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真実のバッシングと誹謗中傷は違う 2

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落ちるはずのない橋が落ちて・・・しかも和歌山で。

さて、前回の記事で「美智子皇后バッシング」が必ずしも誹謗中傷と言えないこと、真実の皇后像を伝えていたことはわかって頂けたかと思います。

 平成になって美智子皇后は「伝統・儀式」を自分流に解釈し、「伝統によって傷つくこともある」と文書で述べる → 祭祀や伝統を真っ向から否定

 明治洋装令に従い、皇族は冠婚葬祭は全て「洋装」であったのに、皇后は着物を着る

 平成後期になると、宮中晩さん会でティアラや勲章をつけなくなる。理由は「首の痛み」だったが、相手国への礼を失すると誰も言えなくなった。

 天皇の戦没者追悼式における「深い反省」の連発

 女性週刊誌を通して書かれた「皇后の韓国訪問への熱意」「謝罪の旅」の肯定による日本の歴史歪曲

 天皇皇后というのは、日本が誕生したその時より「鎮護国家」を願う存在

としてありました。つまり「大和の国ファースト」という存在なのです。

だから平和な時は、その存在を忘れられているけれど戦争や内乱の時に最終的に「天皇」が事を収める立場になりました。

じゃあ、平和な時の天皇皇后は何をしていたのか?と言えば、一番重要な仕事は「後継者を生む」ことであり、「宮中祭祀」に臨むことであり、皇室や公家に伝わる和歌や書道などの伝統を守ることなのです。

 確かに美智子皇后は男子2人を産んで「皇太子妃」としての第一の役目を悠々と終えましたし、和歌の才能も素晴らしいものがあります。

しかし、自分達の時代になるとそういう「伝統」は「苦しみ」であると文書に書いたわけで、そういう考え方が「皇室」の在り方を変えてしまいました。

 

 小和田雅子氏が皇太子妃になれた理由

 ハーバード大出の才媛

 英語がペラペラ

という2点です。詳しくは「日本一運のいい女」を最初から読んで頂ければわかりますが、昭和の頃はこの2点に意義を唱える人達も多かったのです。

 小和田家は外務官僚。皇族は政治に関係しない伝統を無視

 雅子氏は水俣病を引き起こしたチッソの会長・江頭豊氏の孫娘で血筋が悪い

 小和田家は3代前まで遡れない

ゆえに、昭和の頃には一度、お妃候補から落ちました。

雅子氏自身、イギリスに留学中に追いかけてくるマスコミに「私は皇太子妃にはなりません!」と言い切っています。

しかし、1993年、突如「皇太子妃に小和田雅子さん」が決定してしまったのです。

天皇家というのは「血統」が全てです。「父方が天皇」である事が絶対です。

しかし、日清製粉の社長令嬢・正田美智子さんが皇太子妃になった時から「血統」は否定されました。

皇太子妃の条件が

 学歴

 語学力

にとって代わったのです。

平成初期の「皇后バッシング」は生き残った「正当な皇室を支持する派」の息も絶え絶えの反乱だったのでしょう。

私達、昭和戦後生まれは日教組による反日教育を受けて来ました。

 君が代と日の丸否定

 天皇制には触れない

教育を施されて来たのです。

1970年代から1980年代にかけて「反天皇制」の書物が多く出版されていた程。

その理由は

 太平洋戦争の責任は昭和天皇にある

というものでした。

要は、「中韓他アジアを侵略したのは昭和天皇であり、戦争を引き起こしたのも昭和天皇だ」

           ↓

 戦犯である昭和天皇は戦争責任をとって退位、もしくは死刑にされるべき

という論調ですね。日教組の教育の中には多分にそういう思想が隠れていて、私達はいつの間にか「君が代」を歌わなくなり、日の丸が嫌いになりました。

五輪の時、世界中の人が誇らしげに国歌を歌い国旗に敬礼するのに、日本人はどこか恥ずかしいと思ってしまうのです。

「兵隊たちは天皇陛下万歳と言って死んだ」というのが彼らの合言葉です。

 

しかし、昭和史をちゃんと勉強すれば昭和天皇に戦争責任がない事は明白であり、また、太平洋戦争が自存自衛の戦争であった事もわかります。

靖国神社に祀られているA級B級戦犯も連合国が勝手に決めたもので彼らに罪はない事も明白です。

昭和天皇は戦争終了後、皇室を残す為に11宮家の臣籍降下を了承しました。

残ったのは秩父・高松・三笠の3家と貞明皇后、そして天皇の家族のみです。

それでは戦後に育った皇族はどんな思いをしたのでしょうか。

戦前は日本一お金持ちだった皇室ですが、戦後は全て税金で暮らす事になりました。天皇制についてきちんと学んでいない、親からは聞いている筈の学習院の生徒達ですら「税金で養われているくせに」と言った・・・と寛仁親王が述懐していました。

