女性自身2003年12月23日号
「雅子様帯状疱疹募る宮内庁病院不信!」
2003年12月10日 宮内庁文化祭
女性自身 2004年1月6日・13日号
「気になるご病状ー雅子様面会不可!在宅療養の波紋」
2003年12月23日 天皇誕生日一般参賀欠席
2004年 皇室ご一家
週刊現代 2004年2月16日号
「間違いない!雅子妃を心身の病に追い込んだ宮内庁の虐め」
週刊女性2004年3月2日号
「賛否両論 愛子さまが天皇になってはいけないの?」
女性自身2004年3月9日号
「短期集中連載 雅子様消えた笑顔お世継ぎへの重圧」
女性セブン2004年3月6日号
「皇太子妃雅子さまへ 「公園デビューはNO」「秋篠宮紀子様に第3子切望」宮内庁の呆れた無神経
湯浅長官が発言したのは「東宮家に第2子を、秋篠宮家に第3子を期待」なのです。このようにマスコミによるミスリードの始まりが「雅子様お可哀想」に繋がって行きました。本当に扇動されやすい国民性だなと思います。
2004年2月23日 皇太子誕生日
Friday 2004年3月12日号
「皇太子が憂える雅子妃長期療養の犯人」
女性自身 2004年3月16日号
「公明党が「女帝」肯定へ。皇太子さまも憂えたお世継ぎ問題 雅子様誰が追い詰めた「辛い要求」と「御所生活」の深部」
女性自身2004年3月23日号
「大反響!集中連載 ご静養本当の理由雅子様子育ての壁と美智子さまの信念とご意向」
2004年3月25日~4月26日~雅子妃が愛子内親王を連れて軽井沢の小和田家別荘に立てこもる
さすがにこの事態は小和田家でも予想がつかなかったらしく、一家で慌ただしく別荘へ向かう。
女性自身2004年4月13日号
「雅子様転地療養御用邸を選ばなかったなぜ」
文藝春秋2004年5月号
「異例づくめの転地療養雅子妃40歳の試練と決断」
3フ月25日雅子妃は皇太子に伴われて軽井沢へ「御静養」に向かわれた。
出発の際には車の窓のカーテンも閉め切られご一家3人のお姿は見えなかった
車が向かった先は軽井沢。宮内庁からは「今回の御静養の滞在先を報道しないでほしい」という前例のない申し出が。
雅子妃が滞在された別荘地付近に配備された白バイとパトカーはざっと3,40台。まるで戒厳令下のように別荘地の周辺を通過するだけで誰何され車はかたはしから止められて職務質問されるというものものしさであった。
軽井沢へ静養に向かう日、林田東宮大夫の会見
「出発時にカーテンを閉めていたのは愛子様がチャイルドシートのベルトを嫌がってぐずられたのですが抱き上げているところが映像に残ると道路交通法違反ととられかねない。国民の範として適切ではないことからご夫妻の判断でカーテンを閉められたようです。
軽井沢では妃殿下のお母様小和田優美子さんが出迎えられ、4人水入らずで過ごされました。父の小和田恒さんも赴任先のハーグから戻ってすぐ合流する予定です」
昨年(2003年)12月12日に林田東宮大夫は「公務と養育の負担によるお疲れが発病の誘因。万全を期すため来年春まで全ての公務をお休みいただく」と発表。
さらに今年(2004年)の2月には雅子妃の体調は「波がある」「日中に横になっていることもある」と語っている。
軽井沢を選んだのは家族と一緒に過ごすことを最優先にされたからではないのか。林田東宮大夫が3月5日「雅子妃は東宮御所以外で静養することはない」という発言を覆した上実の母に寄り添われてまで「御静養」を決断しなければないらないほど雅子妃を追い詰めたものはなにか。
皇太子40歳の記者会見
「皇太子妃という特別な立場からくるプレッシャーもとても大きなものだったと思います。世継ぎ問題についても様々な形で大きなプレッシャーがかかっていました。幸い子供が生まれて、それから2ヶ月で公務に復帰しましたが、公務と育児の両立、それからメディアからの子供をめぐる様々な要望に応えようとしていた中で疲労が蓄積していったのではないかと思います。
「皇太子妃という立場を健康で果たすことが必要なわけですから、そういった意味からも、今後の公務の内容な在り方を検討する必要があると思います」
宮内庁記者の間では雅子妃の笑顔が消えたのは2003年の春以降。天皇が前立腺がんになって「今は死ねない」と漏らされたと伝わっている。
「天皇は何よりも日嗣の皇子を望んでいる」
雅子妃の今回の静養は宮内庁のそういう雰囲気への必死の抵抗
雅子妃の「公園デビュー」について
「第一回目は大した騒ぎにならなかったのですが、2回目以降は各社がテレビカメラを並べて大騒ぎ。居合わせた母親達も記念写真を撮るわ撮ったビデオをテレビ局に売るわで、雅子妃はショックを受けられたようです」
こうした結果を踏まえて皇太子の友人が「一般のお子さんと遊ばせるのは幼稚園まで我慢されては」と進言。
公園デビューは4回で終了。
2003年暮れ、東宮御所から近い某所で愛子内親王の幼児教育を依頼。2004年1月から10日に1度の割合で体操教室に通う。
雅子妃の「海外に行けなかったことになれるのに時間がいった」発言に湯浅長官は「正直、驚いた。あんなに海外に行かれたかったとは」
今年(2004年)皇太子はヨーロッパの3つの結婚式に出席予定。それに雅子妃も同行したいと意向を持っているが、が、特定の国だけ出席するのは外交儀礼を欠くし、すべての国となると約2週間の海外訪問となってしまう。
宮内庁幹部は「公務を休んでいるのに外遊の大義名分がない」と消極的だが、本音は「天皇陛下の古稀の祝いを休まれて急に治りましたではご説明出来ない」
この頃はまだ真っ当な意見をもつ雑誌もあったのだと思います。
無理やり「世継ぎ問題」を長期療養の理由にしていますが、要するに愛子内親王の発達が思うようにならなくて焦って公園で遊ばせたり体操教室へ通わせたりしたけど、結局は努力だけではどうしようもなく、かえってよその子との差がはっきりして燃え尽きた感があります。
「世継ぎ」問題を5年以上無視して、いきなり不妊治療で男子を産める・・と思っていた雅子さんは何様だったのかと思いますし、自分が男子を産めなかったら「女性だっていいじゃん!」とフェミニスト問題へすり替える。皇太子もそれに同調するといった風で、現在の天皇家のありようのきっかけがここに凝縮しています。
天皇・皇后と皇太子妃の力関係の逆転、そして皇后の甘やかしが始まり、皇室の倫理観をぶち壊すことになりました。
それにしても2004年から「体調の波」があったとは!!