昨日、月組の「ベルサイユのばら」を見てきました
明日海りおオスカル、龍真咲アンドレ。
幸か不幸か私、龍がトップになって一度も主役の舞台を見てないんだわーー
一応、階段降りは彼女が最後だけど・・・・毎回微妙な気持ちになるよね。
晴華みどりちゃんご観劇。私より背が低い?すごくきれい
ベルサイユのばら
アンケートをとるべき
「ベルばら」は宝塚の忠臣蔵である」と言われます。
でもその「忠臣蔵」というタイトルを聞いた時の若者の反応は「お酒の名前ですか」というんだとか。
(歌舞伎ファンの嘆き)
いわんや「ベルサイユのばら」おや。
フジの「ジェネレーション天国」をみてつくづく思うのは、バナナ世代とキウイ世代はどこか繋がっているし
意識も共通している。でもマンゴー世代は全く断絶しているという事
価値観だけじゃなくて、見てきたもの、聞いてきたもの、知っている事が違う。要するに「知らない世代」です。
それはマンゴー世代の親世代である私達が教育を怠ってきたからに他ならないでしょう。
私達には「世界名作劇場」があり、ジャンル多様な漫画雑誌に囲まれて育ちました。
「ベルサイユのばら」でフランス革命を知り、勉強し・・「あさきゆめみし」で源氏物語に触れ・・・・
要するに「知っている」わけです
「ルパン三世」も何で三世なのか、金田一少年も何で「じっちゃんの名」なのか・・・作者は大元になっている
作品をみんなが知っているという前提でタイトルを打ち、物語を書いているのです。
当然「ベルサイユのばら」も初演当時から、観客が原作を読んでいる事を前提として脚本が書かれています。
40代以上のヅカファンなら100%読んでいるし、セリフの一つ一つがしっかりと頭に刻み込まれ
つじつまの合わないシーンも脳内で原作を開いてしのげます。
では、30代前半から20代、10代はどうなんでしょうか?
「ベルサイユのばらを見に行くんだから、読んでおきなさい」とお母さんに言われても早々読むもんじゃないです。
私達世代では信じられないけど、「ベルサイユのばら」全10巻は、今時の人達にとっては「古典」のごとく
話が難しくて長い。意味を理解する事が大変だ・・・という事実があります。
初演版はともかく、再演されればされる程、「原作を読んでいないとわけがわからない」展開になっている
この舞台。
今回の演出は鈴木圭。
彼は、前回の脚本をもとに、場面場面のつじつま合わせの為に、説明セリフを大幅に増やしました。
そりゃあもう植田先生の有名な「説明セリフ」どころの話じゃなく、橋田壽賀子並のセリフの量になってます。
そもそもアンドレが最初から目を悪くしているという前提で、その説明をオスカルが「ベルナールが傷つけた」
と説明させるわけですね。
何でどうしてベルナールが?という説明は一切なし。その後の場面ではベルナールが「オスカルは恩人だ」というので
すが、そこの説明はなし
ル・ルーなんて、原作の外伝を読まないと「誰だ?」って話でしょう?
(「ベルばら」本筋は9巻で終了してるし)
その彼女を説明するのに「お前がオスカルの姉上のオルタンス様の娘でなかったら」というセリフを言わせる。
こうなると、おばさまたちはわかっても、若い人には理解不能な作品で。
それを「名作」だからと上演されて、わけわからなくてもいいから、とにかく「ベルばら」の雰囲気を楽しめと
言われても・・・・・名作の晩節を汚しまくりなんですが。
だから、事前にアンケートをとるべき。年代別に。
・ あなたは「ベルサイユのばら」を読んだ事がありますか?
・ あなたは「ベルサイユのばら」の中のセリフを全部覚えていますか?
・ あなたは「ベルサイユのばら」の登場人物関係を全部わかっていますか?
って。ストレートプレイのカンパニーみたいに、「知っているから見る」というのではなく
「知らないけどみないといけないからみる」のが宝塚であれば・・・・・
やっぱりそこらへんはねえ。
タイトル替えたら?
