見たいけど立川は遠いなあ・・・
貞明皇后の被災地訪問写真を公開へ
宮内庁は90年前の関東大震災の時、被災地を訪問する貞明皇后の写真を公開する事に決めた。
9月1日から昭和天皇記念館で開かれる企画展で展示される。
写真の一部は こちら
写真は1923年(大正12年)9月29日。上野で撮影された。
皇后の周りには被災者の女性や子供が。皇后が提案して作らせた宮内省巡回救療班やバスが写っている。
江戸時代までのお妃の役割は、それこそ「子供産む」だけの存在でした。
外国の王室のように必ず正妻が産む必要はなく、側室の子であっても男子である事が重要。そういう意味では
中宮や皇后に対するプレッシャーは、他の王室程強くはなかったのではないかと。
側室の子でも正室の子とされるわけですから。
近代に入ると、まず昭憲皇太后が赤十字を立ち上げたり、女子教育に力をいれたり、養蚕を始めたりと
「世継ぎを産む」以外の役割を担い始めます。
天皇の妃として公務に同行する・・・という事を始めたのも昭憲皇太后です。
昭憲皇太后は結婚当初から体が弱く、世継ぎが出来ない体でした。それゆえにお子は全て側室が産んだわけですが
内心、どのような葛藤があろうとも全てのお子を「ご自分の子」としてお育てになりました。
特に大正天皇などは、昭憲皇太后が実の母ではないと知った時に、悲しくて泣いた・・・という話も残っています。
思えば、昭憲皇太后の名は美子(はるこ)、大正天皇の称号は「明宮」(はるのみや)です。
明治の明と書いて「はる」と読ませる所が、昭憲皇太后への並々ならぬ気遣いがうかがえますよね。
近代において、「キャリアウーマン的なお妃」の原型が昭憲皇太后とすると、貞明皇后はそれに輪をかけた存在でした。
なんせ、ご自分の夫には一切側室を近づけず(天皇の世話は全部自分がやった・・・らしい)
4人の皇子を産む。 病弱な天皇に変わって公務を引き受けつつ子育てにまい進し、宮中の伝統やしきたりを「これでもか」と
いう程きっちり守る。そして、当時、被災地訪問に皇族が行くという事自体、ありえなかった時代、それを始めたのが
貞明皇后という事になるのです。
竹田恒泰が「皇后に公務の義務はない」だの「夫婦そろって公務をやるのは平成流」だのって言うけど、すでに明治の頃から
今のような形は出来上がっていたのです。
貞明皇后はさらに灯台守に非常に関心を示し、僻地で頑張る彼らを慰問し続けたという話もあります。
香淳皇后の場合、ご結婚から15年にわたって出産を繰り返していた為、際立った「仕事にまい進する妃」のイメージは
ないかもしれません。でも、その代わり「世継ぎ」誕生の為に、側室を持たない為に、きちんと努力をされました。
戦後は昭憲皇太后や貞明皇后から受け継いだ養蚕や赤十字の仕事を続けてこられました。
つまり、文句を言うなら成果を出せという事なんですよ。
「前の〇〇はやってないから自分にはやる義務がない」だの「プレッシャー」だのって言い訳ばかりして、少しも実をつけない
現皇太子妃。それで学歴と外務省勤務だった事ばかり自慢されても、全く賛同できないです
貞明皇后は、学習院の中でも非常に色黒でお転婆娘でちょっと問題児だったみたいですよね。
九条家出身と言いながらも、母親は側室だったから小さい頃は里子に出されていたそうですし。
大正天皇には小さい頃からいいなずけがいたのですが、彼女が「肺」に疾患があるとされ、突如キャンセルに。
そこで再びお妃選びが始まり、最後の最後に「体が丈夫だから」という理由で選ばれたのが貞明皇后。
はっきりいって、氏も育ちも見た目も学力も関係なく、体の弱い皇太子には丈夫な妃を・・という明治天皇の英断だったと
思います。
その思惑通り貞明皇后は4人の親王を次々産んで「あっぱれ」と言われ、元婚約者の方は別な方とご結婚したものの
子供は出来なかった・・・という顛末。これぞ「神の手」だと思いませんか?
貞明皇后にも家柄コンプレックスはあったと思います。それは昭憲皇太后も一条家の出とはいえ、側室腹ですし、
なさぬ仲の母などがいて、それなりに苦労した事と思います。
貞明皇后は特に野育ちというか・・・色黒で美人じゃないというコンプレックスもあったでしょうし。
でも、個人的な思惑はさておいて、自分が産んだ皇太子妃には久邇の宮家の良子女王という、自分より身分が上の女性を選んだ。
秩父宮妃には会津松平家を、高松宮家には徳川家を・・というように、旧幕府側で「朝敵」とされた家から妃を貰って
融和をはかろうとしたのです。
残念な事に秩父・高松には子供が生まれなかったけれど、良子女王は沢山の子女に恵まれました。
昭和天皇が美智子妃を許した背景には「血族結婚」への危惧があったいう事も言われています。
香淳皇后がもう少し、おおらかな気持ちで美智子妃を受け入れていたら旧皇族方もあそこまで強固な反対を
しなかったかもしれませんよね。
今回、このような写真を公開される事で「働く妃殿下」「国民に寄り添う妃殿下」という役割は決して平成流などではなく
近代皇后の歴史においての「義務」である事がわかります。
その根底には、2000年続く皇室の役割である「祈り」があると思います。
祈りでどうにかなるのか・・・と言われたら何も言い返せませんが、それでも国民の安寧を祈る事、国の栄を祈る事が
皇室の一番大事な役割であり、被災地訪問や赤十字活動は、その「祈り」を体現するといった意味があるのです。
現代の皇后には2つの義務があります。
世継ぎを産む事
「祈り」を体現する事
です。その為に最新の医療体制を無料で受ける事が出来るのです。
昭建皇太后のように、よそに産ませた男子の「母」になるか、自分で世継ぎを産む選択をするか・・・
そのどちらも拒否し、祈りもせず、「昔、仕事をしていた自分」「学歴が高いと言われた自分」ばかりを盾に
国民を振り回し、迷惑をかけるお妃は「不適格」と言われても仕方ありません
だけど、昔とちがって今は「離婚」の自由があるのです。
幸い、お世継ぎは秋篠宮家に授かりましたし、紀子妃は2つの条件をしっかり満たしています。
雅子妃が皇室から出ていっても誰も困らないし、残念にも思いません。
50歳を機に、新しい人生を民間で始めていかないと、「幸せだったと思える人生」は手に入りませんよ。
「恨」を抱えて生きる事に何の意味があるでしょう。