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韓国とのゆかり発言に関わる天皇の話

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 系図だけ作って、いつかブログに書かなくちゃいけないなあと思っていながら機を逸していたのですが。今回は光仁天皇と桓武天皇の話です。

というのも、よく今上と6歳しか違わない秋篠宮が即位する頃には老齢すぎて天皇になれないだろうと週刊誌に書かれていましたよね。

天皇の在位期間と元号は結びついていますし、どういうわけか上皇が「国民に負担をかけないように」と自分より先の即位の礼だの大葬の礼だのに関しては質素にしろと言い続け。いつの間にか国民の間では「そういえば昭和天皇が亡くなった時、社会的な影響が大きくて国民は困ったよな」という印象を受けて、どんどん地味に質素にしていこう、なるべく若いうちに即位させてせめて30年は持たせないとなあと思っている節があります。

しかし、昭和天皇が亡くなった日は土曜日でそんなに混乱はなかったし、確かに亡くなる3か月前くらいから毎日のように報道があり「自粛」ムードがあったことは確かですが、それだって強制されたものではなかったですよ。

それだけ昭和天皇の存在が日本人には偉大だったということで、心配しなくても上皇も今上も、「自粛」になんかなりませんから安心して下さいと言いたいです。

で、高齢で即位した天皇として、真っ先に思いついたのが光仁天皇でした。

何と、彼は61歳で即位しました。

当時の平均寿命って40歳くらいでしょう?だから61歳といったらかなり老齢。後期高齢くらいのイメージです。在位期間は11年。

11年も在位したのか――長生きだったのねーーという感じです。

 光仁天皇について

 709年11月18日生まれ

 祖父は天智天皇、父は志貴皇子

天武天皇即位後、天智天皇系の皇子には皇位継承のチャンスがほぼなくなり、持統天皇や藤原不比等の力が強まり、天武天皇 →持統天皇→文武天皇→元明天皇→元正天皇→聖武天皇→孝謙天皇→淳仁天皇→称徳天皇→光仁天皇→桓武天皇と流れていきます。

天武天皇の皇子の中で舎人親王という長生きした長老格がおり、長屋王と共に皇親政治の中核として活躍したのですが、彼の子である淳仁天皇は叔母にあたる孝謙天皇と道鏡の仲を「いけません」と言っただけで廃されてしまいました。

この時代は光明皇后や孝謙天皇(称徳天皇)によって粛清の嵐が吹き荒れ、天皇の子や孫であっても命の保証はなく、逃げても逃げても謀反の罪を着せられて殺されるケースが多かったんですね。

また、臣籍降下してもそれでも粛清されるケースも目立っています。

(長屋王)・・・父は高市皇子(天武の子)母は御名部皇女(天智の子)で血筋は聖武天皇より上で実力者であったのに藤原4兄弟によって殺される。

(塩焼王)・・・父は舎人親王で孝謙天皇の皇女である不破内親王と結婚するも謀反の罪を着せられて臣籍降下したものの、一時は栄耀栄華を誇るも最終的に殺される

(道祖王)・・・父は舎人親王で一時期、孝謙天皇の皇太子に叙せられるも廃太子

長屋王は聖武天皇より出来がよかったし血筋もよかった為に妬まれた・・・と簡単にいうとそうです。孝謙天皇は自分の姉妹でも親戚でも一旦信用しないとなると容赦しないんですよね。それで名誉を傷つけられた人が多数。

長生きしてもちっともいい事なかった時代にあって、白壁王(光仁天皇)は権力とは無関係の立場を貫き通して天皇になったのかなあと。

 

 752年、孝謙天皇の姉である井上内親王と結婚

 754年、45歳の時に長女の酒人内親王、52歳の時に他戸親王を授かる

井上内親王は聖武天皇と縣犬養広刀自の娘です。

縣犬養広刀自と、縣犬養三千代(光明皇后の母)は同じ一族。

広刀自は他に聖武天皇の唯一の皇子である安積親王を産んでいるのですが。安積親王は聖武天皇の留守中に突如死去。結果的に皇位は孝謙天皇に渡るのです。

井上内親王は717年生まれ。721年伊勢の斎宮に選ばれ744年、安積親王の死去によって斎宮の任をとかれる。27歳の時。

そして白壁王の妃となり、37歳で長女の酒人内親王、45歳で他戸親王を産む

 高野新笠との関係

【平成13年天皇誕生日の発言】

「私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています」

この「桓武天皇の母」「武寧王の子孫」が高野新笠になるのです。

武寧王・・・462年~523年に存在した百済王。

和乙継(やまとのおとつぐ)→ 高野新笠の父で武寧王の子孫と言われるが、具体的に武寧王の子のうち、誰の子孫かまではわかっていない。

土師真妹(はじのまいも) → 出雲国造の分流で豪族

「韓国とのゆかり」というより「百済とのゆかり」で(韓国と百済って原則的に違いますので)でも実はどこまでの子孫かわかってないし、高野さんのお父さんはすっかり日本人になっているし。

