7月。
アキシノノミヤ一家はタイへ出発した。
タイのシリキット王妃の誕生日の祝いと、宮の学位授与の為だった。
一応、プライベートな旅行と位置付けていたが、結果的には公式訪問のようなもので
タイの王室と日本の皇室の友好の絆がなせる親しみであった。
小学6年のマコと3年のカコにとっては初めての外国訪問。
お揃いのワンピースに身を包みつつも、とにかくお行儀よく、きちんとしなくては・・・の姿勢が
顔にでて、少々硬かったけど、それはそれで微笑ましいプリンセスたちの姿。
皇族として生まれた以上、こうやって「公式」の場になれていくのも大事な修行なのである。
ちょうどそのころ。
神宮の公園では弾ける笑顔の皇太子妃と、膝に乗って滑り台を滑りつつも無表情な
内親王が回りの注目を集めていた。
公園を取り囲む物々しいSP達。
背広姿の彼らのきつい視線の中で、一般人の親子は右往左往している。
最初は「マサコ様とアイコ様だわ」と飛び上がって喜び、バチバチ写真をとったり
話しかけようとしていたものの、女官達が「アイコ様に近づかないように」と
彼らがむやみに接してくるのを阻止し始め、子供達が物々しい警備の男達に
え始めると、最初の歓声はどこへやら・・・結果的に楽しそうに声を上げているのは
東宮夫妻と回りだけになった。
そんな様子を見ながらコワタはため息をついた。
(私だけ逃げるのを許して頂戴ね)
タカギ女官長・・・コワタは最後の涙ぐんだ目を忘れはしない。
コワタが女官として上がったのは皇太子の結婚の年だからもう10年になるか。
その当時からすでに先輩としてタカギは君臨していた。
真面目で誠実で、いかにも「宮中の人」だった。
前の女官長、ナカマチは心理学の専門だった。いわゆるセラピーもかねていた。
というのも、多分当時から東宮妃の精神的な不安定さが指摘されていたからだと思う。
「心に不安がある方がお妃とは・・・陛下もいよいよ東宮殿下には甘くていらして」
などとずけずけ言うので、いつも誰かが
「しーっ。聞こえましてよ」と唇に指をあてる。
そんな事を言われても平気だったのは、やっぱり「女官」という仕事に対する誇りもあったろうし
東宮妃よりもいわゆる、皇室でのキャリアは長いぞ・・・という気持ちもあったのではと。
だからナカマチが辞めた時に、東宮女官長を拝命するのは至極当然のことだった。
「ナカマチさんも・・・今思えば耐えられなかったのかも」
つぶやいた彼女の目は曇っていた。
ナカマチが就任当時から皇太子妃に疎んじられていたのは、誰でも知っている話だった。
皇太子妃の疎んじ方というのは決まっている。
徹底的に言う事をきかないとか「無視」というその一手である。
マサコにとって気に入らなかったのは多分「心理学の専門家」である事だった。
「私をなんだと思っているの?」というのが妃の口癖で。
被害妄想としか言いようがないのだが、それをまた皇太子が一々取り上げて
女官長を退けるから段々とナカマチも自分に自信が持てなくなってしまった。
そう・・・「モチベーションを徹底的に潰す」というのが皇太子妃のやり方なのだ。
ナカマチの最後はやつれはてていた。
それでも愚痴をこぼすでもなく、誰かに訴えるでもなく、黙って退任していった。
もっとも、誰かに愚痴りでもしようものならそれこそ懲戒免職になりそうな雰囲気はあったのだが。
ナカマチの退任を受けて女官長に就任したタカギはナカマチよりももっと杓子定規だった。
「決まりを守る」のが信条のような人だったので、その厳しさに女官達も随分泣かされたものだ。
マサコがその「地位」をかさにきて、タカギを疎んじるようになったのは、就任まもなくだ。
妃はハーバード出の外務省職員と言う肩書を持って皇室に入った。
