皇室にとって「世継ぎ」の問題は大きかった。
世の中はバブルの余波を受けて価値観が変わり、結婚しても子供を持たない選択もありという。
けれど、それでは皇室は成り立たない。
天皇家にとって古代から現在に至るまで皇位継承者を生み出す事は、全ての妃の「使命」であり「義務」である。
けれど、現皇太子妃は「3年間は子供はいりません」と宣言してしまった。
「子供を産む事と皇室外交のどちらを優先させるべきか悩んでいる」とも。
そそれが「新しい」と受け入れる向きも多かっただろう。
なにせ、皇太子妃は「キャリアウーマン」の仮面をかぶっていたのだから。
しかし、現実問題結婚して2年が過ぎても子供に恵まれない皇太子夫妻に対して
「危機」を感じる人も多かったのだ。
特に天皇の憂いは深かった。
自分が生まれる前にどれだけ先帝が悩んでいたか、今になってわかる。
側室を持たなかった先帝は自分と弟が生まれるまで正確に2年おきに子供をもうけた。
自分が生まれるまでに母は4回出産している。合計で7回。
子福者と人はいうからも知れないが、先帝にとって毎回の出産がどれ程のプレッシャーだったか。
結婚してすぐに男子に恵まれた自分には想像も出来ない。
今、自分に孫は2人。それも内親王しかいない。
アキシノノミヤは結婚してすぐに子供をもうけた。キコはまだ若いから、皇太后のように何度でも出産が可能だろう。
ついせんだって、学習院の修士課程を修了したと聞いた。
子供を二人育てながらよく頑張ったものだと思う。キコの静かな粘り強さは天皇にとって好ましいものだった。
だが・・・・立場が問題なのだ。
せめて皇太子妃が1人でも産んでくれれば、大っぴらにアキシノノミヤ家にもといえる。
天皇は、世間が皇太子妃を異常に持ち上げている事実を知っていた。
マサコが結婚して以来、今に至るまで全く「皇室」の生活を受け入れていない事は明白な事実だ。
しかし、天皇は「受け入れていない」のではなく「出来ない」のだと感じている。
無論、そんな事をはっきりと口に出すわけにはいかない。
だから皇后を通じて東宮職には有能な人材を置き、何とか「妃」としての義務を伝えようとしている。
しかし、そんな事をすればするほどマスコミが
「旧弊な皇室に馴染めない可哀想なマサコ様」とあおる。最近では外国の新聞までもが
「皇室によるマサコ妃いじめ」を書く。
なぜそういう事になるのか、さっぱり理解できない。一体どんな価値観がそこにあるというのだろうか。
たかがマスコミと思って無視するべきなんだろうか。
しかし、報道が原因で皇后は倒れた。これ以上無理をして助長させる事は出来ない。
何か・・・見えない大きなものが自分に迫っているような気がした。
世間ではちらほらと「女帝」擁立問題が出てきた。
国としても、皇太子が結婚して2年以上子供に恵まれないのは「妃」に対するプレッシャーが原因として
「女帝を認めれば緩和される」とし、どうかと意見を求めてきた。
それに対して「マコがいる」と発言はした。でも、それはあくまで男子が生まれるまでの暫定的な措置。
皇統は男系男子でなければ存在価値がない。
それでも「マコがいる」と発言した事で、皇太子妃への負担は減った筈。
にも関わらず毎週のように「マサコ様へのプレッシャー」報道が出るのはなぜなのか。
東宮職も宮内庁も、極力公務のスケジュールを緩やかにし、静養の機会も増やしている。
なのになぜ・・・・
セツ君の具合が悪いというので、キク君はすぐに宮邸にかけつけた。
セツ君は85歳。たった一人で宮家を守ってきた孤高の戦士であり、キク君にとって
実の姉以上の存在だった。
先帝が亡くなり、皇太后も「高齢者特有の病気」を発症してからは、時代取り残されたような気がする。
子供がいない悲しみ、夫への多少の不満、 名家の娘としての誇り、皇室への敬愛。
セツ君とキク君は共通点も多く、価値観も共有している。
だから、そんなセツ君が具合悪いというので、ひどく不安になったのだ。
宮邸は事務官と数人の侍女がいるばかり。広大なチチブノ宮邸は未亡人の一人暮らしには寂しすぎた。
セツ君はきっちりと着替えをして髪も整え、化粧もして待っていた。
「お姉さま、そんなに無理をなさらずとも」というと
「無理ではありません。どんな時でもこういう風にしか出来ないのよ」とせつ君は笑った。
「お加減が悪いとお聞きしたのです」
「ええ・・さすがに歳かしら。宮様の元へ行くのももうすぐね。宮様は待っていて下さるかしら?
もう私の事など忘れたんじゃないかしら」
「お姉さまったら」
キク君が怒ったように言うと、セツ君はうっすら笑う。
「だってお別れしてから随分経つもの。私がいなくなったら誰が宮様と私を思い出してくれるの?
