夏休みの「課題」企画、結構好評なので続けさせて頂きます。
夏はお勉強しつつ遊ばなくちゃね
先に「東宮家の現状は誰の責任か」という問題提起をいたしました。
その結果、沢山の意見が寄せられ、おおむね「両陛下に責任があるのではないか」という事になります。
その理由として
皇太子夫妻の非常識な行動や態度を叱責できないから。
皇太子夫妻の非常識な行動や態度を止める事が出来ないから。
皇太子夫妻を庇うような言動が多いから。
です。
一方、「両陛下の責任ではない」「そう思いたくない派」の方たちの理由は
50を超えた「大人」の言動や行動に80歳の親の責任を問うのは間違っている
結婚するまで皇太子は「普通」だった。ゆえに配偶者である雅子妃が全面的に悪い(小和田家も)
皇太子夫妻の結婚を黙認した国民にも責任があるのではないか
です。
どちらの意見も正しいのです。でも視点が違うんですね。
前者は問題の根本は皇太子の誕生、あるいは今上の結婚、ひいては戦争にまで遡って考えます。
後者は、あくまでも「結婚後」の皇太子夫妻に焦点をあてた考え方です。
その後、「誰にどう訴えかければ東宮家の現状を変えられるか」という問題提起をしました。
みなさん、一番は「安倍総理にメールなり投書なりして訴えて行く」「宮内庁にメールを送る」等の意見が
多かったと思います。
正直、庶民の私達にはそれしか出来ないというのはあります
そうはいっても、3月に突如小和田恒氏が安倍総理に会い「政府専用機を貸せ」と言われた時、たった7分の
面談ではあったけど断れなかった事からすると、安倍総理に期待するのは無理なのかもと。
私達は東宮家の惨状を「日本の未来に関わる事」であると思い、色々議論したり葛藤したり、悲しんだりしている
わけですよね。勿論、個人的に交通規制を受けたり学習院の学友達のように直接被害をこうむっている人達も
いるわけですが。
しかしながら、天皇・皇后両陛下ないし宮内庁はこれらの問題を「私事」ととらえているのではないかという疑問が
わきます。「天皇家という一家の問題」として処理するなら、東宮家問題はただの「本家と後継ぎの喧嘩」とか
財産争いのような下世話な話になってしまう。
本家本元がそうとらえている場合、私達は口を出す事は出来ません。
長男夫婦が家業をさぼって遊んでばかりいる。それも家の金を使いたい放題で。
次男一家はそんな長男夫婦が作った借金を自転車操業しながら返済している。
長男夫婦の一粒種の娘は障害があるにも関わらず、「健常」だと言いはってしつけや療育をさせないので
今や野生児状態。次男一家には将来の跡取りが生まれた。
しかし、金遣いが荒く、仕事をしない長男夫婦をなぜかかばい続け、模範的な次男一家には
「文句をいうな。黙って働け。後継ぎは長男に決まってる」と社長夫婦は譲らず、そのくせ「ちゃんと仕事を覚えてくれない」
と嘆く・・・・というような図式ですね。
問題なのは、普通の商家ならいいけど、この場合の「家の金」というのが税金という公金であるという事です
「税金」で暮らしているという事を人一倍考えている筈の両陛下が皇太子一家がそれを無駄に使う事は
許しているという矛盾が国民を怒らせるし、失望させるし、批判の的になってしまうのです。
ではそれは誰の責任か・・・・で前述したような結果が出たと。
そこで、さらに一歩踏み込むというか、過去をおさらいしつつ「なぜ今のような状況を招いてしまったのか」
という議論に移りたいと思います。
