「よく来たよく来た」
応接間に招かれてノムラは恐縮しつつ、部屋に入った。
時差ぼけ気味ではあったが、醜態をさらすわけにはいかないので、
ただ黙って頭を下げる。
外務省に捧げた命だ。気が付くと自分の為ではなく
この男の為に働いていたのかもしれないと思う。
正義感のかけらがあった若い頃はもうとっくに過ぎ、
今では全てが「根回し」と「権力」と「コネ」ばかり。
そんな世界で生き抜くのも大変だった・・・・特に目の前の男の事では。
危ない橋も平気で渡るが決して自分は表舞台に立たない。
マスコミに悪事をスッパ抜かれる頃には「マイドーターイズプリンセス」だった。
この男の娘が皇太子妃になるなんてありえないと思った日々は夢で
今では関わりたくないと思った自分がしりぬぐいをしている。
どうしてもこの男からは離れられないのか。
「無事に到着いたしました。妃殿下もお元気です」
ノムラは豪華な調度品に囲まれた部屋に腰を下す。
豪華な・・・・とはいっても単に高級なだけなのだが。
元々外務省の中でもセンスがなく、社交下手で、上から圧力を
かける事しかしないこの男。
「そうかそうか。それは何より」
今、初めて聞くようなふりをして大声で笑っているが、実は
数日前まで日本にいたのだ。
日本における「オランダ静養」に対するバッシングが激しいので
「何かあったら出版社一つ潰してやるか」などと
物騒な事を言い出し、監視の為に帰国していた。
その間はずっと東宮御所と那須の静養先に入りびたり。
世の中には「親離れ」「子離れ」出来ない
連中がいると聞くが、これは筋金入りだ。
娘は40を過ぎても父親に逆らう事が出来ずに言いなり。
どうしても我を通したい時にはひっくり返って泣く。
父親はそんな娘をはがゆいと思いつつ、面倒をみてしまう。
3姉妹そろいもそろってこんな感じだ。
「映像を見たよ。王室の馬車庫で撮影していたっけな。
女王と王太子と王妃。それに王女が二人だったか」
「はい。妃殿下は大変ご機嫌麗しく、嬉しそうに笑っておられました。
内親王殿下も珍しく・・・」
おっと。
ノムラは口をつぐんだ。
巷ではアイコは笑わないと言われている。
確かに笑った事はなかったかもしれない。いつも自分の世界で
遊んでいる不思議な子だ。
その子がマスコミに声をかけられて大笑いしたのだから
本当に驚いてしまった。
反射的に顔の筋肉が緩んだという感じではあったけれど
やはり母親が幸せそうにしていると、娘も嬉しいのか・・・・と
自分としては感動した程だった。
「私も見たわ。アイちゃん、うれしそうだったわ」
とユミコがお茶を運ばせながら目の前に座る。
「ほんと、無事に来れてほっとしたわよ。これでまーちゃんとアイちゃんが
元気になればね。日本の皇室って所は全くもって陰湿よ。
かわいそうにまあちゃんたら、すっかりやつれてしまって。
あの子みたいに純粋な娘には合わなかったのよ。
それをあなたと来たら無理やり・・・・」
「もうその話はいいじゃないか」
ヒサシはうんざりしたように言う。
「マサコのお蔭で私達は一目置かれている部分もあるんだから」
「それはそうだけど・・」
「昔から気に食わなかった外交官の奥様連中にいい復讐が
出来たじゃないか」
「まあ・・・」
「それにマサコにしたって不幸とは言い切れまいよ。
今じゃあの娘には天皇皇后といえども逆らえないんだからねえ」
「あら、葉山に一緒にって言った時は違ったわ」
「あれが最後だよ。このオランダ静養を成功させれば、もう本当に
皇室の中に敵はいなくなるから」
ヒサシはおかしくてたまらないように笑った。
ノムラはそんなヒサシを見てぞっとする。
今回の静養に対する批判は半端ではない。
それでもごり押した自分に責任を問う話も出ているほど。
帰国後には東宮大夫を辞任する・・・なんて話もあるかも。
ノムラはただじっと頭を下げていた。
「自分の身が心配かね」
まるで見透かしたようにヒサシが言った。
「いえ・・・そんな事は」
「いいか。この静養が終わって帰国した暁には東宮家への批判は消える。
私が保証する。お前は辞めさせられない」
「私はいつ辞めてもいいんですが」
ノムラは呟くように言った。
「ご一家がお幸せそうに見えるので本当によかったと思うばかりです」
実際のところ、マサコの笑顔ははじけていた。
大きな口を開けてこれ以上ないという程の笑顔だった。
それを目の当たりにした皇太子はひたすらほっとした顔でニコニコしている。
