チチブノミヤ妃は8月に心不全で亡くなった。
帰国子女であり国際感覚豊かな妃だった。会津の魂を体現しているかのような生き様だった。
遺言によって宮邸はアキシノノミヤ家に譲られる事となり、狭い職員用宿舎に住んでいた4人家族は
やっと「宮家」らしい体裁を整える事が出来るようになった。
宮妃のアキシノノミヤ家への思いは、ただ単に妃が会津の血を受けているからというだけではなく
広い意味で皇室の将来を託したいという感情があったからだ。
宮妃が気にしていた「東宮職がアキシノノミヤ家に出産制限を強いた」という話は、結局の所
どこからも「そうです」という答えは返ってこない。
当のアキシノノミヤ家が全否定している以上、騒ぐ事も出来ない。
それでもキク君はたまらくなって、宮妃の葬儀のあれやこれやにかこつけて東宮御所を訪れた。
すると・・・・何と皇太子妃は具合が悪くてふせっているという。
どのような病気か、風邪なのか?先にそういってくれたら訪問などしなかったのに
客間に通されて女官長の口からそれを聞かされた時、キク君は自分が伏魔殿に迷いこんだような気がした。
いつから東宮御所はこんなに暗い雰囲気になったのだろうか。
侍従長も女官長もどこか怯えて風でもあり、または互いに監視しあっている風でもあり。
お茶が出されたが茶卓がなかった。
キク君についてきた老女が「何と失礼な事を」と怒ると、女官長は
「東宮御所では茶卓を出さない決まりなのです」という。理由は、茶卓とお茶碗がくっついて離れないと
大変な事になるからという理由だった。
あまりの馬鹿馬鹿しさに「お茶をこぼすから茶を出さないというの同じではないか」とキク君が言うと
女官長は疲れきった顔で「申し訳ございません。妃殿下のご命令なので・・・」と。
一見、大昔の東宮御所と何も変わっていないように見える。
でもこんなに違う・・・・・違うのだ。
随分待たされてから皇太子が一人で部屋に入ってきた。
「おばさま、ごきげんよう。御用がおありでしたらこちらからまいりましたのに」
皇太子は茶卓の一件など知らないようににこやかに、屈託なく笑った。
「妃殿下のご容体はいかがなのですか?」
その問いに皇太子は一瞬、きょとんとしたがすぐに「ええまあ」とこれまた笑った。
「マサコは体が弱いのです」
「お具合が悪いと知っていたら参りませんでしたよ」
「そんな大げさなことではないのですが」
これは完全に居留守だなとピンとくる。たしか皇太子妃は自分の身内、すなわちオワダ家以外とは
なかなか顔を合わさないという話だ。
地方に公務へ行っても、県知事や警察関係者と会うのがたまらなく嫌だと言ったらしい。
話が合わないし、楽しくないからと。
老人施設では、老人と握手したその手をウエットティッシュで拭いたなどという話がまことしやかに
伝わっている。
それにしても居留守を使うとは失礼すぎではないか。
「ではお見舞いいたしましょうか?」
キク君が立ち上がると皇太子は慌てて「今、熱があって」と言い始める。
「熱といっても微熱なんですけど、随分と具合が悪いみたいで私も部屋には行かないようにしています。
おばさまにそんな見苦しい姿をお見せするわけには行きませんから」
「皇太子妃殿下に見舞いの口上の一つも言わないで帰るのは礼儀に反するのでは?」
「そういう堅苦しいのはいいのですよ。おばさま。誰かお菓子をお持ちして」
皇太子の慌てぶりにますます「居留守」の文字が大きく浮かび上がる。
「そう・・皇太子妃殿下とはご成婚以来、年に数度もお会いする機会もなく寂しいかぎりです。
外務省から皇室に入られておわかりにならない事も多々あろうかと思いますのよ。気軽に聞いて頂けたら
こんなに嬉しい事はないわ。
このたび、チチブノ宮妃がお亡くなりになって私もめっきり歳をとったような気がしました。
セツ君様は私にとって、皇室で生活するにあたっていつも素晴らしい教師でしたし
実のお姉さまのようでもありましたから」
「はあ・・・」
皇太子はにこにこして聞いているが、その表情には多少のわだかまりを感じる。
内心では(二人で私の母を苛めただろう)と思っているようだった。
それでもキク君は負けなかった。
「私もいつ死ぬかわかりません。その前に東宮様のお子様を抱きたいわ。皇后陛下はまだお若いから
そこまで深刻ではないでしょうけど、私は明日にでもはかなくなりそうですもの」
「コウノトリのご機嫌に任せているのですが」
「コウノトリは絶滅しかかっているんですよ。努力をしなければ卵を産んではくれません。本当に細い細い
血をわけて、巣をきっちりと作ってやり、番が卵を産んだらそれを人の手で孵化させる・・
そんな事までしないと一旦絶えた血を復活させるのは難しいのです」
