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今度は特別立法?

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  政府内で「特別立法」案が浮上

 

というのが7日に出たニュース。

皇室典範改正していると時間がないから、「今回に限り天皇の退位を認める」

というものですね。

退位して誰に譲るのか。そりゃ後退しなわけで。

それでも「上皇」の仙洞御所は必要ですし、名称、どっちら偉いの?とか

決める事は様々。

皇太子の位が空席。愛子内親王が18になれば「立太子」させるのか

(影子が立太子するかもね)

残念ながら今の日本で、「偽物」が皇太子になる緊急の事態に関する関心度は

低く 

なんせ皇太子と秋篠宮の顔の区別すらつかないわけで。

 

本屋さんに行って「天皇家と悠仁親王」を買いました。

思いのほか内容が濃くてびっくり。

これを読めば皇室がいかに尊い存在かわかるし、嘘は一切書かれてませんので

「まさかー」って話は一つもない。

ただ、両陛下と悠仁親王のふれあいシーンが、小さい頃に限られているのと

美智子様の歌とか、ぼやけた感が気になります。

 

本屋さんで、となりに置いてあったのが同じ別冊宝島編集の

「持統天皇」です。思わず買いました。

一般的には天智天皇や天武天皇の方が有名だし、歴史的に重要と思われていますが

実は大事なのは持統天皇なんです。

彼女は

 天照大神を「女性神」にした人

 自分の息子と孫を天皇にさせる為に皇位継承権を持つ人を殺して排除

 長子相続を確立

 藤原不比等という、いわゆる「当時の小和田家」とつるんで印象操作

 「東宮」位を作り、当時の慣例を破って孫を14歳で即位させた

 養老律令を定め、皇族の範囲を定めた

今に至るあまたの事が「持統天皇」を元に繋がっているわけで、こんな雑誌が

隣りになった事に色々考えさせられます。

 