一方、映像には映らなかったが、オランダ王室一家の方は微妙だった。
確かに、一時的に溝があった日本の皇室とオランダの王室。
その溝を埋めたのは今上に他ならなかった。
しかし、その功績があってもその息子一家が全くのプライベートで
城を貸切るというのは異例であり、異常である。
まるで「日本軍による侵略のようだ」と思う国民がいるのではないかと
ハラハラする程。
そんな心配をヒサシは一蹴した。
「思えばいいのさ。皇室が責められても我々には関係ない」
そこまで断言するならきっと大丈夫なのだろう。
ノムラはちょっと胸をなでおろした。
「アイちゃんはいつこちらに来るの?」
ユミコがウキウキと問いかける。
「23日と25日を予定しております」
「25日にはレイコもセツコも来るからな。城で会うぞ」
「まあ、お城へ?素敵ね!私達一家がお城で晩さん会よ!」
ユミコはおおはしゃぎで言った。
マサコ達がアベルドールン城に入った後は、ほとんどの仕事は
城に仕える侍従や女官がやってくれるので、日本側の随行員は
仕事がなくなった。
みな、公費を使っての夏休みを満喫し始め、ホテルのプールで
泳いだり、ぼんやりと昼間から酒をたしなんだりしている。
随行員の中にはマサコの為の美容師も入っていたが、一向に
お呼びがかかる様子はない。
マスコミをシャットアウトしているので、見た目を整える必要がないと
考えているのだろうか。
それともそういう事もあちらのスタッフがやってくれるのだろうか。
ノムラは何となく落ち着かない気分で、他の随行員のように
リラックスは出来ない。
いつ緊急の呼び出しがあるかもしれず、そうかといって、城に頻繁に
行っては「プライバシーが」と言うし。
一番気がかりだったのは、皇太子一家がオランダ側のスタッフに
不快感を持たれる事だった。
現実に、マサコは女王達にろくな挨拶もせずに、自分勝手に動き回り
「あれで本当に病気なの?」と女王が呟いたとかそうでないとか。
城へ入るとマサコはアイコを連れて城中を探索し始め、
一々「すごーい。大きい。広い」と大騒ぎ状態。
せっかくしつらえた客間のベッドに寝転んだりしてはしゃいでいる。
「借りて」はいても「所有」しているわけではないというのが
わからないのだ。
皇太子はそんな妻と娘を目を細めで見ている。
「来てよかったよ。マサコ、元気になるね」
その言葉が心底本当なので、ある意味泣けてくる始末。
「ねえ!ワイン蔵のワインは全部飲んでもいいの?」
マサコの問いかけに、オランダ人の女官達は
「ここのものは全てご一家で使ってもよろしいと女王陛下が」と言う。
そうは言っても遠慮するのが筋だろうに、マサコは素直に
「ええっ?ほんと?すごい」と言って、物色し始める。
「妃殿下、必要なお酒はこちらで用意しますから」
たまらずノムラが口を出すと
「だってロマネ・コンティもあるのよ。これと同じワイン、手に入る?」
「同じのでなければいけませんか?」
「飲んでみたいから。せっかく全部飲んでもいいって言ってるのに
なんで遠慮するの?私達、お客じゃない。女王陛下達も喜んで
迎えてくれたわよ」
「とりあえず、日本から持ってきたシャンペンが冷えておりますので
そちらを先に飲まれては」
「マサコが飲むなら僕も飲もうかな」
皇太子も能天気にそういった。
夏のアベルドールン城から見える景色は幻想的で、リゾート気分にひたれるし
しかも、これからずーーっと休みという安心感もあるのだろう。
心なしか皇太子もうきうきしている様子。
お天道様がまだ真上にあるこの時間帯から酒を飲むという背徳感に
身をゆだねたい気持ちもわかるのだが。
ノムラはスケジュールを確認し、来客無しを3回も確認。
「そうですね。来客はないですし」と言った瞬間、二人はもうグラスを持っていた。
「やっぱり外国は最高!日本みたいに堅苦しくないもん。自由だもん」
マサコは大声でそういい、戸惑いを見せるオランダ人スタッフを気にする様子も
なくグラスをあけていた。
「毎年、旅行出来たらいいのに。昔みたいに」
昔を思い出すとマサコはがっくりくるようで、いきなりしゅんとなる。
皇太子は慌てて「大丈夫。来年も旅行しよう。今度はどこの国がいい?」
などとなだめる。
アイコの存在など二人の眼中にはなかった。
アイコは広い部屋のど真ん中で、座り込んでおもちゃで遊んでいる。
回りの景色も彼女には何の感動も与えないようだった。
ひたすらノムラは日々が無事に過ぎていくのを願った。