皇太子がマレーシアへ行ってから丸一日なんですけど、ほとんど報道がないってどうしてですか。
そりゃ、今はマレーシアより北朝鮮でしょうけど、でもあんなに「上げ」報道していた次期天皇ですよ。雅子妃が同行しないならどうでもいい存在なわけですか?
どんだけ偉いんだよ。雅子妃殿下って
色々偉そうに語って勢いよく行ったけど、どういう風に迎えられているのかイマイチ。
国内で批判の的にされるから報道しない様にしているんでしょうか?
そうよねーー
「デンマークには行く気満々なのにどうしてマレーシアは早々に行けないんですか?」とか
「外国訪問したからってすぐに活動の幅が云々とは限らない」とかわけわかめな事を言ったりとか
とにかく矛盾だらけの東宮家ですから。
天皇ご一家になったら菊のカーテンは閉めっぱなしで、女性週刊誌のみが一生懸命に上げ報道するんじゃありませんか?
さて。
徳仁天皇即位後の秋篠宮殿下の呼び方は「秋篠宮皇嗣殿下」でほぼ決まり。
内廷皇族にはせず、予算を3倍にする
という感じなんですが。
現在の皇太子一家 秋篠宮家
職員数・・・70人 20人
侍医・侍従・・いる いない
生活費・・・・3億2000万 6710万
前方に白バイ後続に警備 後続に警備車両
政府専用機を使用 民間機
医療費・・・無料 10割
電話代・・・無料 有料
地方公務にかかる費用・・・無料 宮家持ち
御料牧場の食材・・・無料 有料割引なし
御用邸・・・使用できる 使用できない
僅か2年後に皇太子が天皇になっても、秋篠宮家は内廷皇族にはならないという事です。
内廷皇族にならないという事は
称号がつかない
御用邸を使用できない
医療費は10割
その他諸々・・・・予算を3倍にするとか言いますが、じゃあ警備体制はどうなるの?
って話ですよ。
御用邸を使用する権利がない
現在、時々秋篠宮家が那須御用邸に行ったりしてますが、これは両陛下からの特別な計らいによるもので、しかも宿泊するときは職員用の宿舎を利用しています。
那須・葉山・須崎・・・この3つの御用邸はあくまで「内廷皇族」の為にあるわけで、今後も秋篠宮家には使用する権利がないという事になります。
御料牧場も同様かもしれませんね。
これのどこが「皇太子待遇」なのか・・・・・ 有識者会議はわかってる?
一方、退位した上皇・上皇后(?)は引き続き、何でも無料で御用邸も使えて・・・・
これじゃなんの為に退位するのかわからないよね。
称号・宮号・呼び名は違います
歌会始の儀で、皇太子は「ひつぎのみこ」と呼ばれ、雅子妃は「ひつぎのみこのみめ」と呼ばれます。
秋篠宮殿下は「ふみひとのみこ」紀子様は「ふみひとのみこのみめ」です。
この呼び方にはものすごーーく皇室での立場の違いを感じます。
皇太子待遇になろうと「皇嗣」と呼ばれようと、秋篠宮殿下は「ふみひとのみこ」にすぎないという事です。
そもそも「天皇」には名字がありません。
なぜないかといえば、日本の中で唯一の存在ですから名字を持つ必要がないのです。
だからそれに連なる皇族方もそれぞれ「后」「東宮」などと呼ばれ、真名を直接呼びません。
昭和天皇の時代、皇后陛下といえば「良子様」の事で、私達は皇后陛下のお名前が何であるかなんて考えた事ありませんでした。
知る必要もない事だったからです。
当時の今上も「皇太子」と呼ばれて終わりです。
大正時代の良子様は「東宮妃」「摂政宮妃」で、「良子」という名は結婚前に使われたのみでしょう。
しかしながら正田美智子さんが入内したあとは、一般的に「美智子妃」と呼ばれるようになりました。
多分、マスコミがそう呼ぶようになったからじゃないでしょうか。
本来なら「皇太子妃殿下」と呼ばれて終わるものをわざわざ「美智子妃」「美智子さま」とやたら名前が強調されるようになりました。
