「妃殿下。妃殿下。どうかお起きになって下さいませ」
自分を起こそうとする声が聞こえる。うるさい。
昨日、寝たのは何時だったか・・・・確か夜中の3時くらい。
今何時?7時?4時間しかたっていない。
「妃殿下。朝でございます。殿下が食堂でお待ちになっておられますから」
女官の声が悲鳴に聞こえるので、マサコは仕方なく目をあけた。
「妃殿下。どうか洗面を。それからおぐしを整えて、お着替えになって」
「うるさいわね。何で命令するの」
マサコは眠気といら立ちに思わず乱暴な口をきいた。
「命令だなんて。殿下をお待たせするのは失礼にあたります」
女官長も負けてはいなかった。
「待たなくていいって言ってるじゃない。私、疲れているのにどうして起こすの?」
「公務のお時間が」
「具合が悪いの。今日はお休みします」
「具合がお悪い?では侍医を呼びます。どんな風に具合がお悪いのですか?」
「頭が痛いし、微熱もあるし。だから今日は休みます。ほっといて下さい」
「そうはまいりません。妃殿下の健康管理も私達の仕事ですから。まずお熱を測って
下さい。それから詳しくおからだの様子を」
「プライバシーの侵害」
マサコは叫んだ。
「勝手に私に触らないで。何でそうプライバシーを侵害するの?わけわからない」
「妃殿下・・・」
女官長はため息をついた。
「どうかしたんですか?」
気が付くとドア口に皇太子が立っている。どうやら食堂でマサコが降りてくるのを
待っていたが、待ちきれずに来たらしい。
「おはよう。どうかしたの?」
「・・・・・・」
マサコは黙り込んだ。女官長が代わりに答える。
「妃殿下は今朝はお具合が悪いと」
「え?そりゃ大変だ。すぐに侍医を呼んで。どんな風に悪いのですか?
熱はあるの?」
「頭が痛いの。一人で寝ていたいんです」
「まずお医者に見せないと」
「私が具合悪いって言ってるんだから悪いんです。熱があるっていったらあるの」
「じゃあ、お薬を」
「いらない。ほっといて欲しいの。一人にして」
マサコはほぼ半狂乱になりつつあり、皇太子は困り果て女官長も狼狽する。
「とりあえず、侍医を呼んで。それから落ち着くような飲み物を持ってきて。
僕は部屋を出ますから」
皇太子はそそくさと出て行った。女官達も逃げ出すように出ていく。
マサコは思い切り布団にもぐりこんだ。
「今、お水をお持ちします」
女官長は諦めて出て行った。
マサコの心はいら立ちと苦しみと怒りで一杯だった。
こんな筈じゃなかったのに・・・一体誰を恨めばいいのか。
結婚して最初は楽しかった。
綺麗な服をとっかえひっかえ着替えて、どこかへ行くたび「マサコさまー」と
声がかかり、みんな最敬礼で迎えてくれる。
公務先の施設は完璧だし、食事もおいしい。
多少、堅苦しい式典出席を我慢しさえすれば、「皇太子妃」の地位はこの上なく楽しい
ものだった。
しかし、1月経ち、2月経ち、3月経つ頃には
「ご懐妊はまだか」という報道が増え、誰に会ってもそれを期待されていることに気付いた。
「3年間は子供を作りません」と両陛下に言ったら、ものすごくびっくりした顔をされて
「どうしてですか?」と聞かれた。
だから「子供を産むより皇室外交をしたいからです」と答えたら
「皇室外交・・・は仕事ではありませんよ」と言われて、今度はこちらがびっくりした。
慌てて皇太子は「マサコはまだ皇室に慣れていないので、なじむまでは子供はいなくても」
ととりなしたが、「皇室外交は仕事ではない」というセリフが気になって皇太子を追求した。
「一体、どういう意味なの?私、皇室外交しにここに来た筈よね?」
「そうですよ」と皇太子はにこにこして答えた。
「じゃあ、何で両陛下は違うっていうの?」
「両陛下のお考えでは、皇族は国民の為に尽くすものだという事です。でも僕達は
僕達なりに国際的な皇室をめざしていけばいいんじゃないかな」
とわけのわからない言い方をする。
まるでけむに巻かれたみたいな思いでいたら、今度は毎日のように国内公務ばかり
押し付けられる。
「外国にはいつ行けるの?」
「それは政府が決める事で」
「外国旅行が出来ないの?国内ばかりでうんざりなんだけど」
「そのうち、そういう話も来るでしょう」
皇太子の言う事は要領を得ない。
さらに、自分とは全く関わりのない学習院のOBらと会わされたり・・・何を話していいか
わからなくなり、そのうち退屈してきたので「具合が悪い」と言って途中で逃げ出したら
「妃殿下としての自覚が足りない」と言われてびっくり。
登山にも付き合わされて。どうしても二人で仲良く山を登る絵が欲しいというマスコミのせいで。
しかも「手作りのお弁当」を作れとかなんとか?