キク君の言葉に皇太子はどうこたえていいかわからず黙っている。
「アキシノノミヤ家はそういう事情をわかった上で早くからお子をなしました。でもまだ内親王だけ。
これからどんどんキコ妃には産んでもらわないと。ねえ?あなた方も負けてはいられないでしょう」
その言葉はかなり皇太子の気にさわったらしかった。
「子供を持つ事だけが夫婦ではありませんから」
そして皇太子のセリフにキク君もカチンときた。
「ええ。そうでしょうね。私などはついにお子をなせず、宮家を断絶させてしまいましたから。その罪を考えると
本当に申し訳なく思いますわ。でも、私もセツ君も子供をいらないとは思っていなかったのですよ。
宮様も私も、チチブノミヤ家でもどれほどそれを望んだか。けれど、セツ君は流産あそばして。
私も色々な事情があって産めませんでした。夫婦にはままそういう事があるものです。だから、産める方が
何度でもご出産あそばして親王様を上げ、皇統を絶やさないようにして頂かなくては。回りはそれを
お助けしないと。皇后陛下も東宮様の後、一度流産遊ばしましたが、何とかその後アキシノノミヤ様を
そしてノリノミヤを産んで下さった。その事に関して私達もヒタチノミヤも、全力で応援したものですよ。
皇后さまですら一度流産された。私には経験がないけれど現代においても一人の子供が生まれるまでの
道のりは本当に長くて重いものと感じます」
皇太子は不機嫌そうな顔になっている。
結婚して2年、子供がない状況ではどちらかに不妊の原因があるのではないかと考えても不思議はなかった。
宮妃はそういう事をちゃんと調べているのかと疑っているらしい。
「マサコはまだ皇室に慣れていません。外務省で実のある仕事をしていて、やっと皇室に入ったのです。
彼女が慣れるまではまだそのような事は」
「皇太子妃の一番大事なお仕事はお世継ぎを上げることですよ」
キク君は厳しく言った。
「東宮様の今のお言葉では、妃殿下は皇室に何か別のものを期待して入ってこられたような気がしますが。
皇太子妃の一番大事なお仕事はお世継ぎを上げること。そしてご自分でそれが出来なければ、弟宮に
それを託す事ですよ。ショウケン皇太后様はご自分がお子をなせないを知り、断腸の思いを抱きつつも
側室にそれをゆだねられた。ヤナギハラナルコの御生みまいらせた先々帝は皇太后さまの実子とみなされ
慈しまれてお育ちになりました。皇太后さまが本当のおたたさまでないとお知りになった時は
泣いてお悲しみになったとか。それ程先々帝は皇太后さまをお慕い申し上げていたのです。どなたが産もうとも
天皇陛下につながるお子は皇太子殿下のお子です。それを忘れてはいけません」
「はい。しかし、そんな時代錯誤な事をマサコが喜ぶわけありません。私は自分の家庭を大事にしたいです。
マサコが悲しむ事はしたくありませんし、誰にもしてほしくありません」
「ああ!」
キク君は多少大げさなため息を漏らした。
「リベラルなのは結構な事。そもそも両陛下がそういうお考えでしたわね。だから民間からお妃を迎える
という事をなさった。東宮様がそのように皇統の重大さを軽視されるのは皇后陛下のご教育なのですか」
皇太子は顔色を変えた。
「教育っていうわけでは。ただ私はまだ新婚ですし」
「アキシノノミヤ家は結婚一年目でマコ内親王をあげられましたよ。宮妃も学生で公務もあって大変な時に
けなげにも皇統の未来を憂え、二度の出産を経られた。ご自分の事ではなく未来の皇室の事を先に
お考え遊ばした結果なんでしょうね。そういうお心がけを妃殿下にきちんとお教えするのが
東宮様の御役目ですよ」
そこまで言われると皇太子はぐうの音も出ない。ただただ顔面蒼白になって手がぶるぶると震えていた。
普段から冷静すぎる程冷静な皇太子がここまで顔色を変えるとは・・・キク君はやっと居留守を遣われた
仕返しが出来たと微笑んだ。
皇太子だって一日も早く子供が欲しいと願っている。
好きとか嫌いとかの問題ではなく、やはり自分の義務としてとらえていた。
でも、今最優先すべきはマサコの気持ちだった。
「帰った?」
リビングへ行くと、マサコは不機嫌な様子でテレビを見ていた。
「ああ・・・参内するから早く着替えて」
今日は、皇居で恒例の食事会だった。にも関わらずマサコは着替えるでもなく化粧をするでもなく。
そもそも具合が悪いといってキク君との面会を拒否したのに、食事会に出られるというのは
おかしな話だった。
「余計なことしか言わないおばさんね。私がそこらそんじょの子供を産むしか能がない女だと
思っているのかしら?」
「でも、僕達は皇族なんだから」
「女性に出産を強要するのは男女同権に反すると思うわ」
「子供は欲しくないの?」