緞帳のピンクキラキラとオープニングのまっピンクきらきらシーンは素敵でした
年甲斐もなくわくわく。やっぱり私はそういうの、好きかもーーって。
でも、「ベルばら」らしかったのはそこまで。
子供時代のオスカルとアンドレシーンを抜いたらほとんど衛兵隊の場面ばかりで。
ゆえにタイトルを変えたら?って思いました。
ズバリ 「ベルサイユの衛兵隊」
だってー気が付けば衛兵隊のシーンばかり。印象に残る事といったら
衛兵隊士には3食給食があるのに全員栄養失調
ブイエ将軍のオスカルいじめ
これだけ
原作を誇張しすぎ。(原作ではディアンヌが持ち帰っていたんですよね?)
その時のオスカルはただ何もしてやれないと無力感にさいなまれるのです。貴族であるゆえにそれが限界。
でもこちらのオスカルは「私の責任」と謝っちゃう これは脚本家の思想なのかもしれないけど、18世紀には
ありえない思想です。
そういう風に謝る事で、さらに「上から目線」を助長している事に気が付かないかしら?
そうなると「衛兵は貧乏ならオスカルもあんな軍服着ているのは変じゃない?」ってな話になって。
「ベルサイユのばら」におけるオスカルの役割というのは、アントワネットに代表される貴族社会と
衛兵隊やロザリーに代表される平民社会の「繋ぎ」なんですよね。
伝統的なフランスの貴族社会に属していながら、アンドレという平民を愛し、衛兵隊に属する。
一方でアントワネットの王族ならではの苦悩もわかるし、国王や王妃を敬愛している。
本人は立派な貴族で、だけどロベスピエールの思想に惹かれていく罪悪感も持っている・・っていう。
でも自分に正直にしか生きられないから、家族や階級と対立してしまう。
今時ありえない程馬鹿正直で直情的。考えすぎでうつ気質。常に生きづらさを抱えている人。
アンドレはその点、「オスカルを守る」というスタンスにブレがないので、安定感がありますよね。
オスカルの欠点を補うのがアンドレの役割。
なのに、再演される度に思う事は、このオスカルとアンドレの対比が見事に消えちゃってることです。
鈴木圭の思想
彼は自分が演出するにあたって、多分原作を読み、それから既存の脚本を読み、間にある矛盾点を
整合させる為に「説明」を多くするという手法をとりました。
さらにオリジナル性を出そうとしたのか、衛兵隊のシーンが多かったですね。
それが一見斬新に見えるかもしれないけど、間違っているのです。
なぜなら「ベルサイユのばら」はオスカルとアンドレ、アントワネットとフェルゼンの「叶わぬ恋」を
描く物語ですから、平民の貧困にあまりにも心を痛めるオスカルなんか見たくないんですよね。
さらに、オスカルは生まれつき軍人です。
「戦う」「戦争」という言葉をマイナス評価はしていません
ル・ルーが「戦争っておろかな戦いをする事でしょう?そんな所にお姉ちゃまが行くの?」
とかばあやが
「こんな事をさせる為にお育てしたのではない」などというわけがないのです。
憲法9条を守る平和主義に毒された鈴木圭ならではの日本人的な思想ですね。
戦争が愚かなら、それを仕事にしている軍人はなんだ?って話になるものね。
フェルゼンだって、オスカルが衛兵隊にいる事を知っているなら「王妃様を守って欲しい」なんて
いうはずがない。近衛兵と衛兵の根本的な違いをわかっていないのか?って話。
ロザリーが「あなたがたはお子さんがいるから・・・」と子供を守る為に戦闘に参加するなというシーンが
ありますが、これもまた平和ボケした日本的思想で、「レ・ミゼ」のガブローシュを見れば
当時の「子供」がどのように扱われていたか、よくわかるというものでしょう。
池田理代子のすごさは、物語を貫く思想に関して決して日本人ぽさを出していないという事です。
たとえウーマンリブ時代に誕生した女性の象徴がオスカルだったとしても、ジェンダーフリーではない。
そういう所が世界中で読まれている、本家フランスに認められている所以なんでしょう。
