子育てを人に任せて公務にまい進するか、公務を抑制しても
出来るだけ子育てを自らの手で行われるか。後者を選ぶ事で、
ご夫妻はしばしば批判を受けてきた。例えば、昭和天皇が私より
公を優先させて来られた思いを今上天皇皇后が受け継がれてきた
歴史を否定するものだという有識者がいる。だが、結果だけにとらわれて
否定していると断定するのはいかがなものだろうか。
公か私か、二者択一の論理にあてはめて論ずるよりも、皇太子ご夫妻が
受け継がれている尊さは他にもたくさんある筈だ。
一般の国民に、そのことを多く伝えられればとねがってやまない。
(皇族である事に挫折した妃にとって最後の切り札は「内親王の母」で
ある事だった。その事を優先すれば彼女は「よき母」と言われる。
そう信じてやまない妃は古来より、天皇皇后に受け継がれてきた
「私より公を優先する」という伝統をあっさり捨て去った。
「公」か「私」か、二者択一は簡単に「私」が優先されるようになったのだ。
皇太子夫妻はセレブな生活をする事こそが「皇族」たるゆえんだと
思っていた。
一般の国民に、現在の皇太子一家の在り方が正しいのではないとと
多く伝えられればと願ってやまない)
第二子(親王)出産への期待。雅子妃は疲れ切っていた。
雅子妃は自らも体の異変を感じられて公務先で出会った精神科の医師に
相談をするほどだった。
このようにみてくるとご成婚後の雅子妃が必ずしも心安らかに暮らせる環境に
置かれていなかったことは確かで、雅子妃個人に責が問われることではない。
(もう出産は嫌だった。不妊治療も嫌だったが、こんなに出産を望まれる事
自体約束違反じゃないかと。雅子妃の「嫌だ」という感情は大きなストレスと
なり、無気力感が全体を覆う。それは確かに体調に異変を生じさせた。
誰がどんな助言を与えても雅子妃は納得しなかった。
誰かに責任を取らせたい。こんな風な自分にされた事を。その事ばかり
考えるようになる。
このようにみてくると、成婚後の雅子妃が世に言う「優秀なキャリアウーマン」で
なかった事は確かで、その虚像を演じきれなかった雅子妃の罪である)
しかし心無い仕打ちはつづいた。帯状疱疹で入院された直後に
宮内庁長官から 秋篠宮ご夫妻へ第三子を期待する発言がなされた。
雅子妃は失意の底から抜け出すことが出来ずにいた。
(生まれたのが内親王でこの先、出産をしない以上、物事は簡単に
住む筈だった。まさに娘を天皇にする事だ。簡単な事の筈だ。
「ひきこもり」「泣き叫ぶ」「責める」という妃のヒステリックな症状に
さすがの小和田恒氏も手をやき「女帝」を画策。
しかし、宮内庁長官は「東宮家に第二子を、秋篠宮家に第三子を」と
発言。雅子妃は怒り狂い、とうとう軽井沢に籠城して離婚を迫った)
翌年の5月「人格否定発言」
これはまさにプロポーズの際に皇太子が言われた「全力でお守りする」を
実行に移されたものであった。 その目的はある程度果たされ
皇太子ご自身は発言を微塵も後悔されてはいないという。
(「人格否定発言」これにより皇太子は雅子妃が自分の元に戻って
来てくれると信じていた。しかし、実際にはこれにより、皇太子と雅子妃の
力関係は完全に逆転した。
それでも皇太子は微塵も後悔していない。高尚な理想をおしつける両親より
甘い地位を与えてくれる義父の信頼を勝ち取ったからである)
療養中の雅子妃が公務を休まれて私的に外出をされたのは
愛子さまの思い出作りと治療のためだった。
お世継ぎ作りのころは私的な外出を控えられていたことから
外出はいけないことだという思いがあったという。
だが医師団は認知の歪みを治すためにも外出を勧めたといわれた。
だが、宮内庁もマスコミもご夫妻の苦渋を思いやることはなかった。
その背景には両陛下を慮る宮内庁幹部たちの不満があったことも事実。
(妹の紹介で知り合った大野医師によって「適応障害」という新しい病名を
つけられた雅子妃は、私的な楽しみをすべて「病気療養の為」「治療の一環」
として位置づけ、国民に反論させなかった。レストラン、デパート、ディズニーランド。
全てが「医師の治療の一環」だった。残っていた良心のかけらを捨て去れば
あとは気が楽だった。騙されて結婚した10年を取り返そうと妃は暴走を始めた。
不満に思う宮内庁職員もいたが、巨大な権力の元、次々去って行った)
オランダ王室での静養後はご進講や公務が増えるなど回復に
繋がったといわれている。
妃殿下として自信を喪失された雅子妃が心を尽くされたのは子育て。
しばしばバッシングのタネになる「校外学習お付き添い」だが、
事実愛子さまがお一人で登校できるようになっていることを見れば無
意味なことではなかったのだ。
むしろ警備体制を含めた皇室の在り方こそが問われるべきだったろう
