それはお父さんが天皇ではないからです
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(どうしてお父さんが天皇でないといけないのですか)
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2000年に渡ってその系統を繋いで来た歴史があるからです
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(時代に即してお母さんが天皇でもいいのではありませんか)
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天皇家の血筋の正当性と神秘性が失われるので、女系になったら全く別の王朝が出来ます
それこそ21世紀の日本に「新しい天皇制」が必要でしょうか?
今更新しい「お母さんが天皇」の天皇家が出来てもそこに意義があるのか。
推古天皇の悩みと策略
何だか、「系図で知る天皇の歴史」風になって来ました。
ここで推古天皇を取り上げるのは。「日本にも女性天皇がいたんだから、愛子内親王が天皇になってもいい筈」という議論に「女帝擁立」の背景について話したかったからです。
女性皇族であれば誰でも天皇になれるわけではありません。
額田部皇女が天皇になった背景には
敏達天皇の大后歴30年のキャリア
いますぐ皇位につける息子がいなかったこと
再婚・出産の危険がなかったこと
蘇我氏の血を引いていること
ではなかったかと。
崇峻天皇はせっかく天皇になったのに蘇我馬子とうまくいかずに暗殺されました。
そんなことを目の前で見た額田部皇女はもし、自分が馬子に逆らったら殺される危険性も考えていたでしょう。
叔父と姪という関係で良好ではあったけど、天皇暗殺という大罪を犯した蘇我馬子に対しては常に「疑念」を持っていたのではないかと思います。
さて、大后といえ用明天皇の大后で額田部皇女の妹である穴穂部間人皇女もいますが、彼女は大后歴2年。まだ若く天皇候補の息子達も沢山いました。また後に再婚もしています。
587年 用明天皇死去
穴穂部皇子暗殺
蘇我物部戦争
崇峻天皇即位
592年 崇峻天皇暗殺
592年 額田部皇女即位(推古天皇)39歳
厩戸皇子(聖徳太子)摂政となる
603年 冠位十二階
604年 十七条の憲法
607年 遣隋使派遣
推古朝では朝廷の身分規定、倫理規定が整えられ仏教を取り入れ、秩序ある政治体制が整いました。
隋と同等、あるいはそれ以上の国力を示す必要性があったのです。
額田部皇女ー蘇我馬子ー厩戸皇子(聖徳太子)の関係も最初はとっても良好でした。
額田部皇女に憂いがあるとしたら、それは自分に皇位継承を持つ男子がいなかったこと。
ちょっと額田部の気持ちになって考えてみましょう
「先に竹田皇子は死んでしまって、下の尾張皇子も娘を残して死んでしまった。私にはもう誰もいないわ。でもこの地位を盤石なものにし、次世代に私のDNAを残すなら、皇位継承権のある男子に娘たちを嫁がせるしかないわね。これで少しは叔父上をけん制できるかも」
ということで、
長女・菟道貝蛸皇女 → もっとも天皇に近い筈の厩戸皇子へ
次女・小墾田皇女 → もっとも血筋のいい押坂彦人大兄王子へ
三女・田眼皇女 → 押坂彦人大兄王子の息子である舒明天皇へ
末っ子の桜井弓張皇女 → もっとも血筋のいい押坂彦人大兄王子へ
孫娘・橘大郎女 → もっとも天皇に近い筈の厩戸皇子(聖徳太子)へ
夫の別腹の娘・糠手姫皇女 → もっとも血筋のいい押坂彦人大兄王子へ
こやってみると、推古天皇は意外と押坂彦人大兄王子の血筋押しであることがわかります。
蘇我に対して大きな対抗勢力であるのに、そこにもどんどんお妃として送り込むということは、つまり内心では馬子の政治を快く思っていなかったわけですね。
それに厩戸皇子(聖徳太子)に嫁がせた娘には子供が生まれず、孫まで投入したのにそれがうまくいかず、しまいには厩戸皇子(聖徳太子)が先に死んでしまいます。
622年 厩戸皇子(聖徳太子)死去
626年 蘇我馬子死去
最初は良好だった厩戸皇子(聖徳太子)と蘇我馬子との関係も仏教を巡って対立。厩戸皇子(聖徳太子)は斑鳩に引きこもります。それくらい馬子の専横というのは目立っていて、それゆえに厩戸皇子(聖徳太子)の死去については暗殺説も絶えません。
以後、厩戸皇子(聖徳太子)の家は「上宮王家」と呼ばれ、皇族内でもピカ一に血筋のよい家になります。
だったら通常、推古天皇のあとは山背大兄王が継ぐと考えるのが筋ですけど、それがそうはいかなかったんです。
628年 推古天皇死去
推古天皇は後継者を指名せずなくなりました。彼女が天皇だった間はつかのまの平和だった朝廷も、彼女の死を境に天皇争いが勃発します。
一旦は負けたか?と思った人が浮き上がり、正当な血筋を持つ者が滅ばされていく残酷な時代です。