よって常陸宮妃も「華子さま」になったし。
でも戦前、秩父、高松、三笠宮妃が「勢津子様「喜久子様」「百合子様」なんて呼ばれる事はありませんでした。
それは皇子や皇女もそうで、さすがに「美智子さま」の子供達もそれぞれ「浩宮」「礼宮」「紀宮」と称号で呼ばれていました。
つまり、名前で区別しなくちゃいけない存在というのは、皇族の中でも下の位なわけです。
源氏の君だって生まれた時は「二の宮」だったわけで。
臣下に落とすにあたってつけられたのが源氏の君。
名字を与えられるというのは皇族にとって名誉なことではないんですよね。
明治以前、宮家は4つのみ。
伏見・有栖川・閑院・桂・・・これが4親王家と呼ばれていて、宮号は断絶しない様に当主がいなくなるたび、帝の子供が入っていました。
明治になると、還俗した王や親王が宮家をたてて11宮家に。
一方で桂と有栖川は断絶。
有栖川宮家を何とか残したいと思われた大正天皇は、ご自分の3番目の息子である光宮(てるのみや・・これは称号)に、兄たちよりも早く「高松宮」という宮号を与えました。
よく、「昭和天皇の時代だって秩父宮は皇太子でも皇太弟でもなかった」という意見があります。
本当にその通りでした。
でも、当時は昭和天皇はまだ30代。香淳皇后も2年おきに出産を続けていましたし、今上を産んだのは30歳の時です。
現在の皇太子とはずいぶん違う環境です。
それでも生まれなかった場合どうなったでしょう?
昭和天皇と秩父宮は年子でしたから実質的に秩父宮が東宮になるのは無理として。
じゃあ、高松宮なら?でも歳が近い。
最も歳が若かったのは三笠宮ですから・・・それで故三笠宮は皇位を狙っていたと言われるわけです。
当時、内廷皇族と宮家でどれほどの差があったのかわかりませんけど、少なくとも今ほどではなかったんじゃないかと思います。
もしかしたら皇位も照宮の夫となった東久邇家に渡っていたかもしれません。
それくらい柔軟であったと思われます。
秋篠宮皇嗣殿下というのは称号ではなく、「呼び名」でしかないのです。
紀子様は「皇嗣妃殿下」と呼ばれるでしょうか?多分、呼ばれないでしょう?
秋篠宮皇嗣殿下の長男、悠仁殿下と敬宮愛子内親王とどっちが上かと言えばやっぱり敬宮の方だろうと思います。
称号がつかなくては対等にならないんです。
歌会始で「ひつぎのみこ」「ひつぎのみこのみめ」と呼ばれないと意味がないんです。
それが皇族というものです。
対外的に「クラウンプリンス」なんだから「皇嗣」をつければいいじゃないかというのは間違っています。
宮号を残したいのなら、かつての高松宮のようい悠仁殿下に「秋篠宮家」を継がせればよいのです。
皇太子・文仁殿下
皇太子妃・紀子殿下
〇宮眞子内親王
〇宮佳子内親王
秋篠宮悠仁親王
で、いいんですよ。
徳仁親王が天皇になっても数年で終わってくれれば秋篠宮が天皇になる。
そして悠仁殿下が18歳になり次第立太子する。それでいいのです。スマートです。
元号だって徳仁親王の時は変えなくていいです。
なんでわざわざ「皇嗣」をつけるのか。有識者会議は皇室の歴史について何も知らないのではありませんか?
やる事なす事聖武天皇みたいだなあ・・・・
それと。
亡くなられた後、諡号を送られるのも天皇と皇后のみです。
秋篠宮がどんなに「皇太子待遇」になろうとも、天皇にならない限り諡号は送られませんし、陵もなしです。これが立場の違いです。
眞子さまや佳子様にしても、同じ内親王でも称号があるのとないのとでは、結婚時の予算すら違ってくるでしょうし、外国訪問をするにしても扱いが変わるでしょう。
愛子内親王が海外へ行けば「あのマサコの娘」という事で注目されるかもしれませんけど、実質的に「皇室外交」は無理です。たとえ替え玉でも。
なのでぜひぜひそこらへ、官邸メールをよろしくお願いします。