こういう時は子供がいなかった事を悔やむわ。宮家の跡取りを産む事が出来なかった。
本当に申し訳なくて。宮様にとって私は何だったろうと思うのよ。少しも役に立たない妻で・・・
テイメイ様は私を責める事はなさらなかったけど、でもきっと失望されていたわね」
「だったら私だって。私もテイメイ様の肝いりで入内したんですもの。でも結局後継ぎにめぐまれず。
後悔というか、情けなさというか。今でも時々私の心は痛みますわ」
「でもお上にはお子様が3人おできになった」
「ええ・・ノリノミヤは私にとって大きな慰めです。あの子が無事に降嫁するまでは何とか生きていたいと思います」
「あなたには楽しみがあるわね。私も・・結核予防会の総裁をキコ妃に譲ったのよ。キコ妃なら必ずやり遂げるでしょう。
あの子には会津の血が流れているもの。
最近ではキコ妃がマコやカコを連れてくる時だけが安らぎなの。私が死んだらこの屋敷を宮家に上げるわ。
遺言として残すつもりよ。今の職員用宿舎なんてとんでもない話。お上は一体何を考えているのか。
アヤノミヤは妃選びを間違えなかった。それだけでも皇室にとって救いなのに」
「なのに・・・?どうかなさったの?」
「ちょっと・・・侍女を呼んで」
セツ君が声をかけると、控えていた老女と呼ばれる古参の侍女頭が部屋を出る。
まもなく若い侍女を一人連れてきた。
「さあ、聞いた事をお話なさい」
宮妃の言葉に緊張しまくっていた侍女は、恐る恐る語り始める。
「あの・・・東宮職がキコ様に・・皇太子妃殿下がお世継ぎを出産するまでキコ様の出産は控えるようにと」
「何ですって?」
キク君は思わず立ち上がりそうになった。そのすごい剣幕に侍女が飛び上がる。
「噂でございます」
「どこからその話を?」
「申し訳ございません!」
侍女はしくしく泣き出した。
「怒っているのではないの。正直に話しなさい。これは重要なことなのよ」
セツ君が優しく語りかけると侍女はやっと泣き止んだ。
「あの・・・東宮職の女官が話しているのを女嬬が聞いて」
「東宮職がアキシノノミヤ家に出産制限をしたというのね?」
「はい。カコ様が御生まれになった時、マサコ妃殿下がとても気を悪くされて。それで東宮侍従長が
直接宮家に行って申し出たとか」
「なぜそんな事を?」
「何でも東宮家よりアキシノノミヤ家に先に親王様が生まれたら都合が悪いと。身位の事で。
つまり・・宮家の親王の方が日嗣の皇子より年上になるのは・・・」
「馬鹿馬鹿しい!」
キク君は憤慨して叫んだ。
「でしょう?」
セツ君はため息をついた。紅茶が冷えたので侍女はそのカップを持って急いで下がった。
「私もにわかには信じられなくてね。まさかお上がそれをお許しになる筈ないと。で、最初にヤマシタ
東宮侍従長に聞いたの。あれは皇太子妃擁立の立役者の一人でしょう?まあ、尻尾を出すわけ
ないわね。あくまで否定。じゃあ、そういう事を言われた事実があるのかアキシノノミヤ家にも聞きました。
無論、宮家が告げ口なんてするはずないし。キコ妃は笑ってそんな事は・・・と。でも顔色をみて
わかりました。言われたのよ。絶対に」
「どうしてそんな事。これは皇統の未来に関わる重要な事ですのよ。皇太子妃の心がどうのとは言って
いられないでしょう。お姉さまにも私も子供がいない。ミカサノミヤ家も女性ばかり。テイメイ様が
4人も親王を挙げられたとはいっても、今はこのていたらく。それを考えたら産児制限なんて」
「要するにね。皇太子夫妻は出産を自分達だけの問題であると思っているのよ」
「自分達だけの問題ですか?国家の問題とは考えていないのですか?」
「一連のあの夫婦のやり方は全部そうでしょう。何でも個人的な感情でしか考えない。
皇太子は将来国を背負っていくという自覚がないのね。それ以上に皇太子妃にその気がない」
「何という事でしょう。アキシノノミヤ家だって内親王が二人いるきり。このままでは宮家は絶えます。
どうしたって後継ぎの親王が欲しいでしょう。どちらが生まれるかは天の配剤。だからこそ
可能なうちは何度でも出産して頂かないと。タカマドノミヤ家だって3人立て続けに頑張ったけど
女王ばかりで。ああ・・・何という事でしょう」
「どうしてなのかわからないけど、お上が・・いえ皇后陛下は皇太子妃に甘いわ。恐れているといっても
いいでしょう。何か私達にはわからない力が入り込んでいるのかもしれない。とはいえ、子供を産むな
と言われたキコ妃が不憫でねえ。皇室が、もう私達がいる世界とは大きく違っているのは確か。
だから力を貸してあげたくても出来ない。ああ・・・あの時、民間から妃を貰ったからこんな・・」
セツ君はちょっと苦しそうに息を吐いた。老女が慌てて背中をさする。
「この所、胸が苦しくなるのよ。私も長くないわね」
「お姉さま」
「私の忠告などお上はお聞き入れにならないでしょう。あの時のしこりが残っているから。
だから私ももう何もいいません。皇統の事は皇統につながる方がお考えになればいい事。
私のように後になにも残さない妃にはいう資格なんて。でもやっぱりキコ妃が気の毒で。
アヤノミヤは東宮と違って表面的には亭主関白で妻を庇う事もしない子。だからキコ妃は
黙って我慢するしかなくてね。でも、私はキコに親王様を産ませてやりたい。
皇室の将来を託したい。私が死んだらアキシノノミヤ家を見守って下さい」
セツ君の言葉はキク君の心に深く刻まれた。