みなさん、色々ご意見ありがとうございます。参考になります。
過去を振り返る作業は非常に面倒だし、忘却の彼方に記憶が飛んで、なかなか難しいなと。
でも、未来を語るにはまず歴史から。
ごく最近、「東宮家は変じゃない?」と思われた方にも、わかりやすく書いていけたらいいなと思います。
私がなぜ、「入内の経緯」に拘るかというと、外からも内からも「不適格」そのものだった小和田雅子さんという人が
いともあっさり皇室に入ってしまった事、これを明らかにしないと皇室から出て行ってもらう方法が見つからない
のではないかと思うからです。
特に「なぜ入内阻止できなかったか」と問われた時、誰もが「両陛下がダメと言ったらダメだったんじゃないのか」と思うでしょう?
ダメと言ったのにそれを乗り越える何かがあったのか、それとも両陛下自らが招き入れてしまったのか。
今もそうです。
「東宮家の異常行動を許しているのは誰か」と問うた時、本人達だけなのか、東宮職なのか
宮内庁なのか、それとも両陛下なのかで、対処が違うでしょう?
はっきり言って、入内阻止出来なかったのに別れさせる事が出来るのか?と疑問に思う事もあります。
だって、あれだけ「不適格要素」がありながら・・・・ ループ状態。
皆様からの意見を集約すると両陛下が雅子妃入内を許したのは
皇太子の意思を尊重したから
両陛下自ら「小和田雅子でいい」と思ったから
両陛下は「私情」を大事にされた。
見えない力に脅された
外堀を埋められた。
って事ですよね。
息子の意思を尊重した両陛下は20年経ってもそういう態度なのかなと思うし。
はっきり言って、両陛下が動かなければ東宮家はこのまま即位するし、そうなったらもう誰も止められないでしょう。
ではどうやって両陛下の目を覚まさせたらいいのか・・・・という話になるのですが。
その前に
先に提示した資料1990年4月に発行されたニュースパッケージチェイスに沿って、「経緯」を見て行きましょう。
買った当時はわからなかったのですが、今読み返してみると、これを書いた記者は、「今年中に小和田雅子で決定」
と見ている節があり、その伏線としてこれを書いたのではないかと思われるんです。
理由は
やんわりとした礼宮批判
皇太子妃の選定条件の曖昧さを突く
皇太子の意思こそを尊重すべきと書く
そして「多分年末に決まるだろう」というような予測を書いています。
そして、記者自身、これは意識的かどうかわかりませんが皇后に対し「美智子さん」という書き方をしています。
早い話、皇室に対する崇敬の念は一つも持っていない・・・ある意味、小和田家と似たようなメンタリティなのか
なと。
という事で、第一章から主要部分を抜き書きしてみますね。
第一章 空前のブームをもくろむ政府
天皇家の次男、礼宮と婚約した川嶋紀子さんは、宮内庁の予想をはるかに超えるブームを巻き起こした。
89年を代表するマドンナとして1位に輝く紀子さん。紀子さんの納采の儀は民放キー局が生中継。
「結婚式は1日中放送するんじゃないか」宮内庁詰め記者達が首をかしげる程のフィーバーぶり。
礼宮でこんな騒ぎなら皇太子の時はどうなるんだろう。
女性週刊誌は「5月婚約説」を唱えるが、それはありえない。
皇位継承順位代位の皇太子のお妃選びは2位の礼宮に比べて何倍もの厳しい条件を満たさねばならないという
事情が。そのうえ、紀子さんが先に登場してフィーバーを巻き起こした事によって「紀子さんと同等か、出来れば
彼女を上回る女性でなければならない」という厳しい条件も新たに加わってしまった。
皇室制度は国家の基本問題というのが政府の変わらぬ位置づけである。
次の皇后陛下となる事が確実な皇太子妃の選考にあたっては目立たないけれども首相官邸を中心と
する政府が大きな役割を担っている。
彼らの皇太子妃選びの姿勢は象徴天皇制をいかに維持していくか、が基本だ。
この観点から政府は、平成2年中に皇太子の婚儀までを行う事に消極的だ。
皇室の冠婚葬祭は象徴天皇を国民の意識に定着させていくうえで、極めて重要な要素だ。
古くは皇太子と美智子さんのご結婚によって新しい皇室像を一気に広める事が出来たし、平成元年は
昭和天皇崩御から大喪の礼に至る様々の儀式に散って戦後世代に対しても天皇制を強く印象づける
事が出来た。
大嘗祭・即位の大礼は国と宗教の関わりで世論の対立があるから皇族の慶事で盛り上げたい。
礼宮の婚儀は6月に終わるので、皇太子妃決定を大嘗祭の前に発表して祝賀ムードを一気に
広める事が出来れば世論を一元化出来る。
・ 宮内庁記者会は何でこんなに川嶋紀子嬢が人気なのかわからなかった?
