくった。
「どうした」
二人が入ってくるのが遅いので、様子を見に来たアキシノノミヤは
ただならぬ様子に小走りに近寄って来る。
「サヤコは戻りなさい」
宮は一瞬で察したように、サヤコを食堂に戻し、キコを抱きしめた。
高い天井に空気が冷たい。
だけど、宮の腕の中はひどく温かくて、そのぬくもりによけい
涙があふれ出てくる。
「ごめんなさい。私・・・こんなつもりじゃ」
「いいんだ。もういい。もういいから」
人目もはばからず、宮はしっかり妻を抱きしめる。
その腕の強さは今までにないものだ。
「わかってる。君の気持ちはわかってるから」
うっすらと宮の瞳にも涙が光っていた。