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宝塚歌劇にとっての平成とは何だったのか  1

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宝塚歌劇が発祥して今年で104年。それも歳が変われば105年目に突入します。

常に西暦とともに語ることの多かった宝塚ですが、大正・昭和・平成と続いてきた歴史を紐解き、宝塚歌劇団にとって平成とはどんな時代だったのか考察してみたいと思います。(壮大や)

 

 国民劇として発祥した宝塚歌劇

創始者の小林一三の理想は「国民劇」としての宝塚でした。

誕生したのは大正3年のこと。小さな宝塚温泉の使い道を考えて作り出したのが「少女歌劇」でした。

大正時代はまだ男役とか女役などの区別はなく、脚本も小林一三が書いたりして結構大変でした。

三越の少年合唱団を見てひらめいた「少女」だけの歌や踊りをみせようと思ったんですね。

大正8年には音楽学校が出来ました。当時としては画期的にモダンだった制服と緑の袴。

でも明治から大正にかけて、女の子が歌ったり踊ったりすることはあまり育ちのいい人がすることではなくて、希望者を募るのが大変。そこで「お嬢様をお預かりして行儀見習いをさせる」とかいう名目を設けて音楽学校は成り立っていったんですね。

小林一三の考える「国民劇」というのは、日本人全てが理解できて楽しむことが出来る演劇のことなのです。

今では当たり前のことですが、江戸時代に隆盛を誇った歌舞伎が高尚なものに変化し、外国からシェイクスピアなど難しい演劇が入ってきて、「一部の人が楽しむもの」になっていきました。

言葉も難しいし、振りもよくわからないし、外国の風俗もさっぱり。

そんな日本人の老若男女全ての人が楽しむことが出来る「国民劇」を小林一三は作りたかったのです。

宝塚歌劇団は少しずつ規模が大きくなり、花組と月組が出来ました。

大正13年には宝塚大劇場が誕生。それと同時に雪組が誕生。着々と基礎が固められていきました。

 昭和の前半は男役スターの誕生

昭和2年、岸田辰彌が本場パリから持ち帰ってきた「モン・パリ」が大ヒット。大階段もどきも誕生。

昭和4年、白井鐡造が「パリ・ゼット」を発表。単なるお遊戯会からヨーロッパのレビューを取り入れることにより日本に歌って踊ることの楽しさを教えました。

昭和5年には「ローズ・パリ」で宝塚ならではの銀橋が誕生。

そして日本には宝塚だけでなく松竹などの歌劇団が次々と登場します。当時のレビューは、私たち日本人にとってはまさにスペクタクルだったでしょう。

ショーもレビューもまさに驚きと喜びで一杯のスペクタクルだったのです。

昭和8年。星組誕生。専科誕生。「花詩集」発表

昭和9年。東京宝塚劇場開場。杮落としは「花詩集」

当時、人気を二分していた男役スターは星組の葦原邦子と月組の小夜福子。

もし私がその当時、宝塚を見ていたらきっと葦原さんのファンになったと思うんですけど。でもフェアリーな小夜福子は今の稔幸に顔の形が似ているなと思います。

私の好きな楠かほるは星組 → 花組で、星組は春日野八千代のために発展していくのです。

後に葦原さんがケンちゃんのおばあちゃんだって知った時はびっくりしたし、小夜さんが「おやじ太鼓」に出演してすごい迫力のおばあちゃんになっていた時も驚きでしたね。

この頃は戦前の最盛期。東京にもファンが増えましたが当時のファン層の半分は男子。彼らがまじめに宝塚に対して「これからの宝塚は少女歌劇を維持していくか、高尚な演劇集団になっていくべきか」と議論していたんです。

それもこれも戦前の小池修一郎こと、中西武夫が「モンテ・クリスト伯」を上演して、それが結構少女歌劇とは一線を画す作品だったんですよね。また戦前の正塚晴彦こと東郷静男が「ゴンドリア」を発表するなど、いわゆる芸術性の高い作品が出てきて、白井先生なんか古いわといわれるようになります。ここらへんが今とよく似ている部分ですね。

違うのは、まじめに宝塚を語っていたのが男子学生だったということ。女性は作品そのものを語るいうより、生徒の技術的な部分を語っていたような気がします。

やがて戦争が始まると、様々な劇団が活動を停止していく中、軍と組むことで昭和19年まで存続したのです。

 関西の劇団から日本の歌劇団に

戦後の宝塚を支えたのは春日野八千代ではないかと思います。また神代錦などの専科陣も充実。

芝居もさることながらショーの分野において新しい試みが色々なされるようになりました。

「ノバ・ボサ・ノバ」「シャンゴ」「華麗なる千拍子」など。

けれど、テレビの登場により次第に低迷期がやってきます。

昭和までの舞台鑑賞の仕方というのは歌舞伎と同様、ほぼ1日を劇場の中ですごすんですね。

芝居も3幕まであったり、お昼はお店を予約して食べてまた鑑賞・・・というような。

とても贅沢な時代です。宝塚の場合は上演日程が好評であれば延長されたり、芝居とショーと別々にチケットが買えたり、おうような時代です。

しかしながら、テレビの普及とともにショーやレビューがすたれていくわけで日劇の終焉は象徴的でした。

そんな中宝塚が生き残ることが出来たのはまさに昭和51年の「ベルサイユのばら」の大ヒットでした。

無論、本拠地では最初から人気だったのかもしれませんがNHKが放送してくれなかったらわたしなどは一生知らなかったんじゃないでしょうか?

NHKの地上波では毎日、本当に色々な芸能を放送してました。文楽・落語・歌舞伎・帝劇・・当時の帝劇は和物が中心で硬くて渋い芝居ばかり放送されていました。

落語などは面白いけど歌舞伎や帝劇などは小学生にはかなり難しかったんですね。z(今、思えばちゃんとみとけばよかったと思いますが)

そんなある日、テレビをつけたらドレスを着た大勢の貴族たちが「まるでニンフのよう」といって、舞台端からドレスのオスカル様が登場したんです。思わず見入った私は最後は感動して大泣き。それからは寝てもさめても「べるばら」の世界に浸り、原作を読み写真集を買い・・そしてテレビの前にテープレコーダーを置いて録音して何度も何度も楽しんだのです。

全国的にそういう人が増えたおかげで宝塚は全盛期を迎えます。

ただ、一言付け加えさせて頂ければ「べるばら」のヒットは植田先生の功績ではなく長谷川一夫の功績でしたが。

それまでは宝塚の序列は完璧に学年順で男役も娘役もありませんでした。が、この頃から次第に男役至上主義になっていきます。つまり世の中が男女雇用均等法の時代になるにつれて、宝塚は真逆の男尊女卑になっていったのです。

それはフィナーレの階段降りに如実に現れましたし、歌が得意な人、ダンスが得意な人、それぞれに見せ場が与えられていたのに、どんどんトップコンビに視線が集中するようになっていきました。

戦後の「ベルばら4強」の榛名由梨・鳳蘭・汀夏子・安奈淳は作品のおかげでスターになりましたけど、10年に一人の逸材と言われた大地真央は劇団がしかけたスターであったと思います。

昭和の時代、栄枯盛衰を経験した宝塚。それでもまだ阪急電鉄のドラ娘の時代はよかった。

どんなにスター不足でもいい作品は生まれたし、お金もかけることが出来たし。普通の演劇集団のように予算に縛られることがなかったので。

でも平成になると歌劇団の運命は大きく変わっていきます。と、同時に歌劇の質も変わっていくのです。

 

 

 

 


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