本来は戦前にまで遡って考えるべきでしょうが、そんな事をしていると夏休みが終わってしまうので
今回は「なぜ雅子妃は入内できたか」という事に焦点をあてて考えてみましょう。
公式には
昭和61年、スペインのエレナ王女のレセプションに現れた小和田雅子嬢を皇太子が見初める。
一か月後の日英協会のパーティでも顔を合わせる。
これによって浩宮の雅子嬢への恋心が燃え上がり、何度もプロポーズ。しかし、当の雅子嬢は外務省に入省
したばかりのキャリウーマン。東大に学士入学しオックスフォードに国費留学。
平成の世になり皇太子が「雅子さんではいけませんか」と申し出。宮内庁が動く。
足かけ5年とも6年とも言われる皇太子の求婚に雅子嬢、折れれ結婚を承諾。「皇室に外交しに行きます」と
鳴り物入りで乗り込む。
といった経緯です
一方で、
実は昭和59年の冬、オックスフォード留学中の浩宮がスイスのコルマールでスキーを楽しみ、その一行の中に
小和田雅子がいた。
この年、両陛下は誕生日会見で「結婚は早い方がいい」と発言。
という話もあるのです
コルマールの話が本当だとすると、両陛下はこの時点で皇太子が小和田雅子と結婚したいと思っている事を
ご存じであり、賛成していた・・・風にも感じられるのですが。
ここに・・・「ニュースパッケイジチェイス」という小冊子があります。
タイトルが「極秘取材メモから」皇太子妃はこうして決まる」
1990年に発行されています。
1990年といえば、秋篠宮が結婚するという事で空前の紀子さまフィーバーがあった年。
それにひっかけて「皇太子妃選び」についてあれこれと書いているんですね。
手のひらの中におさまるような小冊子がまだ我が家に残っていた事が奇蹟ですが・・・・
多分、某大型掲示板の情報源の中にこれも含まれているだろうと思います。
この本の内容についてはのちのち詳しくレポしますが、当時のお妃候補は
久邇晃子(旧皇族・皇太子のまたいとこ)ー学習院
伏見宣子(旧皇族・父はモービル石油部長)ー学習院
住友愛子(父は住友信託銀行役員、母は鷹司家)ー学習院
島津彩子(父は新日鉄、母は旧男爵家)ー学習院
坂本敦子(父は今上の学友、祖父は貴族院議員)ー学習院
草刈智子(父はサッポロビール幹部、母は一条家と伏見宮家の流れをくむ)ー学習院
渋沢肇子(父はソニー役員。祖父は子爵)−聖心女子
小林詔子(父は富国生命役員、母方は牧野伯爵の流れ)−学習院
古河美佐子(父は電工会社役員、祖父が男爵。母方は元閣僚)ー学習院
北野裕子(父は北野建設社長、母方は元貴族院議員」−聖心女子
清水美佳(父は清水建設部長、母は紀宮のピアノ教師)−学習院
三井智子(三井総家の出身)−学習院
服部聡子(セイコーの服部家)−聖心女子
三井史子(三井家の分家)−聖心女子
豊田由美子(トヨタ自動車家、母は皇后の学友)−聖心女子
三田麻紀子(父は日立製作所会長)ー聖心女子
小和田雅子(父は外務省外交官、父方はチッソ社長)
波多野真理(父は外務省、旧華族の流れをくむ)
吉野直子(父はクレディスイス信託銀行社長、母はハーピスト)
→ 旧皇族
→ 旧華族
→ 財界令嬢
→ その他
宮内庁が候補に挙げたお妃候補はざっと70人だそうです。その中でもマスコミに取り上げられた回数が
多い人が上記という事で、私も久邇、渋沢、三井、服部・・・の名前はよく覚えています。
ここで、「旧皇族」出身の女性が2人というのが多いのか少ないのか、どう思われますか?
