歌会始め 二宮の歌
「人々が笑みを湛えて見送りしこふのとり今空に羽ばたく」
「紀宮」(きのみや)の歌
「飛びたちて大空にまふこふのとり仰ぎてをれば笑み栄えくる」
今思えば、夫婦で同時に「こうのとり」を詠むなど思わせぶりな事だった・・・・
あの時から考えていたのだろうか。
「懐妊を知りました時は驚きました。けれど、お腹の子がどんなお顔をしているのか、どんな風に私達家族を喜ばせてくれるのかしら。どんなお洋服を着せようか、などと先走った思いが募りまして。それで僅かな不安は消え去ったのでございます」
「紀宮」(きのみや)は皇后の「不安はないの?」という問いにきっぱりとそう答えていた。
その答えに皇后は恐れおののき、ご自分はそんな素直な気持ちで出産に臨んだことがあったろうかと反芻してごらんになった。
皇后は民間初の東宮妃として入内。
皇室のしきたりもわからず、戸惑うことが多かったが何より我慢がならなかったのは、ご自分と皇族方の価値観が全く正反対であることだった。
商家の出とはいえ、社長令嬢で女子大出の才媛、稀にみる美しさをお持ちだった皇后は、自分が賢い事はご存知だったし、その美に対する誇りもあった。
臣籍降下した旧皇族や旧華族などに比べても裕福にお育ちになった皇后は、当時としては珍しい西洋館で生活をされていた。皇族方や華族方は広いお屋敷から追い出され散々な目にあっていたその時代、まるで西洋人形のような暮らしぶりは先帝や妃の宮(きさいのみや)の目にはどう映ったろうか。
時の東宮の目に止まるのは当たり前の事。この世の最高の女性を手に入れる権利があるのは東宮のみ。そんな意識があった時代だ。
学歴・教養・美貌の全てをお持ちだった東宮妃は国民から絶大な人気を得て、ファッショナブルな装いは憧れの的になった。
東宮妃にとって最大の仕事である「世継ぎ」の出産もすぐに達成され、優等生ぶりを発揮されたお妃だったが、うすうすとご自分にはないものを妃の宮(きさいの宮)や他の皇族方が持っている事に気づいてしまった。
特に先帝の二宮の妃は旧華族出身で、入内の儀式の華やかさこそ東宮のそれに及ばなかったけれど、十二単もドレスもティアラも、伝統ある素晴らしいものをお持ちだった。
東宮妃の御実家は裕福だったけれど「皇族や華族」として生きた歴史がなく、装束や装飾品についてはいわゆる「成金」趣味と思われているのではないかといつも不安だった。
けれどその不安を払しょくしてくれたのが皇孫の一宮であり二宮であり未草君(ひつじぐさの君)だった。
子供達の存在は皇后にとってご自分の立場を証明するものという意識がいつも付きまとっている。子供のない先帝の二宮や、先帝の弟君達に比べ、早々に皇位継承者を産んだことが唯一の自己満足でいらしたのだ。
なのに、今、「紀宮」(きのみや)は屈託もなく「どんなお顔をしているのか・・」と穏やかに微笑みながら言うのだ。
もしかしたら・・・と皇后は思われた。
「このおっとりした「紀宮」(きのみや)は軽く自然に私を超えてしまうのかもしれない」と。
「まさか」
皇后は心の中で否定なさる。
「この私が「紀宮」(きのみや)に恐れを抱くなどありえない」
心の中がざわめき立つ。
二宮と「紀宮」(きのみや)が同時に「こうのとり」を詠んだ日。
東宮妃は「体調がすぐれない為」と歌会始めに出てこなかった。
それなのに歌会始めのまさにその最中、皇居で乗馬を楽しんでいたのだ。
「治療の一環」だとして。
東宮妃のそのような振舞も皇后にとって胸の痛くなることだった。
東宮も妻の行いに翻弄されるばかりで、可哀想で仕方ない。それでも東宮が自ら選び、女一宮を得て少しでも家族としての形を保とうとする姿は守ってやらねばと思われる。
同じことを「紀宮」(きのみや)がやったらならどれ程怒り、徹底的に貶めていたろう。
でも東宮妃にはそれが出来ない。
なぜなら、心の奥底で皇后と東宮妃は同じ闇を持っているから。
そして「敵の敵は味方」という例えの通り、「「紀宮」(きのみや)」を挟んで皇后と東宮妃は利害関係で一致していたのだった。