・ 政府としては象徴天皇制を定着させるために皇太子の結婚を利用したいと思った。
・ 大嘗祭前に発表、平成3年結婚がほぼ決まり?と思っていた。
実際にはこの時期、まさに6月に小和田雅子氏は学位を取れずに帰国。外務省勤務。
本当にこの年に決めたかったとすると、2年も遅れをとったわけで・・・外務省出身官僚を使って
強引な鴨場デートや、電撃的な「婚約スクープ」は、焦りの上の手口だった事がわかりますよね。
かつて、皇太子と正田美智子さんの婚約・結婚が「開かれた皇室」の代名詞になり、国民は大々的に支持
したなんですよね。誰も疑問に思わず。
「開かれた皇室」とは何だ?という疑問は昭和の時代からあったけど、黙殺されて議論されませんでした。
今時の若い人達には全くわからない言葉だと思うんですが、「開かれた皇室」の対極に「菊のカーテン」があり
今まで庶民が知るよしもなかった、皇太子一家のプライベートな暮らしぶりの公開とか、「普通」の子育てとか
自由に買い物をしたり遊んだりする姿を流す・・・イギリス王室風なイメージでしょうか。
浩宮を乳母抜きで育てる事、入学式や卒業式に夫婦で出席する事、軽井沢でのゴージャスな静養、これらは
全て「開かれた皇室」の象徴でしたね。でも批判されなかったのは、日本が高度経済成長時期であったことと
昭和天皇のカリスマ性に守られていたこと、皇太子夫妻はプライベートでは非常に質素倹約を旨として
生きていたから(浩宮と礼宮の学習院の制服やランドセルは陛下のお下がりだったり・・・)
そして平成になり、皇太子の結婚は「象徴天皇制」を位置づける為の慶事であるというんですね。
ここでいう所の「象徴天皇制」は、多分、「華麗なる皇室外交」「欧米化した暮らしぶり・・イギリス風」
世の中、男女平等と声高に言われてキャリアウーマンがもてはやされ、人権意識が高まり・・・
日本人が少しずつ日本人らしさを無くしていく過程で、川嶋紀子嬢の出現は、左翼の人達には脅威
だったし、小和田雅子の登場は願ったりかなったりだったのかも。
時世がどうであれ、「皇室」の根本を本能的にわかっていた礼宮が選んだのが川嶋紀子嬢で、
時流に流された皇太子がこだわったのが小和田雅子だったという事でしょうか?
第2章 礼宮婚約の波紋
ダイニングキッチンの納采の儀。カーテンで流し台とガステーブルを隠し、金屏風を置き、
真新しいカーペットを敷きつめてはいる。だが、ひらたくいうと、台所兼食堂が紀子さんが皇室に入る
最初の儀式の場となり、天皇のお使いはそこで皇位継承順位第2位の親王妃となる方へ
「結婚の約をなすため」と物々しい口上を述べたのだった。
「土地付き娘」「資産家令嬢」が「お嬢様」とすると、紀子さんは「お嬢様ではない」し、「上流社会の人」でもない。
その代わり彼女はただの土地つき娘にはないものがあった。
あえて家の中にテレビを置かず、会話を大切にしようとした程の家族の結びつき。学者である父親のもとで培われた
知的な性格。中学生まで欧米で暮らす事で身に着けた本物の国際性。そして両親がはぐくんだつおおらかさ、つつましさ。
3LDKのプリンセスは国民に支持された。
宮内庁は、礼宮と川嶋紀子さんの婚約が国民に受け入れられるとは必ずしも信じていなかった
3LDKのプリンセスとして印象付けられ、その上で支持された事で皇太子のお妃候補の対象が大きく広げられるだろう。
「資産家の令嬢でなければ」−これまでの親王妃を見ると、例外なく実家から経済的援助を受けている。
美智子さんが皇太子妃になった後、実家の正田家がひそかに援助した額は、当時の金額で計2億円を超えているという。
礼宮が川嶋紀子さんと結婚したいと思っている事は記者会も知っていたが、資産的に現実化するか疑問だった。
「学生のくせに」礼宮への批判。
「はしゃぎすぎだ」「まだ学生の分際でありながら」という批判が少なからず沸き起こった。
東京のある私立大学で共感が語学クラスの学生に「礼宮の婚約をどう思うか」と質問した所
約40人の学生のほどんとが川嶋紀子さんについて「好ましい」と答えたのに対し、礼宮については全員が
「わがまま」「利己的」などと批判したという。
普通の国民は、学生時代に婚約したり、卒業してする結婚生活を続ける事は難しい。税金で養われている身で
