週刊文春 1993年1月21日号
「小和田家の人々清貧の思想父系は村上藩の下級武士」
・小和田家の歴史を恒氏もその父、毅夫氏も知らなかった。
・新潟市在住小和田豊春氏いわく
「毅夫さんと恒さんが訪ねてこられたのは5年前。新潟に墓参りに行った帰りに祖先の地を訪ねました」とあいさつされた。
我が家と毅夫さんの家系は150年前の小和田道道助の代に分かれた遠縁の一族です。小和田家の先祖について二人とも熱心に聴いて行かれました」
・二人がきいた小和田家のルーツは越後村上藩内藤家五万石の下級武士。代々下横目、御徒目付、奥方つきお庭番などの役職につき、柔術「清剛流」の達人。
・明治維新で村上藩は賊軍となり藩の士族は辛酸をなめる。
・当時の小和田家の当主は小和田金吉だが、わずか5人ぶちの家禄も失い、村上を離れざるを得なかった。
・金吉は新潟市、高田市と移り住みながら聾唖教育に携わったが村上との縁は切れた。
・「しかし不思議なことに毅夫さんと恒さんの本籍地は150年前に分かれた家柄の私と同じ村上市本町370なんです。これが謎なんですよ」
・本籍地が村上にさえあれば育英資金を受け取れ、毅夫はそれで教育を受けた。金吉・毅夫・恒と3代における教育者の家系が出来上がった。
・「1に勉強2に勉強3に勉強」が小和田家の家訓
・江頭寿々子は海軍大将山屋他人の娘。江藤淳は優美子の従兄。
女性セブン1993年1月26日号
「皇太子さまご結婚緊急特別号・どこよりも詳しく60ページ総特集・雅子さんが躍った夜他他素顔40章・雅子さん!竹下元首相を感嘆させたハスの葉クイズ・渡辺みどり特別寄稿「鞄を持ったプリンセスに拍手」・愛の秘話公開雅子さん妃の決断・殿下を勇気づけた雅子さんの告白・専用電話で語り合った皇室と外交・証言「美智子さまと語らいの午後」・姑から嫁へ!十二単に込めた愛
消えたお妃候補たち(小田桐誠著・1993年7月)
「(補足:1993年1月19日の)皇室会議では、皇族としてただ一人出席した三笠宮は、「雅子妃決定」に皇族を代表する形で不快感を示したといわれる。二月八日の夕食会のことでも、自分たちがないがしろにされていると感じたのだろう。一度は、三月十七日に決まった納采の儀が引っくり返っている。(補足:納采の儀は日程変更し、4月12日に執り行われている)
1993年1月19日 婚約記者会見
皇室会議を終えた現在の心境は。
皇太子 たいへんうれしく思っております。この間、温かく見守って下さった方々に対して心からお礼を申し上げたい。また私からの申し出を受けてくれた雅子さんに対しても心から感謝したい。これからは力を合わせて様々な務めを果たしていきたいと思っております。
雅子 大きな責任をお引き受けすることになるわけですから、身の引き締まる思いがいたします。その一方で、多くの方々に祝福いただいていることを大変幸せに思いますとともに、私をお導き下さった皇太子殿下をはじめ、これまでお力をお貸し下さった方々に感謝の気持ちでいっぱいです。
皇太子 十月三日に千葉県の鴨場で、「私と結婚していただけますか」というようなことを申しました。その時の答えははっきりとしたものではなかったけれども、十二月十二日にこの仮御所に来ていただいて、そこで「私からのお申し出、受けていただけますか」というふうに申しまして、それを受けていただいたというわけです。
雅子 十二月十二日、殿下に「本当に私でよろしいでしょうか」とうかがいました。「はい」とお答え下さいましたので、私の方から次のように申しました。「私がもし殿下のお力になれるのであれば、謹んでお受けしたいと存じます。これまで殿下には、いろいろ大変幸せに思えること、うれしいと思えるようなことも言っていただきましたので、その殿下のお言葉を信じて、これから二人でやっていけたらと思います。殿下にお幸せになっていただけるように、そして私自身も自分でいい人生だったと振り返られるような人生にできるように努力したいと思いますので、至らないところも多いと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします」と。
