昭和の後半において「ベルサイユのばら」という大ヒットを飛ばした宝塚歌劇団は昭和が終わるまでその幻影を利用し続けました。
巷の人たちは「宝塚」をきけば「金髪のかつらを被って目の周りが真っ青で軍服着てる」みたいなイメージとともに「♪ 愛 それは甘く ♪」と歌いだす。全く「ベルサイユのばら」を見たことの無い人でもこのフレーズだけは歌えるというほど有名になり、たびたびパロディも作られたりして。
でも、その効力も昭和が終わる頃にはかなり陰りが見えてきました。
平成最後のと言われた「ベルサイユのばら」
平成元年、長い間封印されてきた「ベルサイユのばら」が再演されます。
最初は雪組、杜けあき・一路真輝主演の「アンドレとオスカル」編、そして星組では日向薫と毬藻えり、紫苑ゆうらの「フェルゼンとアントワネット編」です。
私は生で見ることは出来なかったのですが、後年、ビデオでこの二つを見る限り、昭和編に比べると本当の主役であるオスカルの影が薄くなっていったり、やたら女性的だったり、衣装のセンスが悪いなと思ったり。様々した。
やっぱり長谷川一夫演出ではない「ベルサイユのばら」ってこんなに中身がないものなのかと実感しました。
でもこれで「ベルばら」ブーム再びの歌劇団はさらに平成2年に花組の大浦みずき主演の「フェルゼン」編をつくり翌年には月組・涼風真世主演の「オスカル」編を作成。この月組を皇太子が観劇したんですね。
「平成最後の」っていったけど、色々なバージョンを一巡する植田先生やりたい放題でしたね。
けれど、今回の「ベルばら」ブームは本当に一過性のものでした。
宝塚大劇場が新しくなった
平成3年、雪組の杜けあき主演でさよなら公演の「忠臣蔵」で宝塚大劇場は閉場しました。
そして平成4年、新宝塚大劇場が誕生し、こけら落としは星組「宝寿頌」「パルファン・ド・パリ」
ここでは高田賢三デザインの衣装と各組からの特出が売りでしたが・・・・KENZOデザインの衣装が宝塚には合わないと結構批判を受けましたよね。後年、ゴルチェの衣装を使った時もそうですが、ファッションとしてどんなに鮮やかな生地を使ってもほとんどスパンコールもビーズも使わなかったので地味というか、ヅカ的じゃないと思われたんでしょう。天海祐希的なナチュラルさが今ひとつぴんとこないというか。
平成が作り出した大スター
平成がスタートした時、
花組・・・大浦みずき → 安寿ミラ に繋がる「ダンスの花組」で一世を風靡。大浦退団後は「ヤン・ミキ」安寿ミラ&真矢ミキコンビでんんきを博す。
月組・・・昭和の大スター・大地真央の退団後、組を引っ張って来た剣幸が惜しまれて退団後、涼風真世がトップ就任。けれど「グランドホテル」初演で退団し、天海祐希が研7でトップ就任の快挙。
雪組・・・宝塚最大の歌唱力を持つ一路真輝の時代。
星組・・・白馬の王子・紫苑ゆうの時代
天海祐希に関していえば植田紳爾いわく「お母さん、よくぞ産んで下さった」という言葉が残っているということで入団当初から人気がしかけられていたような気がします。
宝塚を見ない人でも天海祐希の名前は浸透していたし、天海祐希時代のみヅカファンだった人もいるほどでした。
研7でトップに就任するというのは本人にとってどれだけプレッシャーだったことかと。新人公演の最終学年でトップ就任ということは今の98期がずらりとトップになるようなもの。
年功序列の宝塚において上級生を2番手3番手においてのトップスター。その心情は察してあまりあります。
男役10年という言葉は伊達にあるものではありません。最低でも10年かけなければ「男役の型」は完成しないという意味なんです。
新人公演最高学年程度ではまだまだ・・・のはず。
そこで天海祐希がとった行動はいわゆる「ナチュラル派」と呼ばれるもので薄いメイクに普通の衣装・・・正塚先生が好みそうな作品ですね。
天海祐希というのは男役としては未完成だったし、トップとして何も功績を残していません。名作に恵まれたわけでもないし、何か一つ秀でたものがあったわけでもない。だけど人気抜群。観客動員ナンバーワン。さよなら公演の時は東京宝塚劇場の入り口にすらりと当日券に並ぶ人々が。
そしてまた彼女は「宝塚的なものが嫌い」な人でした。ストーカーなどの被害にあっていたからかもしれないけど、差し入れやプレゼントは断固拒否の姿勢を貫く。今ならそんな人は絶対にトップにはなれないけど、天海祐希にはそれが許されていたんでしょうね。
現在、「天海祐希に憧れて宝塚に入りました」という人が何人も上級生になってトップになって・・という現実をみれば彼女の功績は「宝塚に入りたい」人を増やしたことだったと思います。
私は「ミーマイ」の天海祐希しか見たことがなく、あとは全部ビデオだけですけど、唯一評価できる作品としては「エールの残照」「エキゾティカ」くらいですか。だけどそれは天海祐希がいいというよりは、久世星佳・真琴つばさなどがきっちりと脇を固めていたからだったと思います。
じゃあ、天海祐希の魅力とはなんだったのか?それは「かっこよかった」につきます。要するに宝塚始まって以来のアイドル、それが天海祐希だったのです。
今思えば、どうしてこんなに促成栽培してトップスターにしなければいけなかったのかわかりませんよね。せめて研10まで待ってくれたらもう少しいいトップになったと思うのですが。
ただ多分ですけど、その裏には宝塚の母体である阪急電鉄の衰退があったと思います。
創業者一族で頑張ってきた阪急がどんどん衰退して、やがて宝塚も阪急の「ドラ娘」から歌劇事業部という一種の独立採算制をとらなくてはならない組織になっていきます。
今まではどんなにお金がかかろうとも、客席が真っ赤だろうと気にせずよい作品を生めばいいと思っていたのに、予算があり、限界があり・・特にスタッフの一掃が激しく、宝塚は一時的にでも大劇場稼働率を上げなくてはならなかった。
その象徴が天海祐希だったのだろうと思っています。
「昭和はよかった」「昭和は遠くなる」と最初に考えていたのは宝塚歌劇団だったのかもしれませんね。
「ダンスの花組」の残像とアイドルスター天海祐希で宝塚は迷路に迷い込んでいくのです。