今、我が国が直面する現実において。今上天皇から皇太子殿下へは皇位の継承について
何の問題もないが、皇太子殿下が即位された後の次の皇太子ーやがては即位して天皇陛下ーが
どなたになるか、という点については、看過しがたい課題がある。
「皇室典範」では「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」とあり、現在の皇太子家に
愛子内親王おひとりの場合は当然、順位第4位の「皇次子」の秋篠宮家の文仁親王が、「皇太弟即位」という
次第になる。
(あるいは文仁親王でなく、順位第6の「皇兄弟及びその子」によって悠仁親王に写られる可能性も
ありえるが、そうすれば伯父から甥への継承という事になる。
119代光格天皇以降230年間、「父子相承」で続いてきた行為は、ここに至って兄から弟に
継承相及ぶこととなる。
これは「父子相承」の「直系」から、「兄弟相及」の「傍系」に移る事を意味する。
いわば、皇室の本家が絶えて分家の秋篠家にうつるというわけである。
それは今までにもあったが、その場合、先帝の「養子」「猶子」という形をとってきた。
そのような配慮なしに「兄弟」や「伯父甥」の関係のままで皇位を継がれる場合には、少なくとも新帝側に
「傍系」の意識が強くなり、歴史上、種々の問題が生じてきた。
まず、秋篠宮は継承権第2位、悠仁殿下は第3位です。
ここで言いたいのは「父子継承」でなければ争いが起こる。お家騒動ぼっ発を意味しているのです。
「先帝の猶子」にならずとも「父子継承」にする事は出来ます。
東宮がその位を降り、秋篠宮が皇太子になればよいのです。そうすれば次世代まで「父子継承」になります。
「伯父甥」「兄弟」継承だと新帝の側に「傍系」の意識がつよくなるとはどういう意味なんでしょう?
現在の天皇家自体、傍系は傍系でしょう?
傍系はコンプレックスを生むという事ですか?そんな例があるのでしょうか?
むしろ「女帝」をたてる時こそ、様々な言い訳とこじつけと争いが起こっているのではないでしょうか。
直系初代ー13代、102代から109代まで、光格天皇から現代まで。
半分は直系。つまり傍系継承は珍しくないという事になります。
平泉博士の論文引用
「天智天皇は、皇位の継承に就いて、極めて謹慎であらせられた。
すなわち、その初め皇極天皇より譲位の思し召しをつたえられた時より、いよいよ即位し給うまでの
間には、23年の歳月が流れているのである。
皇位継承の問題は、天智天皇がその長き一生を通じて最も苦心し給うた所である。
股においては
兄弟相及ぶ例が多いが、我が国においても履中・反正・允恭の3天皇、安閑・宣化・欽明の3天皇
その他、兄弟につして御位を継がれた例がはなはだ多い。それが、穴居、卯紛糾のもととなるので
あってこれを解決するには父子相承の法を確立すべきである事は、聡明なる天皇の必ずや
看破された所であるに相違ない。しかも従来の慣例と当時の勢力関係は容易に打破しがたく、
やむを得ず大海人皇子を東宮に立てられたが、その辞退せらるるに及んで、結局大友皇子に
御位を譲ろうとし給い、おそらくは同時に父子相承の法を立ててこれを常の典とせよと宣言
し給うたのであろう。もし、壬申の変なくば、皇位継承問題の紛糾は、これにいて
解決せらるべきであっただろう。(昭和35年)
昭和35年・・・59年前の論文を引き合いに出すとは。
あれから壬申の乱などの解釈は随分変わってきているのですが。
皇極天皇は天智天皇の母です。
そもそも舒明天皇が亡くなった時、本来なら中大兄皇子が皇位につく筈だったんですよね。
でも、若年・・・という事で母の皇極天皇が中継ぎとして皇位についた。
その後、乙巳の変が起こり、皇極天皇は中大兄に譲位したかったけど、結果的に弟の
孝徳天皇に譲った。
ところが孝徳天皇は実験を中大兄と鎌足に奪われて、遷都されちゃって、お妃までついて行って
一人ぼっちで死んでしまうし、後継ぎの有間の皇子も殺されるし。
それでも中大兄は皇位を継がず、母に重祚させた・・・・というのが事実。
何でこんなに「皇位」につかなかったか。
従来、二つの考え方がありました。
天皇になるより皇太子の方が政治的実権を握りやすかったから
実妹で孝徳天皇の皇后である間人皇后と愛人関係だった
が昭和時代の考え方。
現在はどうでしょう。どうやら中大兄皇子は反蘇我。他は「親蘇我」であったという事。
つまり乙巳の変は正当性をもたなかったという話ですね。
今でいうなら「グローバル化」を叫んで朝鮮・・・先のない百済の為にわざわざ出兵して大敗。
一歩間違ったら日本がなくなっていたかも・・な兄と、「日本には日本人らしい重臣がいる。それは蘇我氏」と
思っていた弟達。この対立により、中大兄はなかなか皇位につけなかったという話ですね。
別に23年もの間、中大兄が遠慮してたわけじゃなく、皇位継承できなかった理由があったという事です。
天智天皇には倭姫という皇后がいましたが、子は出来なかった。
蘇我氏の血をひく越智郎女が産んだ建皇子は生まれつき言葉が話せず夭折。
大友皇子は采女との間に生まれた皇子。
対して大海人皇子は両親が天皇、兄が皇太子という身分です。
当時は「母」の身分が皇位継承に大きな影響を与えていた時代ですから、ここで
「皇族でもなく大臣でもない家系の娘」が産んだ皇子は最初から除外されていて当然。
というか「しきたり」通りにこだわる勢力に対して「大友ではいけませんか?」と言い出したのは
天智天皇の方。
いわば戦いをしかけたのは天智天皇であると。
天智が大友に継がせたかったのは「父子相承」などというものではなく、もっと単純なものだったでしょうし
自分の思想を受け継ぐ人間として息子の方がよかったという事。
いや、そんな大昔の事はどうでもいいのです
これと南北朝を取り上げて安易に「兄弟継承は争いのもと」などというのは笑止千万・・・というか
間違ってます