雅子 私がご辞退申し上げたことがあるかどうかは、私から申し上げるのは差し控えたいと思いますが、外務省で大変やりがいのある仕事をさせていただいておりましたので、仕事を辞めるべきかどうかについて、だいぶ悩んだことはございました。この新しい決心をするまでに、十分に考える時間が必要だったということだと思います。
皇太子 最初は昭和六十一年、スペインのエレナ王女が来られて、当時の東宮御所でレセプションが行われ、その席で会ったわけです。その際、非常に強いというか、いい印象を受けました。まず非常に控えめでいらっしゃるんだけど、自分の思っていることをはっきりとおっしゃって、それでいて聡明で、話題にも共通性があってお互いに心が通じ合うという感じを強く持ちました。話をしていて楽しい人というのが最初の印象です。
五年ぶりにまた会うことができ、最初に会った時のいい印象と同じようなものでした。外交官として非常に大切な仕事をしているせいか、また人間としてひと回りもふた回りも大きくなった感じがして非常にうれしく思ったわけです。
雅子 最初の時は、大変緊張してごあいさつ申し上げたんですが、その後は、意外なほど話が弾みました。とても気さくで、かつ配慮のある方だと思いました。五年ぶりに去年の夏にお目にかかった時は、楽しくお話をすることができました。その時点では、殿下のお気持ちをうかがっておりましたので、内心、正直なところ複雑な心境でございました。私が殿下のどういうところにひかれたかと申しますと、殿下は、ご自身がお苦しい時でも、他の人の苦しみについてまず先に考えられるようなそういう大変思いやりの深い方で、大変忍耐強くいらっしゃる。こう言ってはちょっと失礼かもしれませんが、とても人間ができた方と敬服いたしました。ご趣味、ご交際もとても広く、心の豊かな方でいらっしゃると思います。
雅子 これまで六年近く勤めておりました外務省を去ることにさびしさを感じないと申したらうそになると思います。やりがいのある仕事をさせてもらい、学ぶべきところも多く、尊敬すべき先輩や同僚に恵まれて充実した勤務でした。昨年の秋、いろいろ考えた結果、私の果たす役割は殿下の申し出をお受けして、皇室という新しい道で自分を役立てることではないか、と考え決心したので、今は悔いはありません。
殿下からは私の心を打つような言葉をいくつかいただきました。ひとつは去年の十一月の後半、「皇室に入るのはいろいろ不安や心配がおありでしょうが、雅子さんのことは僕が一生、全力でお守りしますから」と話しかけてくださいました。
さらに、十二月初め、「十分にお考えになって下さい」とおっしゃられ、ご自身も「大変悩んだ時期があった」とおっしゃられたので、「何をお悩みになられたのですか」とお尋ねしました。「僕としては雅子さんに皇室に来てもらいたいとずっと思っているけれど、本当に幸せにしてさし上げられるのか、悩みました」と言われました。そのような殿下の真摯なたいへん誠実なお言葉をいただき、幸せに思うことができましたので、「私でできることでしたら、殿下のことを幸せにしてさし上げたい」とお受けした次第です。
その間、殿下からは、私がお受けすることになれば両陛下も温かくお迎えするとおっしゃって下さっている、ということで、私にとって大変大きな励みになりました。一部で言われているように、直接、皇后さまから私にお気持ちをお伝えになられたようなことはありません。
皇太子 両陛下、特に陛下には折にふれ、いろいろご相談して参りましたが、皇后陛下の方はこの結婚問題が始まったころから、当事者である私と、関係者に任せておられて、皇太子妃という立場を了承してこちらへ来て下さる方に対するお心を砕いておられたのです。私が結論に達する前に、皇后陛下が特定の人に対して、それを否定したり、支持されたりするようなことは一切ありませんでした。それは雅子さんの場合も同じです。皇后陛下としては、私が選んだ人を心から受け入れるという気持ちを終始貫いて下さいました。
今回の結婚に至ることを振り返ってみましても、両陛下がこの件をすべて私に任せて、そして信頼して下さって、そしてご自身は温かく私たちを見守って、そして長い年月をともに耐えて下さったということで、私はそのことに対して心から感謝したいと思っております。
