大姫が異国へ出発した日。
それを見送りつつ、「紀宮」(きのみや)は思わず泣きそうになった。
どうして涙があふれてくるのだろう。
「それはホルモンの問題ですわ」とお局は冷淡に言ったけど、内心は心配してくれている。
「それで」お局は「紀宮」(きのみや)に優しいジャスミンティを出しながら訪ねた。
「后の宮様は何と」
「紀宮」(きのみや)はつとめてゆっくり香りを楽しみ、それから少し飲んだ。
「顔色が変わられて・・・言葉を失っておられたわ」
あの時の后の宮の顔を思い出すと「紀宮」(きのみや)自身、心が痛くなる。
そういえば后の宮も流産の経験がおありだった。
それが思い出されたのか、急に白い顔がさらに青白くなり、歳をとったような感じがした。思わず、「紀宮」(きのみや)は
「后の宮様、どうかしっかり遊ばして」と女官を呼んで白湯を運ばせた程。
白湯を飲んでようやく落ち着いたのか「これではあべこべね」と后の宮は笑った。
「それで今後はどうするのですか」
「8月下旬に入院いたします。出産可能な日が来ましたら帝王切開になるかと」
「帝王切開。でもそれまで母体は大丈夫なのですか」
「はい。きっと」
優しく微笑む「紀宮」(きのみや)を后の宮は半ば呆れたように見つめた。
「よくまあ・・そんな大層なことを軽くおっしゃるものね。「紀宮」(きのみや)、あなたは本当にお気が強いこと」
「申し訳ありません」
「謝る必要はありませんよ。私も言い過ぎました」
后の宮は我に返ったように表情を戻し、ため息をついた。
「ここまで来たらもうどうしようもないとは思うけど、しっかりと療養して無事に出産に臨みなさい」
・・・・・お局はお茶を入れ替えていたが「相変わらずですね」と突き放すように言った。
「お局」
やんわり「紀宮」(きのみや)は注意したが、お局は構わなかった。
「お妃さまが言えない事を申し上げますわ。后の宮さまのお心には「それみたことか」という思いがありますわよ。素直に女一宮様を後継ぎにすればよいものを、こんな大騒ぎをしてまた内親王が生まれたら、また東宮さんの所からバッシングされますよって」
「そう・・かも」
「そうでなくても、マスコミはもう気づいて色々週刊誌に書いておりますよ。本当に無礼千万。「紀宮」(きのみや)様を何と心得ているのか。どうして宮内庁は反論しないのか不思議です」
お局の胸の中には、巷でみかける週刊誌のむごい見出しが思い出さされ、目が痛くなった。
・「紀宮」(きのみや)様は東宮妃への配慮が足りない
・本当に病気療養中の東宮妃。妊娠は病気ではないのに過剰にしすぎでは
・東宮妃へのあてつけ懐妊に東宮妃様が傷つかれ・・・・
・東宮妃様は異国へ行ったら戻ってこないかも
いくら週刊誌の見出しを見せない様にしても新聞にでかでかと載ってしまうし。二宮も「紀宮」(きのみや)もさらりと流してしまうが、それを目にしている大姫や中姫の気持ちを考えると暗澹たる思いになる。
「私達は何を言われても黙っていることにしたの。わかってくれる人がいる限り。いえ、たとえ全ての人がわかってくれなくても今は黙っているわ」
「でもそれでは姫宮様達が」
「そうね・・・」
「紀宮」(きのみや)は表情を曇らせた。
「あの子達の将来を思うと、本当に胸が痛い。とはいえ、私達は世情に疎く、策をめぐらせることが出来ない。だから黙っている以外に何も出来ないのよ」
お局は黙ってぽろっと涙を流した。
「お局。泣かないで。私まで悲しくなってしまうわ。私がもっと策略家だったらあなた達にひどい思いはさせないわね」
「真正直で真面目で明るいの二宮様と「紀宮」(きのみや)様ですわ。私達はそんな策略なんて望んでおりません。ただ・・これから生まれるお子にどんなことが起こるかもしれないと思うと心配で」
「皇宮警察が・・・出産の時は警備をつけてくれるそうよ」
「まあ。ということはやはり危ない事が起こるやもしれないのですね」
「今は考えないわ」
「紀宮」(きのみや)は椅子から立ち上がり、窓の外を見た。
真夏の庭は壁一面に中姫が這わせた朝顔のつるが覆い、それから数々の木立が直射日光を遮ってくれる。
「何事もなるようにしかならないわね」
そういってほほ笑んだ「紀宮」(きのみや)の頬は太陽の光を浴びて輝いていた。何と美しく、そして強い方なのだろうとお局は心から思った。
「入院する前に、家族写真を撮ろうと思うの。宮様からお許しを頂いたから写真館を手配して頂戴」
「え・・・写真館で」
「そうよ。思えば暫く正式な写真を撮っていなかったでしょう。いい機会だと思うの」
「かしこまりました」
風が一陣吹いた。「紀宮」(きのみや)の髪をさらっと巡ってまた出て行ったようだ。
守られてる・・・必ず宮様は無事にご出産遊ばされる・・とお局は確信した。