旧華族が8名いますが、どれも祖父とか母方に華族がいるというだけで、鷹司とか
九条、一条という五摂家もいない状態ですね。
いわゆる昔から「お妃」を出す家柄からは、マスコミに取り上げられるような令嬢がいなかったという事なのか
早々に辞退してさっさとお嫁にいったとか?それにしても、今にして思えば不自然かなと。
旧皇族2人の中で渋沢さんはわりと早く消え、最後まで残ったのが久邇晃子さん。彼女は香淳皇后の実家の
家柄であり、母方は新興貴族の名門の家柄、さらに代々神宮祭主の家柄。この冊子には「保守派が最も賛成
する人」と書かれています。
本人も妃候補に挙がった時点で「覚悟」しており、マスコミに絶対に素顔を撮らせず、生活ぶりはいたって質素。
哲学を学ぶ才媛。昭和天皇が吐血して入院後、「早く浩宮の結婚を」という事で、婚約を急ごうとしたのでは
ないか・・・とみられたが、当の浩宮が乗り気でなかった為に外れる。
波多野真理さんの経歴はおおむね小和田雅子と似たような感じ。父親は現学習院院長で外務省国連大使。
いわゆる小和田派です。この冊子にはジュネーブに留学中の彼女を見る為に礼宮と紀宮がスイスへ公務で
行った・・・と書かれています。本人にその気がなかったので外れたと。
宮内庁は財界人の令嬢を早々にお妃候補から外したがっていたようです。なぜなら「会社の看板」を背負っている
女性は「万人に支持されにくい」と見たから・・・らしいけど、じゃあ、日清製粉社長令嬢の正田美智子さんは
どうなんだよーーとひとしきり
両陛下がイチオシだった女性が吉野直子さんだったと書かれています。
その理由が「父親が世界的なバンカーで母はハーピスト。彼女自身も天才的なハーピストである」から
ですが、それ以上に「外国暮らしが長い」事がお気に入りの理由にされているんですね。
要するに「外国暮らしが長い」≒国際性を身に着けている。語学力がある。+彼女の場合は財界でも政治でも
ない「芸術分野」の一人者という事で「万人の支持を得る」と考えられたのではないかと。
冊子には、数々のお妃候補が登場する事によってわかった点が2つあると書かれています。
1 東宮や若手の皇族、浩宮の周辺が考えるお妃候補には、官僚や学者の家族まで含まれている。
2 これからの皇族の役割として外交を重視する考えがあり、宮内庁も支持している。
この冊子がいわゆる左翼系だったとしたら、このように解釈するのも当然だろうなと。でも、当時はそれが
左翼系の考え方だとは誰も思っていませんでした。むしろ「国際性」(いわゆるグローバル)「語学力」「学歴」は
「出来る女性」の条件になっていたと思います。
いわゆる保守派としてこのお妃候補の人達を見ると、
血筋より学力・語学力・海外暮らしが重要視
旧皇族・五摂家などの旧華族との繋がりが薄い
いわゆる「皇室外交」重視、国内公務軽視の傾向が見える
多産系かどうかが重要視されない時点で「世継ぎ」問題を軽視
という風に見えてしまうのですが・・・・・
皇太子と小和田雅子の出会いについてこの冊子は、いわゆる今まで語られていた事を踏襲しています。
ついでに書くなら、高円宮が非常に協力した事。
雅子嬢の祖父が水俣病を出したチッソの会長であった事については
「元々銀行マンだった江頭氏は興銀からチッソに派遣されただけ」それが「三代にわたって汚点なし」
に触れるのはおかしいじゃないかと記者が詰め寄ったが、宮内庁は「必ず問題になる」と言ったらしい。
(問題になってますよねーー)
宮内庁が消極的な姿勢(反対したとは書いてない)の中、浩宮だけは結婚に向かってまい進したたそうですが
雅子嬢はオックスフォードに留学が決まって、話は消えたというのが1990年当時。
当時、お妃選考にあたっていたのは、東宮大夫、東宮侍従長、東宮侍従。
1980年代後半から外務省出身の東宮侍従が増えて行きます。
雅子妃入内の下地はすでにできていたのかもしれませんね。
それでも、この冊子に書かれていない事があります。
本当の所、両陛下は小和田雅子入内についてどう考えていたかという事です。
そして「3代にわたって汚点なし」の筈の規定が、どのように覆されていったのか。
なぜ、小和田雅子は皇太子妃になる事が出来たのか。
若い方は想像して欲しいし、私達と同年代の方々はあの頃を思い出しつつ考えてみてください。
「なぜ両陛下は小和田雅子入内をお許しになったのでしょうか」と。