しかし、いわゆる「渡来系」は中々出世の道が開かれず王様の子孫とはいっても高野新笠は白壁王の側室として入っています。宮人、つまりお女中上がりって事ですね。

733年・・・能登内親王

737年・・・山辺王

750年・・・早良王

山部王が後の桓武天皇です。

彼は生まれた当時は母方の身分が低すぎて、皇位継承からは完全に外れていました。

 770年 即位

 773年 皇后井上内親王と他戸皇太子が呪詛の疑いをかけられて幽閉ののち775年に死亡

 藤原蔵下麻呂の死 → 祟りじゃないか?

即位はしたけど老齢・・・天皇を支えるのは皇后と皇太子の筈です。

ここで一発大逆転劇が起こります。皇后と皇太子が呪詛の疑いをかけられて突如廃され、さらに庶民に落とされて幽閉され同日に亡くなるという事件が起きます。一説には二人とも餓死したと伝えられます。

前述したように井上内親王は聖武天皇の長女ですから家柄・血筋も抜群。無論他戸親王もそれに倣っていくのですが、側室で渡来系腹の山部親王が黙っているわけなく、藤原百川と共に廃皇后・廃太子を画策したのではないかと思います。

血筋も家柄も劣る親王が頼みにするのは権力です。

正当な血筋を廃したことで国は乱れ、天変地異が続きます。

 776年 秋篠寺建立の勅許

私は光仁天皇の気持ちというのがさっぱりわからないんですね。

井上内親王は結婚当時27歳で、当時としては年増というかオールドミス。そういう内親王を半ば天皇の権威で押し付けられた格好になった白壁王。

そこに愛はあったのか?とは思いますが、それでも2人の正当な血筋の親王と内親王に恵まれ、皇后としては非常によい仕事をした筈なんです。

呪詛の疑いをかけられた時に守ってやろうとか、何とかしてやろうとか思わなかったのかなと。

感情が見えてこない天皇ですよね。

ただ、天変地異が続いてその祟りを鎮める為に秋篠寺を建立。秋篠宮の名前の元になったお寺が実は祟り鎮めだったというのは意外というか、そういうことかとも思ったりして。

777年 光仁天皇が病気になる

     山部親王も大病を患う

それこそ「井上内親王の祟りじゃーー!」ということで、墓を掘り返して埋葬しなおしをする。天皇自身にもいくばくかの良心の呵責があったものと感じたいです。

 782年 崩御 73歳

さて、光仁天皇の後を継いだのが桓武天皇で高野新笠の子ですよね。

彼の大きな業績としてじゃ「平城京→平安京」への遷都で、いわゆるここからが平安時代の始まりになるのです。

しかし、彼は非常に掟破りの人物でした

 皇后 藤原乙牟漏(平城天皇・嵯峨天皇の母)

 妃 酒人内親王

藤原氏は臣下、一方酒人内親王は光仁天皇の娘で桓武天皇の異母妹ですから身分は酒人内親王の方が上のはず。ということは本来、形だけでも酒人内親王が皇后にならなければいけないのに、皇后を藤原氏にしているんですね。

その理由は、勿論藤原氏とのつながりを深くする事で権力を盤石にすることでしょう。でも、別の面から言えば「皇后にふさわしい身分は藤原氏」という身分の考え方の転換です。

自分の血筋にはかなりコンプレックスを持っていた彼が、酒人内親王を妃にしたのはとりあえず体面を保つ為だったと思うのですが、皇后が自分より血筋がいいというのは許せなかったんでしょうね。

 早良親王を死においやる

桓武天皇即位時に皇太子に立てられたのは弟の早良親王でした。

しかし、藤原種継暗殺の罪で流罪に。無実を主張した早良親王は食を断ち餓死。

桓武天皇は井上内親王と他戸親王に行った粛清を実の弟にも行ったわけです。

以後、祟りを恐れて遷都するということになるんですけど。

やることが韓流史劇だよなーーと思ってしまい、やっぱり血は争えないのかと感じます。

また桓武天皇は沢山の宮人を側室に置いていましたが、その中に沢山の百済人の娘がいたのです。

自分のルーツを考えたんだろうなとも思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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