今回の宮城県への旅の目的は私自身のルーツを探ると共に、ふぶき家のルーツを探るという目的がありました。
よく「小和田雅子さんは3代前が遡れない」という話が出てきます。3代前って誰?という問題があるのですが、雅子さんから見て父・父の父・父の父の父・・ここが不明だという事なんです。おまけに墓がなかった。
元々日本には檀家制度があって、どの家も必ずどこかのお寺に属していて檀家料を払ってお盆などの法事をやって貰ったり、葬儀をして貰ったりしています。すくなくとも小和田恒氏の世代で自分の墓がないという事はないと思います。
誰でも、ご両親が亡くなると、年金未支給あるいは口座の解約、相続などの為に親が生まれてから死ぬまでの戸籍を取り寄せなくてはなりません。ずっと一か所に本籍地がある人はいいけど、転籍を繰り返している人は一々、その本籍地へ取りに行かなくてはなりません。私の場合、司法書士さんに頼んで、父の父、つまり祖父までは戸籍を持っていました。
でも、今回はその前に遡りたい、つまり戸籍が作られた時代まで遡れないかということで色々調べたんです。
みなさんもご存じかもしれませんが、もし知らない人がいたら・・・という事で書かせて頂きますね。
旧民法では「戸主」がいて、両親・妻・子・親戚の類まで一つの戸籍に入っていた。
「戸主」というのは財産を全て受け継ぐ権利があったが、一方で一族の面倒をすべて見ないといけないという義務があった。
(例:太宰治が問題行動を起こす度に色々助けたのは戸主の長男)
戦後の民法では婚姻した時に「本籍地」を定める決まり。筆頭者は男性でも女性でもいいが名字を名乗る方。ふぶきの場合は夫が私の名前を名乗っているので私が筆頭者です。
この戸籍には夫婦、そして婚姻前の子供が記載されます。両親はまた別な戸籍になります。
現在、戸籍は親→子→孫というよに直系でしかとれません。婚姻して別戸籍になっている兄弟の戸籍はとる事が出来ません。
という事を踏まえて私がとったのは
ふぶき婚姻後の最新の戸籍
平成19年以前のふぶきが筆頭者の原戸籍
ふぶき父が筆頭者のふぶきの戸籍
ふぶき父の父が筆頭者のふぶき父の戸籍
・・・・というように遡っていくのです。
母方の戸籍は熊本になるので、郵送で申し込むしかないかなあと思っています。
これによって何がわかるか。
先祖の名前・生年月日・本籍地
先祖の嫁ぎ先
文字が小さくて読みづらく、解釈も難しいのですがとりえあえず一人ひとりを紙に現代語で書き直してみる。
そうするとより、誰が誰の子で兄弟であるかがわかります。前述したように旧民法では、兄弟や従兄弟まで同じ戸籍に入るんですね。でなければ分家といって、新しく戸主になります。
ふぶき祖父は分家だったので、その前に遡る時は、分家する前の戸主が筆頭者の戸籍をとります。その結果、明治の初期まで遡り、安政・天保生まれの先祖まで出てきました。
それ以前にさかのぼる為には檀家となっているお寺の過去帳を見るか、お墓に刻まれた文字を読むか・・・ですが、今回、過去帳は「封印」されているとかで見せて貰えませんでした。
調べてみると歴史がわかるというか、その時代に生きていた人がどんな風に生きて死んだかがふわっと見えてくるような気がするんです。
想像を膨らませるのも楽しいですけどね。
だから私と1歳しか違わない雅子さんの3代前まで遡れないというのはおかしいんですよ。小和田家は村上藩の藩士だったんだよね?
そういえば家紋は・・・?って他人様の家の事はいいんですけど。私が郷土史家などだったらもっと詳しく、地域の事も調べられるのになあと。
実は白石城の傍には小さい武家屋敷がありまして、観光地になってます。でも多分、その辺りは武家の家が並んでいるんだろうなと思う程、どの家も土地が広いし人間関係複雑そうなの。
でも武家屋敷といっても土間と居間と納戸しかない家で、写真撮影もOKで、だから私、床の間を背にして写真を撮ったんですね。
そしたら・・・・こういう事書くと絶対嵐が来るんだろなあ・・・でも話のタネとして聞き流してね。
私の背後に刀の影みたいなものが写ってるんです。それも鞘もなにもついていない刃物状態の。
2本か3本。多分、この床の間の掛け軸の前に刀を置いていたろうという事はわかるんですが、戦国時代よ?それに私の頭を一本のかんざしのようなものが貫いていて、あれ?壺とか花瓶とかあったっけ?って。でもあった・・きっとあった。そう思う事にしてます。あまり怖いとは思わなかったんですけど、その写真をスマホからパソコンに移動した時に画像が崩れて。何度やっても崩れるのでよくよくみたら・・だったんです。
とりあえず忘れよう。