明仁皇太子が正田美智子を選んだ理由
手話34年4月10日はひどく晴れ渡っていたようですね。(徳仁親王の時みたいにどしゃぶりじゃなかった)
当時から長い間、二人の結婚は「恋愛」結婚だと思われてきましたし、正田家は辞退に辞退を重ねるも、皇太子に請われて、「一大決心」のもと、皇室に嫁いだ・・・という話が伝わって来ました。
が、21世紀になった今、それは全くの間違いで、実は宮内庁・アメリカ・キリスト教勢力による「正田美智子入内計画」によるもので、それをもっとも推し進めたのが正田夫人であった事。
何等かの密約がそこにはあったものの、実はそれが果たされず、夫人は晩年に週刊誌に「何もかも約束が違った」と漏らしました。
1965年8月30日号の週刊女性には皇太子の学友、橋本明氏の言葉を借りて、なぜ皇太子が正田美智子を選んだのかという事が語られています。
「上流旧華族以上の家から、妃をとらないとしたことは、遺伝的な考慮ばかりでは決してなかった。
国民と共に考え、共に生きる伴侶としての人を求めていた。
これは旧華族上流以上の人には、求められない姿であった。
現在、美智子の、常に日本国民のことを考え、自分のつとめに忠実たらんとしている姿をみて、この自分の考えが間違っていなかったと感じている」
何と正直な言葉だろうと思いますが、けれど言ってはいけないセリフでもあったと思います。「国民と共に考え、共に生きる伴侶」に旧華族上流以上の人には求められない姿」というのは、どこからそんな考えが浮かんでくるのか?と思います。
正田美智子は庶民の出だから国民と共に生きて考えられると本気で皇太子が思ったのであればそれは違うでしょう。
皇族や華族だからこそ損得抜きに国の為に行き、国民の為に生きられるのであって、商人の家で育った美智子嬢に果たしてそんな考えがあったろうか?と、思います。正田夫人は何等かの見返りを求めて娘を皇室に差し出したわけですが、その「見返り」とは何だったのか、今はわかりません。
でも自分が名前を出したら困る人が多数いる・・・とも言っていますので、相当な恨みを抱えていたのかもしれません。
一般人とはいっても正田家の暮らしぶりはとても庶民とは思えない贅沢なもので、旧皇族や華族がその暮らしぶりの見返りに兵役に就く事や、望まぬ結婚すら受け入れなくてはならない「義務」を負っていたのに対し、「正田美智子嬢」は大学を出ても働くわけではないし、即結婚するわけでもない、いわば親のお金で家事手伝いが出来る自由気ままなお嬢様だったわけです。
独身時代にボランティアや福祉に尽くしていたわけでもなく、毎日が見合いの日々だった筈ですよね。7回もお見合いをしたんだから。
いわゆる「有閑マダム」的な生活の中で「国民と共に生きる」感覚が育ったとは私には思えないのですが。
皇太子妃になってから、施設巡りをしたり沖縄に執着したのも全てパフォーマンスでその公務の開拓ぶりはまさに営業マンでした。
そして1972年1月1日・8日週刊女性合併号において美智子妃の手紙が出てきます。
「《家庭を持つまでは絶対死んではいけないと思った」と、お話し下さった時、私はいままでの自分の見聞の中にも、読みました小説の中にも、このように寂しい言葉はなかったと思いました。そしてその中を二十五年間お歩みになっていらした東宮さまのおために、力をつくして、あたたかい家庭をお作りしたいと思いました」
この「家庭を持つまでは絶対死んではいけないと思った」という言葉を美智子妃は「皇太子の孤独」を象徴する意味で使っているのですが、なぜかというと、「皇太子は孤独である」とイメージ操作をしたのは美智子妃だったからです。
「皇室に生まれ、小さい頃から両親と引き離され東宮御所で孤独に過ごした可哀想な皇太子殿下。一般人ならそんな思いをしなくてもすんだのに」
という思いはまさに庶民中の庶民。物語の世界です。
皇太子が若かりし頃の写真を見ても孤独さは見えません。
昭和天皇と香淳皇后はいつも満面の笑みで子供達を見ていたし、頼もしく感じていたし、皇太子は学友に囲まれ銀ブラはするわ、テニスに興じるわ、まさに青春を謳歌していましたよね。
「家庭を持つまでは死ねない」というのは「次世代を産むまでは死ねない。それが皇太子としての務め」という解釈が出来るのですが、美智子妃のこの手紙の内容を誰も否定しなかったし、結果的にそのイメージ通りに今まで来ました。
「皇族に生まれるのは不幸」
「皇族は大変」
そんなイメージで包まれた皇室では税金がどのような使われたかをしているのか監査するシステムがありませんので、やりたい放題です。
今や「皇族を3日やったらやめられない」立場、それがわかるKKに付け入る隙を与えてしまったのです。
私が生意気だと思ったのは
「手元で育てさせていただくとすれば、それはもう皇后さまのお時代と違う形をとることになってしまいますし、それから乳人(めのと)の問題も――」
これ、結婚する前からこういう手紙を美智子妃は出していたわけですよ。
子供を産む前からやんわりと「違う時代を作る」宣言してました。
「お時代」ですって。すごい言葉ですけどね
こんな手紙が公開され、得意になっていたのは本人だけで、きっと昭和天皇も香淳皇后も、旧皇族も旧華族も唖然としたろうし、自分達に対する挑戦と受け取ったでしょう。まさに足元から崩されていく思いをしたでしょう。
特に香淳皇后に関しては「東宮だって3歳までは自分で育てたのに」どうしてそれを言えないの?と怒り心頭で新興宗教にハマってしまった・・・わかりますよ。
こんな策略をめぐらし、先手先手を行く嫁に太刀打ちできる姑はそうそういないでしょうし、世の中にこんな人間がいるという事もわからなかったでしょうね。
「そうして皇后の笑顔に騙され続ける・・・・」って事になるんでしょう。
皇室と国民を同列にした時点で、皇室は終わろうとしているのだと思います。