ふう・・・・と、ツツミは煙草に火をつけた。
静かな研究室の外に出ると、学生たちが行きかうざわめきになる。
男女の比率は・・・どうでもいいが、彼らの中から何組が結婚して子供を持つのか。
何組不妊症になり、何組不妊治療を受け、何組子供に恵まれるか。
こんな時代が来るとは思わなかったろう。
結婚すれば子供が生まれる・・・筈なのに「出来ない」苦しみを抱えるとは。
どういうわけか不妊の確率は上がっている。晩婚化のせい・・だけとはいえない。
健康な20代でも不妊症にはなる。
そんな彼らの力になる為に、というよりはこれは名誉欲か。
いわゆる「試験管ベビー」が誕生してから幾星霜。不妊治療も発展し
費用の高さと患者の苦痛を除けば普通に受けられるものになった。
ツツミが目指しているのは、それでも産めない場合の究極の「神の手」であった。
「こんな所にいらしゃったのですか」
秘書が呼びに来た。最近買ったばかりの携帯は研究室に置きっぱなしにしていた。
「宮内庁の方がお見えで」
秘書は声を潜めたのでツツミは黙って立ち上がり、応接室に入った。
東宮大夫だった。こんな大物が一人でこんな場所に・・・
「お待たせしたようで」
二人は椅子に向かい合ってすわる。秘書がお茶を運んできた間だけ東宮大夫は
黙っていた。
しかし、秘書が消えると
「一体、いつまで待たせるんですか」といきなり言い出す。
「あなたが東宮御用掛けになってもう何か月でしょうか。妃殿下はちっとも
懐妊なさらない」
「ええ。そうですね」
ツツミは頷く。
「あなたがその道の権威だからこそ、お願いしているんじゃありませんか」
「わかっています。ご期待に副えず申し訳ありません。しかし、こればかりは
いくら医学の力を以てしてもほぼ神頼みである事はあなたもご存じの筈。
妃殿下は何度試してみても、すぐに流してしまわれる。これはもう体質か
あるいは・・・不摂生のせいとしか」
「不摂生ですと?」
「例えばタバコ。例えば酒。妃殿下は規則正しい生活をしているとは思えません。
カロリーの多いものばかり召し上がり、喫煙に飲酒、さらに昼夜逆転の生活。
そうかと思えば、スキーで一晩中滑ったり。とても不妊治療中の女性とは
思えない生活ぶりです」
「それは・・・」大夫は口ごもる。
「ご公務が忙しいのでストレスがたまり、たまにはスキーだって。お酒もまあ・・」
「皇太子殿下の飲酒も問題ですよ。あれはたしなむなんてもんじゃないでしょう。
あんなに飲んだら・・・悪いが、夫婦生活は」
「ツツミ先生!」
大夫の形相が変わった。しかし、ツツミは構わなかった。
いくらことらが努力したとて、夫婦して真逆の行動をしていたら子供なんて
出来るもんじゃない。もしかしたら皇太子夫妻は子供はキャベツ畑で生まれると
思っているんじゃなかろうか。あるいは本当にコウノトリが運んでくると信じて
いるとか?