冗談じゃないわ・・・って言ったら侍従や女官が影でこそこそと
「可哀想な皇太子殿下」と言ってるのを聞いてしまった。
また、勤労奉仕団への会釈が毎日のようにあり、そのたびに知らない人と会話を
しなくてはならず、どうにも面倒で仕方ない。
「接見」も最初は「石鹸」と間違えたくらいやたら多く、その度に下調べの為に
資料を沢山渡されるし。これでは休む時間がない。
外国へいかせてくれるという約束はどうなったのか。
「日本にいらした外国の方々を接待するのも大切な皇室外交です」と
東宮大夫に言われた。
でも、それは本来自分がやりたいことではない。
私は外国に行きたいのだ。
それでも、ロシアのエリツィンとかアメリカのクリントンとか、有名人と会うのは楽しい。
通訳なんか通さずに得意の英語でバンバン会話したら、今度は叱られた。
「妃殿下。外国要人との会話は相手をやりこめてはいけないのです」と。
やりこめているつもりはない。議論をしているだけなのに・・・・
でも男なんて一見バカそうな顔をしている女性の方が好きなのだ。あのエリツィン
だってキコの方ばかり見て楽しそうに話していた。
キコは「ロシアの冬は本当にお寒いそうですね。日本の冬はいかがですか?」
などというどうでもいいような話をする。
ロシアが日本より寒いのは当たり前の話じゃないの。それを言うならロシアの住宅や
車は氷点下何度まで耐えられるのかとか、せめてロシア的社会主義の行く末について
語るべき。
「政治を語ってはいけません」と注意されてびっくり。
気が付くと自分の回りが全部「あれをしてはだめ、これをしてはダメ」の連続になっていた。
期待される事と言ったら「ご懐妊」こればかり。
私は子供を産む為に結婚したんじゃないのに。皇室外交をする為に結婚したのに。
毎日、毎夜、今日は皇太子と一緒に寝るかどうか・・女官も侍従もじっと見守る。
気持ち悪いったらありゃしない。
彼らの同情をいっせいにひいているのは皇太子だ。
「結婚したというのに、妃殿下と一緒にお休みになれない」
「何で拒否するのかわからない」
「本当にお気の毒」
そんな陰口があちらこちらから聞こえてくる。
その時、初めて知った。私は人身御供なんだと。
皇太子との結婚によって、無理やり夜を共にしなくてはならず、生涯その身を皇太子の
側に寄り添って「妻」の役割をしていかなくてはならない人身御供。
「何を今さら・・・まあちゃん。あなた。しっかりしなさいよ」
東宮御所に来た母は泣きそうな目で言った。
「結婚するってそういう事でしょう?私だってあなたのお父さんと結婚してあなたたちを
産んで。外交官夫人として頑張ってきたんだわ。まーちゃんは皇太子殿下と結婚したから
皇太子妃なのよ。当然、お世継ぎを産まないと」
「そんな約束してないじゃない。お父様はそんな事を言わなかったわ」
「それは・・言わなくてもわかると思ったからよ」
「お父様は私を騙したのね。お父様だけじゃない。殿下も私を騙したわ。結婚さえすれば
皇室外交させてくれるって約束だったのに、外国に行けないし、わけのわからない人達
と会ったり式典に出たり。祭祀があんなに辛いものだなんて教えてくれなかった」
「まあちゃん。落ち着いて。外国はそのうちきっと行かせてもらえるわよ。あなたにふさわしい