ありがなら、学生のくせに婚約したり、留学先へ婚約者を連れて行くなんて許せない(当時そういう噂があった)」
というのが、クラスの代表的な意見だった。
礼宮が婚約を急いだ理由は、兄の皇太子がお妃選びが難航しそうで自身の結婚は何年も待たねばならなくなると
判断したことだろう。
宮内庁は国民の間にわだかまるこうした批判を重くみた。
「卒業してから結婚するのであり、むしろ公務にプラスになる」と批判をかわす一方で、紀子さんが婚儀で着る
十二単衣を新調せず、常陸宮華子さんから借りる事にしたり、かつて職員宿舎である鷹司和子さん宅を
当面の新居に充てるなど、つつましい結婚生活を演出する配慮を示した。
つつましく華美にわたらないことは皇太子の結婚についても宮内庁の基本方針となる。これも礼宮婚約の
波紋といえる。
喪中でありながら・・右翼の批判
昭和から平成に変わる時、右翼団体の宮内庁批判が先鋭化している。平成元年に天皇が相続税を納税した
事に「天皇を国民と同列に扱うとはもっての他だ」と反発。大嘗祭も「国家行事として行え」と要求。
そんな右翼が「昭和天皇の喪があけていないうちに、慶事をすすめるのはけしからん」
「弟が兄に先んじるのは皇室の伝統を乱す」宮内庁に乗り込んで主張。
藤森宮内庁長官、山本侍従長は「伝統尊重派」で「この時期の礼宮の婚約は皇室の伝統にそむく」という
批判はそれなりに受け止めたものと思われる。
皇太子のお妃選びが次第に「伝統尊重型」に移りつつあるように思われ、それが保守派も含めた礼宮の婚約への
批判、不快感の表明と無縁でないと感じる。
頭がこんがらがってしまいました。
保守派から見ると礼宮の結婚は「批判」の対象になっている?嘘ーー 逆じゃないのか?と。
確かに当時、「昭和天皇の喪中であること」「兄より弟が先に結婚すること」「学生結婚であること」に対して
批判があったのは確かです でも主に女性週刊誌だと思うけど。
礼宮が結婚を急いだ理由は、「兄の結婚がするに決まるとは思えない」とされているので、皇室内ではこの当時
小和田雅子の名前は完全に消えていたし、両陛下もOKしているわけではなかったんでしょう。
無論、小和田雅子当人も皇室に入る気なんてさらさらなく・・・といった所?
他の理由としては、「紀子さんが魅力的で、早く結婚しないと他の人に取られる」と助言された…この場合の
他の人とは皇太子。皇太子妃候補にされたらたまらないと思ったのか?
さらに、即位の大礼に「妃」が必要であったこと。
紀子妃は結婚後数か月で即位の大礼に筆頭宮家の妃として皇后の後ろを歩いていたわけです。
思えば、あれだけの才女で可愛い川嶋紀子嬢が皇太子妃候補としてノーマークだったというのが
何ともおかしくて。まあ、さすがの皇太子も弟の彼女をとるわけにはいかないし?
両陛下は礼宮が結婚を申し出た時「長幼の序」があると言って説得しようとしたと言われています。
それに対して礼宮は上記のように「兄がいつ結婚するかわからない」という理由を述べているわけで。
皇室の伝統に則れば、早い結婚は望ましいのではないかと思うのです。
本当に保守派が礼宮批判をしたとは思えないのですが。
さらに私立大学でアンケートをとったという・・・意図的、作為的な貶め行為だなあと思います。
そして「十二単衣」が常陸宮妃のものって・・・新調したんじゃなかったっけ?と。
職員宿舎はひどいなあと思いました 正直、秩父宮妃が気の毒がって「私の邸を譲る」とおっしゃって
下さらなかったらどうなっていたかと
21世紀の私達からみると、礼宮の結婚はどこまでも皇室の伝統を尊重した正しい結婚だったと思うのですが
90年代は「伝統を打ち破る新しい結婚」と解釈されていたんですね。
川島紀子嬢の出自や経歴が「伝統的」では困ると左翼は考えたのでしょう。だから学生結婚である事やら
喪中だーと騒ぎ立てて殊更「やんちゃな礼宮のわがまま」風に描いたのだと思います。
それに乗って、十二単衣を借り物にしたり、職員宿舎をあてたり・・・なんて事を両陛下が指示したのだとしたら
本当に厳しい措置で
のちに甘やかし放題の皇太子夫妻への待遇と比べると何で・・・・・って思いますけど。
両陛下にとって礼宮とはそんな存在だったんでしょうね。
お浄めに古い映像を・・・・思い切り泣いて下さい。
<!-- 秋篠宮夫妻 -->