「・・・そりゃあ欲しいと思う事もなくはないけど。でも、女が子供を産んで一人前みたいな考え方が
おかしいわよ。あなたもそういう偏見の持ち主なの?」
「いや・・・」
皇太子はしまいにはマサコが何を言ってるのかわからなくなった。
恒例の食事会にはノリノミヤとアキシノノミヤ夫妻が一緒だ。
近況報告し、天皇の在り方を学ぶという大事な役割もあった。
けれど、この食事会、マサコには苦痛でしょうがないらしい。
皆が楽しげに会話をしていても、常に黙りこくって食事を延々と続ける。
質問されても答えないのでノリノミヤに「お尋ねですよ」と言われることもしばしば。
そういう時は「え?何ですか?」と聞き返す。その「聞き返し」が失礼にあたるという事もマサコには
わかっていなかった。
「マコちゃんとカコちゃんは元気かしら?」
皇后が尋ねる。
「おたあさま。つい先週、お会いにあったばかりじゃありませんか?」
ノリノミヤが横やりを入れると皇后はちょっと照れた笑いをもらし
「だって毎日でも見たいの。可愛いんですもの。マコちゃんはおしゃまさんね。言葉も早くて
行動的。はきはきしてるわ。カコちゃんはハイハイするようになったし」
「孫は特に可愛いね。女の子だとなおさらね」
天皇も相好を崩した。
「私はなかなか大変なんですけれど。論文を書いている時に泣き出されたりすると」
アキシノノミヤはちょっと困ったような顔をする。
「それも子育ての大事な経験ですよ。東宮も早くそういう経験をしたいでしょう」
皇后の言葉に皇太子はちょっとむっとした。
先ほどのタカマツノミヤ妃から言われた一連の発言が頭から抜けなかったからだ。
「私はもう少しプライバシーのある生活をしたいと思います」と皇太子は言った。
マサコも深く頷く。
「私は外務省のキャリアを生かした仕事がしたいので、あまりに子供子供と言われると」
「皇族といえどもプライバシーはあるわけで。そういうのを無視して週刊誌などに毎週書かれるのは
嫌です」
皇后は「そうね・・」と言葉を濁す。
天皇は「プライバシーという概念は皇室にはないよ」と穏やかに諭す。
「そうは言ってもある事ない事書かれるのは不本意だろうね。でも、期待されていると思いなさい。
皇太子夫妻に子供が生まれる事を国民みんなが待っているからね」
突然、椅子ががたっとなってマサコが立ち上がった。
「今のはどういう意味ですか?私の友達にそんな事をいう人は一人もいません。
昨日結婚した夫婦にだって、そんな事をいうのは失礼って知らないんですか?
そんなプライベートな事を期待しているなんておかしいです」
そしてマサコはわあっと泣き出した。皇太子は慌ててマサコをなだめる。天皇も皇后も
ノリノミヤも・・そしてアキシノノミヤ夫妻にも目の前で何が起こってるかわからなかった。
泣き声を聞きつけて侍従や女官が飛んでくる。
しかし興奮したマサコは涙にぬれた鋭い目をキコに向けると
「何よ。あなたが次々子供を産むから私が悪者になったんじゃないの。誰もがあなたみたいに
子供を産めるわけじゃないのよ。そんな事で自慢しないで頂戴」
「妃殿下、言いすぎです」
たまらずアキシノノミヤが言葉を挟むと、
「マサコは間違った事は言ってないと思う」と皇太子が反論した。
その言葉で一同は黙った。
「カコが生まれたせいで、マサコはいらぬ気遣いを迫られて傷ついているんです。一宮家と
皇太子では地位が違うのに一緒に考えてる。何人生まれようと宮家なのに」
「やめなさい」
天皇が怒り心頭で言った。
「一体いつからそんな考え方になったのだ?」
そのセリフはマサコのヒステリックな泣き声にさえぎられる。
「何よ、子供子供って・・・私は子産みマシーンじゃないわ」
「今日は帰ります」
皇太子は無表情でマサコを部屋から連れ出していった。
残された面々は、呆然としていた。
「何がそんなに皇太子妃を傷つけたのでしょう。まさか本当に不妊?」
皇后がひそやかな言葉を紡ぐ。
「大事な事ね・・・確かめないとね・・・でも、そういう事が傷つくというなら」
「だからってお姉さまにあの言いようはないでしょう」
ノリノミヤがきつい口調で言った。
「どちらが傷ついているというんでしょう。キコお姉さまがお可哀想よ」
「キコには悪いけれど、今後はあまり刺激しないようにして。デリケートな問題だから」
「ちょっとおたあさま、お姉さまがいつ刺激したって」
「よくわからないけど、幸せそうにしている事に傷つく人もいるのよ」
この言葉がどんなに理不尽か気づかないでいるのは皇后その人だけだったろう。
キコは歯をくいしばって「私が至らなくて・・・」と返す。その場は何とかそれでおさまった。
本当は誰もがキコに罪があるわけではない事を知っていた。知っていたけど何も言えなかった。
今、皇太子夫妻は幸せではないからだ。