雅子さんは9日の園遊会は全部歩くんですって。当たり前よねーー皇后陛下になるんだもの。農業担い手サミットを欠席までして「体調を整え」たわけだしね。洋装でも沢山服を作ったから大丈夫よね。
1993年2月5日 小和田夫妻と小和田雅子上野の「MOMA展」へ
1993年2月8日赤坂御所で両陛下と夕食
何だか今とあまり変わりがないというか・・・・何だろうこの新鮮さのないカップルは。この時からすでに皇太子は何も言えずにいいなり?
1993年2月9日 小和田雅子外務省退職
女性自身1993年6月30日号緊急増刊永久保存版雅子妃誕生愛「決断」の全て
この上田さんという人は雅子さんの同期で「ネズミに似てる」「うちのショコラに似てる」と言われた方です。
VEWS2月10日号
橋本大二郎「殿下にお幸せになっていただけるようにー雅子さんで何かが変わる」
皇室は変わっていかなくてはならないというような話。
ヒラリーと対談してみれば?って皇族と政治家を一緒にするなと言いたいです。
文藝春秋1993年3月号
「新皇太子妃物語―平成皇室が迎えた比類なきキャリアの背景」
外務省職員が婚約会見を見て
「彼女、随分慎重に言葉を選んでるじゃないか。非常に懸命に真剣に喋っているという感じがする。なかなかいいじゃないか」
「それにしてもあの手袋と帽子はいただけない。たとえ正式な衣装だとしても小和田さんにとっては違和感あるな」
ぽちゃっとした頬の輪郭で、造作の大きい容貌は美人というより可愛らしい。だが全身から発散されるものは圧倒的な才気で容易に他人を近寄せるものではなかった。彼女は一種張り詰めた空気をまとっていた。
「小和田さんは当然ダフで強面だった。率直に言えば仕事の場面では記者会見の時のような喋り方をする方ではなかったということです。むしろ逆。くだけた口のききかたをする人です」
「彼女は必要とあればどんな人にも場面にも自分を合せて態度を変えることが出来ます。しかもそれを彼女はたいした努力なしにやり遂げますね」
実際彼女は同僚に対してはつとめてさばけた態度をとったがフォーマルな物言いが必要な相手には周囲が堅苦しいとさえ感ずるほどの行儀のよさを発揮した。上長をたてることの巧みさは多くが指摘する特性だ。彼女の敏感な配慮はときに息苦しく感じられるほどだった。
「おばあさま、浩宮様ってそんなにお偉いの?」
寿々子さんが浩宮さまは次代の天皇になる方ですよと諭すとびっくりしたように
「じゃあ、私、すごい方にあったわけね」
彼女が大秀才であると同時に世間にうとい面もある女性であったことは外務省の同僚も認めている。そのことを端的に表すのは彼女の「あだな」だ
「お嬢」雅子さんはこう呼ばれていた。
「世間の風にあたっていない。勉強は出来るが世情にうとい、どことなく浮世離れしたお嬢さんという軽い揶揄も含まれていたあだなでした」
「入省6年目といえば外務省の現実に気が付くには十分な時間です。こんなはずではなかったと彼女が感じても不自然とは思いません」
1月19日の記者会見は皇太子殿下と婚約を交わした1女性の表白というよりむしろ職業を持つ有能な女性の転職の弁に聞こえなくもなかった。
要するに何がいいたかったかというと
小和田家は中流階級の理想形 → 勉強で身を立てる二宮金次郎型
小和田恒の厚い庇護が雅子という人を世間知らずにした面もある
勉強は出来るけど世情にうとい「お嬢」
理想をもって外務省に入ったけど結果的に6年間やってきたのは雑用ばかり。現実問題、なかなかやりがいのある仕事を回してもらえるわけではなく地味だ。ゆえにこのままではどうにもならないから皇太子妃になうることを選んだ。
ということなんです。
それにしても、相手が誰でもどんな場面でも自分を変えることが出来た筈の女性が今や園遊会もままならず「知らない人と話すのは苦手」と25年言い続け、このたび、やっと全出席出来るようになったそうです。
上記のように考えると雅子さんは「適応障害」を理由に自分の「我」を通す作戦に成功し、最後の最後、真打登場で華やかに自分を演出する技巧的な人なのかもしれませんよね(棒)