 天照大神は男だった

そもそも天照大神に性別があったかどうか・・・なんて当時の人達にはどうでも

よかったんじゃないかと思います。女性も男性も超越してそこに在る最高神

だったんですから

だけど、伊勢に下る「斎宮」は女性だったので、おのずと「男性」っぽいなとは

思われていたかも。

でも、持統天皇&藤原不比等はあえて天照大神を「女性」にしたわけです。

方法は簡単

日本で最初の歴史書「古事記」にそう書けばいいだけの事でした。

なぜかといえば、持統天皇が即位する事におおよその皇族や官僚は大反対

だったからです

「皇位継承権を持つ皇族なら他にも一杯いるじゃん!高市皇子なんかずっと

政務に携わってる偉い人だし、先帝(天武天皇)の皇子だし。他にも舎人親王がいる。

皇位継承権を持つ男子があと2人は確実にいるのに何で?」

だから 「伊勢の天照大神は自分の息子に跡を継がせようとしたが早世

したので孫を地上に下した」

だから 持統天皇が即位してもいいわけ・・・・ってごり押し。

 大津皇子事件

持統天皇の草壁皇子より姉の息子の大津皇子の方がずっと健康で優秀。

回りの人望もある。危険だわっ!だから天武がなくなってわずか3か月後に

「謀反よ!謀反を起こしたのよ!」といって殺してしまった。

でもその代わり、草壁皇子も死んでしまいましたとさ。

 「東宮位」

そもそも古代から「皇太子」という位はなかったんです。

時の天皇がなくなったら、皇位継承権を持つ男子皇族の中で、年齢が30歳すぎで

蘇我氏の血が濃い人が皇位につく慣例。

だけど、壬申の乱後、天武天皇が即位したあと、吉野の山に天智と天武の子供達を

全員集めて「草壁皇子を皇太子にする」と宣言。忠誠を誓わせる。

草壁皇子が日本初の「皇太子」になったんですが、そのまま亡くなってしまい・・・・

草壁皇子の子・可瑠皇子は本来なら「可瑠王」の筈ですけど、特例として「皇子」と

呼ばれ、草壁死亡と同日に立太子。

 長子相続

持統天皇の強力な補佐役だった高市皇子がなくなり、持統天皇も先行き不安に

なると皇位を「可瑠」に譲りたいと主張。いわゆる「生前退位したいの」と言い出す。

回りは猛反対

「だって可瑠はまだ14歳だよ?天皇になるのは30すぎじゃないとダメでしょ。

だったら弓削皇子でも舎人親王でも新田部でも・・・・」とわいわいやってるときに

突如、意見を言ったのが葛野王。

葛野王ーー大友皇子と十市皇女の子。

       大友王子=天智天皇の子

      十市皇女=天武天皇の子

     って事は、世が世なら彼が立太子して天皇になった筈。葛野は叔父である

     天武に父を殺され、母も自殺(?)に追い込まれたわけですから、恨みは

      十分募っていた筈ですが、ここであえて帝の味方をする事で命を繋いだ

 藤原王朝

持統天皇の一存で天皇になった文武天皇のその後。

当時、臣下における抜群の家柄は「石川氏」でした。つまり蘇我さんの血筋を

持っている事だったのです。蘇我氏が滅ぼされても現実として「青い血」の威力は

あったんですよね。

しかし 文武天皇に2人いた「石川氏」の妃をもち、どっちにも男子が生まれて

いたのに、不比等は言いがかりをつけて廃妃、子供達も平民に落とされてしまった。

そこで藤原宮子さん登場

不比等と地方神官の娘にすぎない宮子は「夫人」という側室でしかなかったけど

彼女が産んだ子しか「長子」はいないから、当たり前のように立太子・天皇に。

宮子さんは適応障害に?それとも「家柄が悪い母がいたんじゃ孫が不憫」と思って

不比等によって幽閉?

で、聖武天皇の時代。民間から初の藤原家出身、安宿部姫を娶り、無理やり

「皇后」に。と、同時に「夫人」だった母、宮子は「大夫人」に。

聖武天皇には縣犬養広刀自さんとの間に、大変ご優秀な安積親王がいて

先がたのしみねーーって言われていたけど、聖武天皇の留守中に急死。

不比等の孫、藤原仲麻呂に殺されたと言われています。

 

気が付くと・・・天智にも天武にも皇子が沢山いたのに、みーんな老齢になって

死んじゃうか、謀反の罪で殺されて、残る直系は聖武天皇と民間初の皇后

光明皇后との間に生まれた阿部内親王だけーー

ごり押しで阿部内親王は日本初の女性皇太子になって、女帝に。

それが孝謙・称徳天皇です。

彼女には姉が二人いました。聖武天皇は「阿部は一生独身だから後の皇位

継承には二人の姉達の子供を」と考えたようです。

 

井上内親王 → 天智天皇の孫である白壁王と結婚し、男子を出産。しかし

         呪詛の疑いをかけられ、親王と共に廃されて幽閉、餓死。

         陥れたのが白壁王(光仁天皇)と高野新笠さんとの間に生まれた

         桓武天皇

不破内親王 → 天武天皇の孫である塩焼王と結婚。でも、夫が謀反に加担し

           呪詛の疑いをかけられ、息子ともども平民に。

 

孝謙天皇は一旦は生き残っていた天武の孫・淳仁天皇に位を譲るも

道教と恋に落ち、「スキャンダルになるからやめたほうがいい」と天皇に

諭されると逆キレして天皇を流刑にして自分が復位。

「私は天皇と呼ばれるより天皇の妻になりたい」

「天皇の仕事って私じゃなくても出来ると思うの」

「今まで散々我慢して天皇になってやったんだから、これくらい聞いてよ!」

と道教の即位を画策したのでした。

 

怖いなーーそもそも持統天皇が「私事」として皇位継承を考えなければ

天皇家の系図も変わっていたかもしれません。

 

藤原氏は元々は「中臣氏」で、蘇我氏と対立していた物部氏の家臣。

藤原氏の台頭は「ご主人様」である物部の恨みを晴らす事だったかも

しれませんね。

蘇我氏や物部氏の出自がはっきりしているのに比べ、中臣氏はイマイチ

わからないわけで・・・・・

でも、藤原不比等というめちゃくちゃ策士が天皇とつるんだ事で、あらゆる

「例外」が実現してしまったわけです。

しかも百済の血を引く桓武天皇の韓ドラ史劇も真っ青の粛清で、

早良親王の怨霊が今も・・・・と考えると怖いですね。

 

3時からの録画の準備はできてますか?

 

 


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