ああそれと。
ジャルジェ夫人が「オスカルが死んだらジャルジェ家は断絶です」というのも、ちょっと違うんじゃないかと。
オスカルが軍人を続ければジャルジェ家はオルタンスや他のお姉さまから養子をとらないといけないわけで
オスカルが死んでも生きてもそのあたりは同じ。
このジャルジェ夫人の言葉はオスカルが結婚して子供を産むという前提で発せられたセリフだと思いますが
ジャルジェ夫人はそこまで考えていないんじゃないかと。
まして、戦いに出なくてもアンドレとの身分違いの恋という問題が立ちはだかっているので、容易にジャルジェ家
云々は言えないと思います。
植田先生の呪縛
さて、若い鈴木圭としては、色々自分らしさを盛り込みたいと思いつつ、それはあくまで1幕目の
ブイエ将軍のオスカルいじめあたりまでの話。
あの1幕の切り方もあまりにへんてこで、到底認められないと思うけど、2幕に入ったらほとんど
脚本に手をいれられず、そのまんまの形で・・・・ガラスの馬車が宙を飛んだ!という話に。
大御所、植田先生の脚本に手をつける事は許されなかったという事ですね。
でも、昭和の花組版はここまでストーリーが破たんしていなかったですよ。
非常にまとまりがあったし、長谷川一夫演出は見事でした。いつも長谷川演出と言うと
「今宵一夜」の型芝居ばかり取り上げられるけど、一番の功績は、バスティーユの橋で。
今よりもずっと高い橋の上にアンドレが乗ってて死ぬ時はその橋が盆で回って中央に来るという・・
非常にドラマチックな演出だったんですよね。
あの橋があったからその後のダンスが生きるというか。
オープニングの華やかさも昭和版が一番です。
再演すればするほどに劣化していくのは、植田先生がその時々のトップに合わせて脚本を書き換え
整合性のないものにしてしまっているから。
大衆芝居というのは「見せ場」オンリーの芝居です。
例えば昭和版でいえば「マリーアントワネットはフランスの女王ですから」という1幕ラストのシーンが
一番の見せ場。次にポリニャック夫人の「文句があるならベルサイユにいらっしゃい」が来て、黒い騎士のシーンや
ベルサイユ庭園でのアンドレの一人語りがあったり、「今宵一夜」があったりと、
それぞれの見せ場があるので、ストーリーなんかどうでもいい域に達していたのかもしれません。
それらは植田先生の功績というより長谷川演出の功績だったんだなあと思います。
ところが長谷川一夫が亡くなってしまい、「ベルサイユのばら」は完全に植田先生のものになった。
こうなったら元々は自分が書いた脚本だし、やりたい放題になりますよね。
平成版になると、見せ場などおかまいなしのツギハギだらけの作品になっていきます。
橋も動かなくなり、ポリニャク夫人もロザリーもどんどん役が低くなり、やがて消え・・・・
その代わりどうでもいいような子供時代が入ってくる。
植田先生が直接演出しなくなるとその傾向はよけいに強くなり、今や「手を加えるわけにはいかない作品」
「恐れ多すぎてひれふす脚本」になっちゃった
でも、シェイクスピアの作品だって、今はそのまま上演は出来ないし。
時代に合わせて原作をチョイスし、新しく作っていくことも重要なのではないかと思います。
残念ながら植田先生が御隠れになるまで、それは出来ないんでしょうけどね。
今回のように「ベルサイユの衛兵隊」になってしまった背景には、そこしか手をつけるわけには
いかなかった鈴木圭の苦しい胸の内があるような気がします。
鈴木らしさが出たキャラとして星条海斗が演じたアランがいます。
アランは今風の言葉を使い、鈴木風「ベル衛」の象徴的な存在でです。
アランがアンドレの目の事を仲間に知らせ、最後は訓練を始めるというシーンは、共感できない
この作品の中で唯一泣けたシーンだったと言えます。
それだけに仰々しいオスカルたちの言葉遣いとアランの現代的な言葉遣いが変にまざりあって
違和感があった事も事実。
ここまでが限界でしたね。