外交をさせてもらえるわ。なんたってお父様は国連大使になるんだから」
「本当に・・・・?」
「本当よ。もう少し我慢しなさい」
「でも。私、あの人と一緒に寝るのは・・・」
「じゃあ、具合が悪いとか何とか言って暫くは一人でいたらいいわよ」
母の言葉はどう考えてもその場しのぎに過ぎなかったし、皇太子の顔を見る度
「今日は?」と聞かれているみたいで本当に嫌になってしまった。
結婚当初は「疲れている」の一言ですんなり納得してくれた皇太子も、さすがにこのころに
なると拒否されているのがわかるらしく、ちょっとぎくしゃくするようになった。
「僕達、付き合い始めて短いから、もう少しお互いをよく知らないといけませんね」
別に知りたくもないけど。
日々が流れるうちに、最初は「愛すべき失敗」などと言われていた公務先の失態も
(例えば、立たなくていい場面で立ってしまうとか、皇太子の後ろを歩かないとか
イヤリングを落としてそれを皇太子に拾わせるとか)
段々「妃殿下の自覚を以て頂きたい」という東宮職からの苦情になって出てくる。
「皇室ではあくまで皇位継承権を持っている方が上です。妃殿下は一歩下がって
お支えする立場です。そして一日も早くお世継ぎをお産み下さい」
何という人権蹂躙の世界。
「皇太子殿下には敬語でお話し下さい。皇太子殿下をおたてください」
自分としても頑張ってきたつもりだが、侍従長や女官長に言わせると
「不遜な態度」らしい。
人権蹂躙の世界で日々、プライバシーを侵害されて生活している自分こそ本当の
被害者であり、今こそ、その差別の壁を破らなければならないのだ。
でも、そんな事を一生懸命に語っても何も変わらず。
そのうちに公務をしようという意欲がなくなり・・・・
「御風邪でしょうか」
侍医がやってきたのでマサコはいやいや起き上がった。
「少しお熱があるようですね。とはいっても微熱ですが」
「微熱?もしや・・・・?」
女官長が期待の声をあげる。侍医はちょっと微笑んだ。
「検査いたしましょう」
ああもううんざり。誰もかれも考える事は同じ。
ありえないから。
その後、マサコは体調を崩して3週間以上公務を休む羽目になった。
微熱が続いたのでもしや肺炎では?とレントゲン検査をするやら血液検査をするやら。
しかし、どこにも異常は見当たらず。
いうなれば「慣れない環境に適応するのが難しい」「ストレスを抱えた状態」との
診断が下された。
すると宮内庁は、東宮の公務を一気に減らし、夫婦での鑑賞や静養に重点を置くように
なった。
しかし、二人きりを強要されているようでますますマサコは心を閉ざし
部屋に引きこもるようになった。
やりたい事 → 外国へ行き、要人と話をして注目される事
自分の学歴やキャリアが賞賛され、みながひれ伏すこと
やらなければならない事 → 世継ぎを産む事
しきたりに従う事
妻として夫をたてる事
やりたくない事 → 子供を産む事
時間通り動く事
命令される事
こんな風に紙に書けばきっと現実と理想のギャップがわかったのかもしれないが
今のマサコには理論的に考える余裕も機転もなかった。
ただただ、自分をこんな環境においやったヒサシと皇太子に向かって恨みつらみを
述べるばかりだったのだ。
そんな春のある日、アキシノノミヤ妃の懐妊が発表された。