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どうして女系天皇がいけないのか  1

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 まず、私は旧宮家の嫁ではありません。ここらへんの冗談が通じないとは・・今まで何も問題なくやってきたのに、スナッチャー様のおっしゃる通り、アイロニーがわからないのかな。

ブログの中だからこそできるものです。また私は子供達について「王子」とは一度も書いてはおりません。

繰り返しになりますが(過去記事なんて読みませんものね)「女系天皇」がいけない理由をちょっと細かく書いていこうかなと思います。

「男尊女卑」だの「皇族が減っているんだから女系もあり」という考え方は、間違っているのです。歌舞伎の世界をみればわかりますように、どんなに娘が可愛くても海老蔵は娘を「市川ぼたん」にしか出来ないのです。これは男尊女卑ではなく伝統だからしょうがない。少子高齢化するから女性も歌舞伎をやる・・・っていうのはありえないことで、そうなったら静かに滅んでいくでしょう。歌舞伎の場合、たとえ海外の血が入っていようとも「男子」でないといけない厳しい世界です。宝塚もしかりで絶対に男子ではダメ(過去に宝塚ボーイがいた事は事実ですが、結果的にそんなもの、宝塚じゃないということで消えましたし)

勿論、その昔には男系女子による女性天皇が存在したのですが、明治政府はそれも禁止しました。理由は、当時のヨーロッパの価値観において「女性天皇が独身を通すのはいかがなものか」ということで「じゃあ、いっそ女性天皇もなくせばいい」といいうことになったのです。

女性天皇が立つ時というのは

 皇室の権威が著しく貶められて争いが絶えない状態の時

 一部の権力者による皇位簒奪

 天皇となるべき男子が幼い為、中継ぎ

なんですね。これ以上皇室内で争いが続くと国が危なくなるので女性天皇が立てられるのですが、さらに「女性天皇は子供を産まない存在でなければいけない」皇位継承に関してこれ以上ももめ事を起こすなよ・・・ってことなんです。

だから明治政府は男尊女卑にならないように男系男子のみとしたのです。

その点、わかった?田嶋先生

 

結論としてはこれだけなんですけど、これじゃ終わってしまうので、某大型掲示板で現代の皇室と比較して書いていたので、それを参考に書いてみますね。

【秋篠宮が壬申の乱を起こすと散々叩かれている理由】

 壬申の乱ってなあに?

 672年に起きた内乱のこと

 天智天皇の死後、大海人皇子が挙兵して天智天皇の子である大友皇子を滅ぼし天武天皇となった。

 ちょっと不思議 

いわゆる乙巳の変で日本で初めて元号「大化」が出来るんですけど、これは「壬申の乱」と呼びます。干支で「壬申」の年に起きたから。元号より干支の方がポピュラーだったみたい。

 押さえるポイント 

 当時の皇位継承は長子とは限らず兄弟継承が多かった。理由は平均寿命の短さによる。

 当時、天皇になれる年齢というのがあって大体30歳を過ぎたころ。10代、20代は若すぎる。政治を行う年齢ではないと思われた。

 天皇になる資格として両親ともに皇族か蘇我氏の血を引いていること

 日本で初めて立太子したのが文武天皇。幼名を可瑠皇子で14歳で立太子・即位。政治には早すぎるので持統天皇が代わって政務をとる。

これが当時の天皇家の系図になります。

現在、星組の「鎌足」を見ている人には大いに関係のある系図ではないでしょうか。蘇我氏は乙巳の変で滅ぼされたように見えますが「石川」という名前に代わって、暫くの間は皇族の中でも妃を出す有力な家柄に。

 天智天皇の正室・倭姫は子供を産んでいない。

 蘇我氏の娘、越智は建皇子を産むも早世

 天智天皇の長子は大友皇子であるが、母親は采女で身分が低く、最初から皇位継承権からはは外れている。しかも年齢的にも若すぎる。

 天武天皇は両親共に皇族、妻も皇族。

つまり

 天智天皇 → 今上

 宅子郎女 → 皇后

 大友皇子 → 愛子内親王

 天武天皇 → 秋篠宮

今の状況は、天智天皇がどうしても大友皇子を皇位につけたくて太政大臣に任じつつ、病を得て「いや、弟に任せる」と言っているような時代なのです。秋篠宮が口に出して「わかりました。では皇位につきます」と言ったら最後、殺される。今は吉野に向かう日がいつになるか数えている状況です。

天智天皇だって当時のことを考えれば倭姫以外に有力な豪族と縁組を結ぶことの重要性はわかっていた筈です。身分的にも越智郎女が最も最有力の後ろ盾を持つ女性でしたが、蘇我氏が滅ぼされ、自分の父親も夫に殺されると言う憂き目にあってから精神を病んでしまいます。

また、天智天皇は同母妹である間人皇女との道ならぬ恋の噂もあり、正妃を立てられない理由があったものと思います。

天智天皇、すなわち中大兄皇子は政治的にも結構失敗が多くて、あまり人気があったとはいえず、よって即位も遅れたとみる向きもあります。

天智と越智の間に生まれた建皇子は生まれた時から口がきけない子でした。でもだからこそ皇極天皇に非常に愛されて育ちました。

 また皇極天皇は越智の長女・太田皇女と建皇子には「皇孫」の称号を与えましたが、鵜野皇女には与えませんでした。今でいうなら眞子内親王と悠仁親王は皇孫だけど佳子内親王は違うということでしょうか。

これは多分、意地悪というより序列の問題だったのかなと思います。また皇極天皇にとって太田と建は非常に精神的に近い存在だったのかもしれません。

しかし、鵜野はこのことを後々まで忘れずにより一層ファザコンになってやがて自らが皇位に着く・・・とも考えられるのです。

それはそれとして。

次に・・・と思ったけど、思えば皇極天皇は何で即位したんでしょうね?次回はそこからお話を始めましょう。

 

 


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