皇太子 私自身、幸せな家庭に育った経験をもつ者として、安らぎのある明るい家庭を、と思っています。それは私たちがこれから様々な公務を尽くしていく上でも、また次代の子供たちにとっても非常に大切なものではないかと思っております。これから先、二人でお互い学び合って、ともに高め合っていくということもやってみたいと思っています。
雅子 基本的には殿下のおっしゃる通りですが、[[一言つけ加えさせていただければ]]、愛情に満ちた温かい家庭ということ。特に、苦しい時やつらいことがあった時にお互いをいたわり合って助け合っていくことができるような家庭にできればと思っています。
皇太子 子供についてはコウノトリのご機嫌に任せて、と申し上げておきましょう。
雅子 その質問に関しては多分出るでしょうと、一昨日お目にかかった時に、だいぶ相談しましたが、答えは出ませんで、殿下にお任せすると申し上げました。ただひとつだけ、これだけはおっしゃらないで下さい、ということがありました。それは殿下は大変音楽がお好きでいらっしゃるんですが、家族でオーケストラが作れるような子供の数、ということはおっしゃらないで下さいと申しました。
皇太子 この件に関してはチッソの問題もあり、宮内庁の方でも慎重論が出て、一時は中断もやむを得ない状況になってしまいました。その間、雅子さんも外交官としての研修中でもあり、外交官の仕事を続けたい、という意向でしたし、マスコミの取材攻勢もあり、お互い静かな環境のもとで、ゆっくり話し合うという機会がとれませんでした。その間、私は常に雅子さんのことが念頭にあり、「本当に雅子さんでは?」ということを何回となく宮内庁にも申し入れをしました。私は私自身の気持ちも大切にしたいと思いますけれど周囲の意見、周囲の考えも、これもまた大切にしたいと思っておりましたので、昨年、周囲の意見が雅子さんでいい、ということで固まった時は、大変うれしいものがございました。
皇后さまは嫁がれた当初、慣れない皇室生活に苦労されたようだが、仮に雅子さんにそういうことがあった場合皇太子さまはどのように雅子さんを支えていくお考えか。皇太子 皇后陛下の方から一切そのようなことに関する話はうかがってはおりません。私から拝見しましても皇后さまは大変明るく楽しい方で、そのようなことがあったと言われても、ちょっとピンと来ません。
ただ以前に皇后さまに、この件に関して、うかがった際に「私はいつも自分の足りない点を周りの人々に許していただいてここまで来たのよ」ということを言われたことがございます。その言葉が今でも非常に印象深く残っております。両陛下の歩まれた三十数年の歴史がありますので、雅子さんが大きな苦労をされることはないと思いますが、何分にも皇太子妃という責任のある重大な立場になるわけですから、苦労があった場合には、私がそばにいて全力をもって守って、そして助けてあげたいと思っています。
雅子 大変、忍耐強くて根気強くていらっしゃること。勇気がおありになること、そしてすごく思いやりのある方でいらっしゃることです。
皇太子 呼び方は、今のところは、私からは「雅子さん」。
雅子 私からは「殿下」です。
皇太子 きょうこのように内定したわけですから、呼び方もこれから考えていきます。共通する話題ですが、彼女も興味の範囲の広いものですから、音楽、スポーツ、歴史、政治経済にいたる幅広い分野でいろいろ話ができる。とにかく一緒に話していて非常に楽しいというのが私の印象です。
雅子 動物の話と、子供のころやったいたずら話とか。
皇太子 そう、動物の話は一緒にすることがありますね。
雅子 これからだと思います。以前、料理は少し楽しみで習ったことがありますけれども、本格的な花嫁修業というものではありませんでした。少しずつこれから、のつもりです。
何度読んでも雅子さんの恩着せがましいへんてこな日本語にあきれるばかりです。何様のつもりだ?って感じですよね。
1993年1月20日 朝日新聞
「キャリアから転身のプリンセス東大や学習院の女子学生45人に聞いてみたら」
「『皇室外交』という言葉に惑わされてませんか」東大文学部4年
「昔は断ったのに、なぜ急に結婚する気になったのですか」東大理科2類1年
「いままで付き合った人はいないの」学習院大経済学部1年
「皇太子のどこが好きになったの」学習院大理学部1年
とりあえず慶事ですからお祝い一色なんですけどね。