久しぶりに真面目に「宝塚」を語ろうかな~~と思っているので、宝塚を見たことのない方やこれからファンになるのでオススメビデオなどを教えて欲しい方、コメント欄よろしく~~
あ、「だいもん」はまず「ドン・ジュアン」を見ずにファンは語れないでしょう。
先日「ダル・レークの恋」を見ながら、菊田一夫作品を今、宝塚で上演するにはかなりのハードルがある事を感じました。
歌舞伎などでは「忠臣蔵」などの古典は毎年のように上演され、ファンも「古いから」とは言いません。むしろ新作については「え~~これが歌舞伎?」とかいう事もありますよね。
宝塚の場合、「ベルばら」が筆頭で「時代遅れ」な作品で、今思えば昭和50年くらいでしたっけ?何であんなにヒットしたんだ?と平成生まれは首をかしげているんじゃないか?とさえ思えます。
いやいや、昭和の「ベルばら」はすごかったのよ。感動したのよ・・・と力説してもそれはあくまで原作を読んでいるという前提付きの感動であった事は確かかも。
「ベルばら」を通して原作に触れる、その逆、結果両方が儲かる方式だったんですよね。ヅカファンとしては白軍服のオスカル様を演じた安奈淳さんがあまりに素敵だったから!フェルゼンの榛名由梨さんがあまりにかっこよかったから!フェルゼンを演じる鳳蘭があまりりにも~~となる。
初演当時から、「セリフ、ちょっとおかしいんとちゃう?」は誰もが感じていたことだと思いますが、ファンが植田先生に文句を言うわけにはいかず・・です。
原作ではそれほど「軍服を着た女性」としてオスカルが異様に見えることはなかったのです。だけぢ宝塚では殊更に「女のくせに」「女にだって権利はある」とフェミニストが喜びそうなセリフをつける。
原作者の池田理代子さんは果たしてそこまで「ジェンダー」を意識して作ったかどうかわかりませんけど、とにかく歌劇だとそうなって今に至る。
誰もが古臭い、セリフ回しが独特すぎてついていけない・・もはや原作の片りんもないと嘆く「ベルばら」は今でも伝家の宝刀、なぜか「古典」となって親しまれているのです。
さて、菊田一夫氏ですが、この方について教科書で習うかな・・と考えると、今時の20代は恐らく全員「知らない」って言いそうな雰囲気ですね。
文学史は現代国語の中でも重要な位置を占める筈ですが、明治の文豪ですら削られては昭和の大脚本家なんてあっさり削除ですよ。
私達の年代だって「菊田一夫といえば「君の名は」(新海監督じゃないよ)」程度の知識しかないわけですからね。
でも、戦後の一時期、菊田一夫他、外部の脚本家が座付きに交じって作品を書いていた時代があったのです。なぜ今はないのか不思議ですが、恐らく現代作家と宝塚の間で「現代の思考」と「宝塚的思考」の間の溝が深くなったからではないかと。
昭和20年代、30年代は日本でも韓流・華流真っ青のメロドラマが続々映画化されたりドラマ化されたりで、そんなに宝塚だからって特別なことはなかったのです。戦前なら尚更です。宝塚以上に宝塚的な俳優さんが沢山いましたからね。
で、菊田一夫氏ですが、先日お昼を食べていた隣の席の20代らしき数人が
「菊田先生の作品っていつも互いに意地を張って終わるのばかりよね」って話していて「なるほどなあ」と思ったものです。
確かに森光子さんで有名な「放浪記」だって、決して柔軟性のあるヒロインじゃないものね。
菊田作品の常として、ファンが引く原因はその「言葉遣い」だと思うんですよ。
「霧深きエルベのほとり」でも笑っちゃうような古めかしい言葉遣いが並びます。
「ダル・レークの恋」だって、「・・でございますね」連発にはびっくりする人が多いのでは。
例えば今この文章を菊田一夫風に書いてみるならば、昭和の言葉遣いというのは戦前戦後で随分と変わっているのでございますよ。
けれど、「ダル・レークの恋」の恋のラッチマンも、あるいはリタも、あの当時からすると、随分と先を行く思想の持ち主で、ですからあの当時としてはとても、ええ、とても「現代風な」脚本であったのですわ。
血筋や家という存在を、皇族の方々ですら否定する時代なんですもの、一般の方々がわからなくても当然ですわね。
「好きなら付き合えばいいじゃん」などと申しますが、結婚は女の一生を左右するもの。そこに真実の愛がなければ受け入れてはいけない。なぜなら失敗したらとても手痛い罰が待ち受けているのでございますからね。
・・・ってこんな感じです。
「霧深き・・・」の場合も、ヒロインの母が運転手と駆け落ちをしたという、とても現代風な背景が語られていて、ゆえに家出するのも致し方ないと思わせ、世間知らずのお嬢様ゆえに恋に夢中になって現実にぴしゃりと平手打ちをくらう。
これは今も共感を得られるのです。
しかし「ダル・レークの恋」は共感する所がない。
ラッチマンの「ボタンの掛け違い」で本来、結ばれる筈の二人が価値観の違いに気づき、それでも女性は安易に男が同じ身分だったゆえに、価値観を取り戻すと考えていたのだけど、ラッチマンは一度思想を決めたら揺るがず、彼女の本性を見てしまったことで傷つき、許さず、去っていく・・・という話で、現代でも共有できそうな話ではあるんですよ。
あるんだけど、ぴゃっぱり言葉遣いが難しいのと、「匂わせ」セリフのせいで紗幕がかかったように難しいの。
・カマラの処女を求める・・・私はカマラ姫を愛しています。と申せば私が何がいいたいかおわかりになるでしょう。
OR あなたの命を頂きたい。
・カマラの初夜の回想・・・あの日の夜、あなたは私に何をしたのですか
等々。
こういうセリフが好きな私もいるわけですけどね。
菊田一夫といえば日本を代表する作家の一人です。
彼が宝塚に作品を残してくれたことは、大きな財産です。
だからこそ、変にセリフを追加したりせず、まんまでやってほしいと思うんですね。
そして時には古い言い回しを楽しむ余裕も欲しい。
だって新派などでは未だに昭和初期の作品をそのままやったりしてるわけですし。
わざわざ現代的な言葉遣いに替えたり付け加えたりはしないですよ。
ただ、「世相を反映した作品」を排出している宝塚。
「エリザベート」ですら、今はもう価値観が古いというか、あの時共感していたエリザベートに共感出来ない自分がいたりするわけで。
そういう意味では宝塚は常に新作を上演するのがいいと思います。