あの子供のような顔の皇太子を見て、とてもとても男性的な魅力を感じる事は
ないだろうとは思うが。しかしながら皇族にとってそれは義務だ。
「弟宮に産んで頂いたら?あちらの方は姫様を2人産んでいらっしゃる。3人目
不妊だとしても、皇太子ご夫妻を治療するより簡単じゃないでしょうか」
「それはダメです。何が何でも絶対に」
東宮大夫は声を落とした。何やら怯えているようですでもあり。
そもそもこんな場所まで単独で来るという事自体、追い詰められている証拠では。
「何か言われたんですか?陛下に」
「陛下は何もおっしゃらない。だが・・陛下なんかよりもっと怖い人がいるんでね」
それが皇太子妃の父だという事は容易に想像がついた。
「とにかく、妃殿下は今年は38歳になってしまう。そしたらタイムリミットでしょう。
何とかならないのでしょうか」
「たった一つ、手が・・なくもない」
ツツミの言葉に東宮大夫は椅子から乗り出した。
「どんな手があるのです?」
「顕微授精です」
「顕微授精?普通の体外受精と違うのですか?」
「ええ。一個の卵子に精子を直接注入する方法です」
「確率は」
「まだ実績としてはなんとも。一個の卵子に一個の精子を受精するわけですから
確率が低いともいえる。でも、成功すれば確実です。ただ費用がかかる上に
時間もかかる。また障碍などのリスクも高くなります」
「・・・・・」
東宮大夫は黙り込んだ。沈黙が流れる。
ツツミはちょっと気の毒になった。側室制度がない今、皇太子夫妻にかかる
世継ぎのプレッシャーは半端ないだろう。可哀想だとも思う。
でも、本当に「世継ぎ」の事を心配するならもっと早く不妊治療を始めるべきだったし
そもそも女性の年齢を考えて結婚すべきだった。
皇太子妃は結婚前のブライダルチェックを拒否したとか。人権蹂躙とのたまったと
いうのは産婦人科学会では有名な話。
当時は、女医達もその卵達も「当たり前よ。今時ブライダルチェックってバカじゃないの?
男にだって責任はあるんですからね」と言っていたような?
無論、皇太子にもその検査は必要だったかもしれない。今ほど発達していたら。
でも、最近では彼女達の意見も変わってきている。
「自分の体を知らずに歳を重ねて、今頃不妊だーどうしようーと慌てる
人が多い。妊娠には適齢期というものがあるのに、それを無視して仕事を優先し
十分に人生を楽しんでから子供が欲しいなんて思っても遅いと思う」と。
ゆえに、子供というのは産める時に産むべきだし、きちんと自分の体を知る事も大事だと。
でも。皇太子妃の心はいまだ10年前と同じようだ。
ツツミも正直、うんざりしていた。
治療の度に恨みがましい顔をして、屈辱千万という目つきで見る。
普段、必死に子宝に恵まれたいという思いの夫婦しか見ていないので、
皇太子妃のこの態度は異様で慣れない。
治療が失敗する度に自分を責める妻と慰める夫ばかりみて来たので
「何で私ばかり・・・」とつぶやく妃の態度には慣れない。
「とにかく、それしか方法がないならそれでお願いします」
「費用はどうなさるのですか?まあ、この件は私には関わりないのですが
でも、事務方の話を聞くと」
「それはあなたが心配することではありません。皇太子妃が懐妊する事。
それは国家の大事な仕事なんですから」
それもそうだなとツツミは思った。
世の中の不妊治療夫婦はどこで終わらせるか・・・それは費用をねん出するのが
難しいからだ。どこかで諦めないといけない。
でも諦めたら負けになるんじゃないか。次はうまくいくかもしれないし。
そうやって破産寸前になった夫婦だっている。
まさにギャンブルのようだ・・・本来、子供が授かる授からないは神の領域。
昔なら簡単に諦められたことも、今はそれでは努力が足りないのではないかと
思ってしまう。
人工授精、顕微授精。生殖医療の発達は奇跡をもたらすが、一方で悩みも深い。
でも、皇太子夫妻は費用の心配は一切しなくてもいいのだ。
一回の人工授精にどれだけの費用がかけられているか、夫妻は知らないだろう。
だから不満げな顔が出来るのだ。
何とも恵まれた夫婦。だったらもう少し摂生しろよ・・・とツツミは心の中でつぶやいた。
どうせ国家予算で足りなければ機密費を使うのだろう。
それを使い切ったら・・・・・そしたらどうするのだろうか。
ツツミは後に巻き込まれる事件をまだ知らないのだった。
顕微授精は極秘裏に勧められた。
将来の天皇が顕微授精で生まれたなどという事は非常に恥だと宮内庁は
考えたからだ。
勿論、男女産み分け。つまり男子でなければならないのだった。
そんな強烈な圧力の中、ツツミは奇跡的に成功させた。
4月16日。皇太子妃の懐妊が発表された。