私も理論的に科学的に「男系男子である必要性」を説明せよといわれたらそれは出来ないと思います。だってY染色体も、男女平等思想もその逆も古代にはなかったものですから。
ヤマトには東にも西にもそれぞれ部族がいて、諸外国との交易ルートを巡って争っていました。その最たるものが「鉄」です。鉄のルートを確保した部族が勝つんです。最初は出雲がその権利を持っていたけどやがて大和朝廷に奪われる。そこで長い争いが終わり、一人の「王」を祀り上げることで国の精神統一を果たしたというところでは。
父が天皇・・・これは理屈ではなく概念です。そういう思想しかなかったと思うべき。それというのも古代においては男女同権思想もLGBTもない。一つの血筋に繋がるものこを「神聖である」ということですね。
伊勢神宮では今でも古代と同じ火を起こし米を炊き・・・ということを行っていますが、「変わらずに一つのやり方を行う」ことこそが「永遠」を意味すると思いませんか。
「時代に即した伊勢神宮の在り方としてライターで火を起こし、炊飯器でご飯を炊きます」ってなったらありがたくもなんともないし神秘性の欠片もない。
「神武天皇依頼男系血筋でのみ続いている」ことが「神秘」でありその神秘こそが皇室の根本ではないですか。
ところで敬宮愛子内親王と旧宮家が結婚しても「敬宮愛子内親王家」は出来ません。明治以来、こういう場合は新しい宮家を立てて男系男子が当主となり、愛子内親王は「妃」になります。
「女性宮家」という考え方そのものがおかしいのです。旧宮家と結婚して皇族になるなら「彼」こそが当主でなければいけないのです。
さて。女帝の話でしたね。
女帝が立つ時は
男系男子の王候補が多数いる為に皇位継承争いが起き、それを収めるため
女帝の外戚が権力を行使する為
男系男子の皇位継承者がいない為
のどれかです。
では、日本で初めての「女帝」推古天皇はどうして天皇になったの?
「え?さあ・・男がいなかったから」
「ぼーっと生きてんじゃねえよっ」
とチコちゃんに叱られたところで、下の系図を見て下さい。
まず欽明天皇です。
ウィキの絵だとこんな顔。
欽明天皇 → お父さんは継体天皇、お母さんは手白香皇女(仁賢天皇の娘)でバリバリ両親が皇族。
大后は石姫皇女 → お父さんは宣化天皇、お母さんは仁賢天皇の娘でバリバリ両親が皇族。
で、そんな石姫が産んだのが敏達天皇。両親・祖父母が皇族という血統のよさ。
それに対抗すべく蘇我稲目さんは、娘の堅塩姫と小姉君を側室に入れて生まれた男子を天皇にしようと藤原氏のようなことを考えていたのです。
堅塩姫も小姉君も同母姉妹ですからどっちが男子を産んでもいいわけで。
敏達天皇はバリバリ血統がいいので次の天皇になる事は確定。
でもその次の天皇になるのは堅塩姫か小姉君の産んだ皇子でもいい筈・・・と稲目さんは考えた。
どこまでも小和田恒のような人ですけど。
で・・・現実にそういうことがおきちゃった。
敏達天皇の最初の大后は広姫。息長氏は蘇我氏よりも古い家系で代々大后を出す家柄でした。そこから生まれたのが押坂彦人大兄王子です。
だけど広姫が早死にしちゃったので、次の大后には額田部皇女(推古天皇)が選ばれます。
今であれは息子の竹田皇子は皇太子ですが、彼はこの系図の中では最も若い皇子だったの。
天皇になるには
30歳を過ぎた大人であること
が第一条件ですよね。だから敏達天皇が生きている間は押坂彦人大兄王子が最有力候補でした。なんせ「大兄」がついているくらいだし、お母さんの家柄も古いし申し分なかった・・・筈。
時の権力者の蘇我氏の血を引いていない
広姫の早すぎる死
が押坂彦人大兄王子の運命を大きく変え、しかも彼自身体が弱かったこともあり、皇位継承争いから脱落。
竹田皇子が成人するまで敏達天皇が生きていればよかったけど、残念ながら亡くなり、年齢的に順番として額田部皇女の同母弟である用明天皇が建ちます。
が 堅塩姫系の天皇だ大后だっていったら小姉君系の皇子たちがちょっと面白くないよね。
しかもそこに、当時、絶対的な政治問題である「仏教を受け入れるか否か」で蘇我氏と物部氏が一触即発の事態に。
蘇我氏・・・崇仏 (用明天皇・聖徳太子・額田部皇女・竹田皇子)
物部氏・・・排仏 (穴穂部王子)
もし用明天皇が長生きしてくれたら聖徳太子は両親ともに皇族でしかも蘇我系だから絶対に血筋てきに天皇になれたはずです。しかし、587年、用明天皇は在位2年で死去。
ここから「仏教」「皇位継承」を巡って蘇我氏と物部氏の戦争が起こります。
結果は蘇我氏の勝ち 穴穂部皇子が殺され、竹田皇子が負傷して亡くなり・・・残ったのがもっとも皇位から遠かった崇峻天皇だったわけです。
崇峻天皇は小姉君系の末っ子で、ノンポリで蘇我さんとしては操りやすいなと思って天皇にしたんだけど、あまりうるさくあれこれ言いすぎて逆に嫌われてしまった。
系図を見れば一目瞭然ですが崇峻天皇には大后がいません。もっとも高い位の妃で大伴氏の小手子
で、蘇我氏の河上娘は嬪です。
この当時の妃の位は
1 大后(おおきさき)
2 妃
2 夫人(ぶにん)
3 嬪
ですから蘇我氏の河上娘はもっとも低い身分だったわけですね。また夫人の布都姫は物部氏の血を引く女性です。しかも皇子を産んだのが小手子ですから蘇我氏としては崇峻天皇なんていてもいなくてもいい。
だからぐずぐず言い出したらあっさり暗殺してしまったんです。
そうすると、残る皇位継承の可能性がある皇子はまだ20代の厩戸皇子と身体の弱い押坂彦人大兄王子だけになります。いくら何でも蘇我氏の血を引いていない押坂彦人大兄王子を天皇にしたくない。だから大后歴30年の額田部皇女が天皇についたのです。
いくら蘇我氏でも天皇を暗殺したことはかなりの痛手になった筈です。思えば乙巳の変に至る路がここから出来てしまったのかもしれません。