特に桂宮はそれで随分傷ついたとも聞きます。

学習院なら旧皇族や華族の子弟も多い筈なのに、「学ばない」という事は本当に酷いことで、この事が21世紀の今、眞子様をも傷つけているのです。

 

「皇室」が税金で運営されていることは、皇族が望んでそうなったわけではありません。

戦後の憲法で決められた事に過ぎないのです。

特に宮家では医療費は10割、旅行費も自腹・・と決められているので決してお手元が裕福ではなく、眞子様も佳子様も庶民のお金持ちよりも質素な生活をしているのです。

にも関わらず・・・最終的に一時金辞退ということまでなってしまった。この責任は「天皇制」「皇室」についてきちんと教えてこなかった国にあるのではないでしょうか?

安倍元総理などは保守派だけれど、それでも「皇室」制度について精通しているわけではない。まして菅さんおや、岸田さんおやです。

話を元に戻すと、小和田雅子氏を皇太子妃にしたい「一派」がいました。

それは社会党・共産党・公明党とその支持母体である宗教団体です。

え?何で?って思いますよね。

なぜなら彼らは「反天皇制」の思想を持っていたからです。

しかし、小和田雅子氏を皇太子妃にする事で、大いなるメリットがありました。

それは「皇室」に社会主義・共産主義を持ち込むことが出来るということ。

なにせ父親の小和田恒氏は外務省事務次官ですし、外務省と言えばチャイナスクール、ロシアスクール等、そっち系を信奉する集団です。

外務省には「大鳳会」という某宗教団体を信奉する会があり、彼らと雅子氏が非常に親しい仲である事は雑誌等に書かれていました。

 血統の否定

 家柄の否定

をすることで、皇室にそぐわない血を入れることで権威を傷つけようとしたのでした。

それにまんまと乗ったのは徳仁親王です。

徳仁親王は古くからの宮内庁職員らに「小和田さんはいけません」と言われていたのに

 1989年2月「小和田さんではいけませんか」と皇太子が言う。(昭和天皇崩御1月目)

それでも反対されると「それなら僕は結婚しない」と言い出す。

 1992年8月16日 柳谷謙元外務次官宅で5年ぶりに再会

 1992年10月3日 徳仁親王はあずき色のワゴン車に身を隠して新浜鴨場に行き、小和田雅子氏にプロポーズ。天皇皇后不在を狙った。

 小和田雅子氏というのは本当に不思議な人で、「嫌だ」といいつも、皇太子から誘われるとのこのこ東宮御所まで出向いて夜の10時以降まで長々と滞在。

同僚から「嫌いなら会わなければいいのに何で会うの?」と聞かれると「好奇心よ」と答える。

やり口が小室圭女性版・・・に見えてしまうんですよね。

プロポーズを受けた理由は「外交官のキャリアを皇太子妃になって生かせばいいじゃない?」(「外交官として活動する事も皇太子妃として皇室外交することも同じではないか)

つまり、ある意味、皇太子に騙されたともいえるし「職場を外務省から皇室に変えただけ」とも言えます。

この瞬間から皇太子家の主導権は雅子さんに移りました。

 

記者会見をテレビで見て私はすごくがっかりしました。

小和田雅子さんが言ってる事がさっぱり理解出来なかったからです。

「こんなに日本語が下手な人がいるなんて」と思いました。

それでもこれは全部セリフで〇覚えしていたんですよね。

当時の週刊誌は全部おめでたムードで雅子さんの日本語のおかしさを

 帰国子女だから仕方ない

としたのです。

この時から雅子さんの肩書きは

 元外交官

 帰国子女

 ハーバード大出身の才媛

 8か国語をペラペラ

になりました。

しかし、これがフェイクである事は後々証明されるのですが、マスコミがそれを伝えないので多くの国民は未だに信じています。

実際は

 外務書の事務職員

 帰国子女・・とは言えない

 実際はラドクリフ大で後にハーバードに併合

 小和田恒氏は当時ハーバード大教授

 英語は日常会話、他の国の言葉を聞いたことがない

ということで、それならまあ、あの日本語が下手だった理由もよくわかります。

疑惑だらけの小和田雅子さんは小室圭のように追求される事無く皇太子妃になれました。

それは、当時のマスコミのほとんどが時勢を読んだ・・というか、左側の怖さをよく知っていたからでしょう。

 


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