愛子さまの不登校の克服は雅子妃にとっても自信になり、
昨年のオランダ国王の 即位式への出席。東北三県の被災地訪問などの
ご公務を経て、ご回復は着実に感じられる。
(数億かけて実現した、皇室初の「私的外遊」も雅子妃の改心を引き出す
事は不可能だった。雑誌を通じて「オランダ静養時に紀子妃が入院するのは
失礼だ」とまで書かせた。オランダの城では小和田家を招いて宴会が催され
悦に入った小和田家はオランダ王室に悪い印象を与えてしまった。
それだけやっても帰国すると雅子妃は再び引きこもりになり、
「オランダは都内より近いのか」とまで言われた。
妃は娘の障碍を隠す為、ありとあらゆる手を尽くした。「いじめ事件」を引き起こし
学習院を手中に収めると、1年半に及ぶ「付添」によって、独裁体制を敷く。
これにより娘の状態が外に漏れる事はなかった。
学習院掌握は雅子妃の強い自信につながり、以後、「取り巻き」による
恐怖政治が続く)
ご療養が長引くにつれ「雅子妃は皇室に合わなかった」という言葉も
時折耳にするが、雅子妃のこれまでをたどると、 問題は雅子妃個人
にあるのではない。
人的な皇室のあり方そのものを考えていかなければ、
三たび民間からお妃が入られたときにも同じことが起きないとも限らない。
「病気療養」と言われて10年が過ぎた。「雅子妃は皇室に合わなかった」
という言葉も耳にするが、問題はそのような簡単なものではない。
雅子妃の背後には巨大な反日組織がうごめき、新興宗教団体が舌なめずりをし
日本が破壊されていくのを待っている。
皇室の在り方を変える事で権威を貶め、皇室廃止に持って行く・・・日本人の
心のよりどころを奪うという最終目的は果たされる寸前。
雅子妃はそういう意味では英雄なのである。
雅子妃にとっても皇室を思いのままにするという事は、日本を、いや
世界を意のままに出来るという事で、今今や怖いものなどない)
ご成婚されて20年が過ぎた。雅子妃は皇室に入られて
お幸せだったのだろうか。
東宮関係者「妃殿下は愛子さまをご出産された後の会見で
『良い人生だったと思えるようにしたい』と述べられたことがありました。
一昨年の会見文書でも〈四十代最後の年となるこれからの一年の日々を
大切に過ごしていくことが出来ればと思っております〉と、
妃殿下としていかにして人生を送るかということを考えておられるのです、
たとえご病気になっても 妃殿下としてのお覚悟はこれまでと
全く変わってはいないのではないでしょうか。
両陛下と皇族の方々に支えられながら皇太子と愛子さまという
ご家族をもたれたことは何よりの喜びでしょう」
雅子妃の人生の歩みによって励まされる人たちもいる。
いつの世も「誠実」は時に誤解を受けやすいが
これからも雅子妃は自らの証として前を向いていかれるだろう。
こうした一人のプリンセスの生き方があることを忘れてはならないと思う。
(皇室入りして20年。今ほど雅子妃が幸せである時はないだろう。
何をやってもバッシングは封じられ、表向きには絶賛される。
3億もの税金は使いたい放題。やがて全ての皇室財産は自分のものになる。
長子相続を主張して娘が皇太子、ないし天皇になればもっと予算を増やせる。
その時は秋篠宮家には臣籍降下させ、自分達こそが日本でもっともセレブな
権力者となる。
それこそが、あの日、自分の意思に反して皇太子と結婚した可哀想な自分への
癒し、無理に結婚させた両親への壮大な復讐になる。
そういう意味では雅子妃の考えは結婚当初からぶれていなのである。
10年後、200年後、雅子妃は日本皇室史上最高の悪女となるだろう。
こんなプリンセスがいた日本という国の不幸を誰が振り返ってくれるだろう。
その時、日本という国は残っているのだろうか)
友納氏の文章は時々何を言いたいのかわからない時があります。
適当に言葉を並べているだけなんじゃないかと思う時も。
ノンフィクションといいつつも、どこかの少女小説風に演出したり
「事実は違う・・・である」形式の不愉快な文言の数々。
ここまで読む人を不愉快にするライターはそうそういない。
そんな人に原稿料を払っている文芸春秋社というのはどんな出版社
なんでしょうか。
出版社はきづいていないかもしれませんが、友納氏の「プリンセス雅子妃物語」の
おかげで読者の大半は週刊文春に足を向けるようになりました。
なぜなら「信用できない」からです。
週刊誌に記事を書くライターの一人ひとりが気を付けなければならない事は
「自分が嘘を書いたら雑誌全体の信用が落ちる」という事。
文春が他にどんなスクープを報じようとも、あれ以来「しょせんは文春」とか
「どこまで本当なんだか」と言われているのは事実でしょう。
空気を読んでさっさと終わらせたけど、もう遅い。
代償は大きすぎますね 法則が来ないように祈るばかりです。