明日・・・・
皇后は眠れずにいた。
9月の北海道はススキの穂が垂れ下がっていて、夜になるとかなり涼しい。
東京とは大違いだ。
窓を開けたら寒いだろうと閉め切っている。
でも皇后は少しだけ窓を開けて夜景を見つめた。
明日・・・アキシノノミヤ家に子供が誕生する。
もし男子だったら宮についで皇位継承権3位になる。
天皇は密かにそれを願っているのだろうが。
いや、私だって願っている。
だって、男系男子が生まれない危機感はもう10年以上も皇室を悩ませているのだ。
(先帝は反対されていたそうよ)
(何を?)
「マサコさまの入内を)
(ああ、そりゃあそうでしょう。だってあの方はほら、日本一の公害病の・・・・)
(どうして今上陛下はお許しになったのかしらね)
(だって皇后さまがそうして欲しいとお望みになったからよ。あの方は
民間ご出身。自分の家柄より上の方はお嫌でしょうよ。そういう意味では
先々の皇后さまはお偉かったわ。ご自分は華族のご出身なのに宮家から
東宮妃をお迎えになられて)
(でもだからってあんな何もお出来にならない人は)
(出来ないからいいんじゃないの?皇后さまはおできになる方が嫌いよ。
いつも菩薩のような顔をされているけど、実はご自分より優秀な方は嫌いなの。
だからアキシノノミヤのお妃はお可哀想にねえ)
やめて!
頭に響く声を皇后は追い払った。
いつもいつもいつも、菊栄の集いで囁かれるゴシップもどきの噂話。
なんだかんだいって、あの人達は今も自分を認めていない。
爵位がなかったからだ。
民主主義の日本においてこんなことが許されるのか?
どうしてアキシノノミヤ妃はいいのかわからない。
たかだか大学教授の家柄のくせに。
戦後の日本を支えてきたのはショウダ家のようなハイソな新貴族。
身内にどんなに学者がいようと、県知事がいようと、所詮は庶民ではないか。
確かにマサコの入内はいけなかった事だと思っている。
でも何より皇太子が望んだことなのだ。
あの可哀想な、不憫な我が息子が!
あの子がいてくれてどんなに助かったかしれやしない。
だのに先帝は「この子はヨリノミヤと同じかね・・・」と呟かれた。
その時の傷ついた気持ちを一生忘れる事はない。
だからこそ、ハーバード出の娘なら大丈夫だと思ったのに。
どうするべきなのだろう・・・・と皇后は思った。
オランダの城を貸し切り、実家メンバーを呼んで大騒ぎした挙句に
女王の誘いを断ったマサコの評判はすでに耳に届いていた。
アレはそもそも自分達が付き合うべく階級にあるものではない。
庇う義理はない。
自分達だって遊びで外国訪問した事はないというのに、堂々と
「静養」の名を借りて、国内の公務は出来ないのにオランダまで行った。
そんな常識外れな事が出来たのもヒサシという存在があったからだ。
だから切り捨てるべき・・・なのだが。
今はそんな事出来ない。
なぜって皇太子を人質に取られているのだから。
元々気弱で何かを理論的に説明する事が出来ない皇太子は
一方的に耳元でわあわあいわれると耳をふさいでしまう癖がある。
物事に正面からぶつかる性格ではなく、どちらかといえば事なかれ主義だ。
執着心のなかった彼の心を唯一掴んだのがマサコで、しかも義理の父親とも
親しい。
皇太子は信じているのだ。
あの子はあの子なりに「結婚」を政治的に利用しようとしている。
母である皇后がそれを邪魔する事ができようか。
「眠れないのか」
隣りで天皇が目を覚ました。
「いいえ、そんな事は」
「実は私もだ。明日、生まれると思うとね」
天皇は起き上がり、首を動かす。
「お茶でもお飲みになりますか」
「そうだね」
皇后は黙ってお茶を入れる。
「それにしてもすごい時代になったものだね。いつ子供が生まれるか
わかってしまうんだから。男の子か女の子かもうわかっているだろうしね。
科学の進歩は目覚ましい」
「本当に」
「こんな事ならもっと早くカコの下に何人か出来ていればよかったね」
皇后はお茶を入れる手を止めた。
このお人は何を言っているのか。
「東宮家に子供が生まれるまでは」と遠慮させたのは・・・ほかならぬ自分達ではないか。
それをすっかり忘れているのか?
「でも・・・」と皇后は続ける。
「そうなっていたらきっと軋轢が生まれましたわ。皇太子妃が可哀想です。
子供を産めない者の身にならなくてはいけませんもの。
今の時代は子供を産めるからと言って自慢できるわけではありませんからね。
それに皇太子妃はキャリアを捨てて皇室に入ってくれたのに、思い通りに
行かなくて心を病んでいます。
私達がそういう人に心を寄せるのは当然ですわ」
「そうだったね」
天皇は(まずい事いったな)というように頭を掻いた。
「私はきっと心が狭いんだろうね」
「いえ、そんな事は」
「125代男系男子で続いて来た家を自分の代で滅ぼすわけにはね」
「わかっていますわ。でも皇太后さまも陛下をお産みになるまでとても
大変な思いをされていました。回りから側室をめとるように言われたり。
それは女性にとって屈辱的な事なんですわ。
今は産む権利もあれば産まない権利もある。女性にとってはいい時代なんでしょう。
陛下は時代に逆行している皇室とは思われませんか」
「矛盾は感じているよ。そもそも民主主義の中の天皇制の在り方はどうしたら
いいかと思って悩んできたわけだし。しかしやっぱり一存で家を潰すわけには」
「女の子だったらどうなさるのですか」
「え?」
もう天皇はすっかり目が覚めてしまったようだ。少し考え込んで入れてもらった
お茶をすする。ひどく間を感じる。
「そうだね・・・それでも天皇制を続けていくのかどうかという話だね」
「11宮家の復帰などというバカげた話があるようですが、陛下もそう思われますか」
「それが出来るものならね。しかしミーは嫌なんだろうね」
「はい」
素直に皇后は答える。
「私は陛下のお血筋あっての天皇家と思っております。血筋の遠い宮家よりは
近い女性でもいいのではないかと思います。そうやってから次を考えた方が」
「政府はそれを許すかね」
「許さざるを得ないでしょう。女性達の産みの悲しみを取り除く為にも
陛下が先陣を切るべきかと」
皇后の過激な言葉に天皇は黙ってしまった。
「だってもし、男子だったら皇太子妃がどれだけ傷つくか・・・・子供が生まれる
事で傷つく人がいるなど、皇室ではあってはいけないのでは?そのうち
マコもカコも自分の存在意義が何であるか考えるようになると思いますしね。
とりあえず私は皇太子妃がこれ以上、心を病むことがないように祈ります。
アイコだってあの調子なのですから」
黙っていればアイコが女性天皇になるという事で穏やかに決まったものを
さらに1年延長させてしまった宮妃。
何かしたたかな計算があるのではないか。
皇后はどうしてもそんな疑心暗鬼から逃れられないのだった。
そして翌日の朝、その命は誕生した。
親王だった。
その時の複雑な思いを皇后は忘れられないと思った。