当然、回りはそういうキャリアを持つ、常識人であると思って接する。
けれど、数年たつうちにそれは間違いである事にみな気づいた。
しかし、「キャリア」だけはどんどん一人歩きして回りを悪者にする。
その代表的な人間が皇太子。マサコの夫である。
これまでのあれやこれやを思い出すたびに、コワタは悲しくなった。
内親王の様子がおかしい・・・・となった時から東宮御所は暗黒の世界に変わってしまった。
疑心暗鬼と人間不信にさいなまれた皇太子妃は徹底的に回りを敵に回し、自分の意見に
従う者だけを重用するようになった。
その一人が、今、すべり台の傍で盛んに「アイコ様、その調子」などと笑っている
オカヤマだ。
そもそも何で3度も普通の公園に遊びに来なくてはならないのか。
このことではタカギもコワタも最後まで反対した。
前回も前々回も回りに迷惑をかけるだけだった。前回などは公務をサボっての
公園遊びだ。
「それは許される事ですか」と強く言った女官長にマサコは
「皇太子殿下だって行かれるのよ。皇太子殿下は将来の天皇なんだけど」と言い返し
隣の皇太子はにこにこと笑いながら
「一般の子供と同じ体験をさせたらいいと思う。僕はそういう経験がないから」と
マサコの肩を持つ。そんな姿に脱力した女官長は退職を申し出ても誰も止めなかった。
「可哀想なアイコ様。東宮家の一の姫として生まれたのに・・・・本当の愛情というのは
おもちゃを沢山与えたり、こんな風に決まりを破って遊びに行く事ではないわ。
たとえ、少しお体に障りがあっても、誰よりも整った療育環境で、ちゃんとした内親王として
お育ちになれるのに。
アイコ様は2歳になっても、ろくろく言葉も話せず歩く事だって・・・・専門家に任せず
何でもご自分で解決しようとするからこういう事になるのよ。どうしてご夫婦そろってそれが
わからないのかしらね」
「妃殿下はきっとショックだったんですわ。アイコ様の障碍が。そしてそれは皇室のお血筋の
せいだと思われている」
「たとえそうでも、いえ、だからこそ、御簾のうちでひっそりと礼儀正しく生きて行けばいいの。
普通の子のように将来を心配しなくてもいい立場なんだもの」
「妃殿下はアイコ様を天皇に?」
「それは言ってはダメよ。絶対に」
公園ではアイコは無表情で、むしろはしゃいでいるのはマサコの方だった。
もしかしたらあの方は、小さい頃、公園で遊んだ経験がないのかもしれない。
だって、普通は大人が砂場や滑り台で遊びたいとは思わないものだから。
疑似体験・・・・妃殿下はお子様を通して自分の小さい頃を疑似体験なさっているのだろうか。
それはきっと皇太子殿下も。
「そろそろ時間です。妃殿下お知らせを」
コワタは女官に言いつけると、回りのSP達に目配せをした。
彼らはささっと動く。
すでに夕方になりかかっている。
帰る時刻と言われたマサコは少し不満そうな顔でオカヤマに小さくささやいた。
「両殿下とアイコ様は六本木のフレンチレストランへ行かれるそうです」
え?
コワタは耳を疑った。
フレンチレストラン?そんな予定は入っていない。というか、予約もしていない。
東宮御所では大膳が夕餉の支度を整えている筈。
コワタは戸惑い、すぐに侍従長に連絡を取る。侍従長も何も聞いていないようだった。
コワタは皇太子夫妻の所にかけよった。
「あの。レストランへ行かれるとか」
「ええ。オカヤマが予約してくれたの。今からアイコも連れていくから」
「殿下・・も・・・それでよろしいのですか?」
「いいよ。せっかく外に出て来たんだしね」
コワタは下品と思いつつもオカヤマの袖を引っ張って砂場の隅まで連れて行く。
「どういう事なの。今日はそんな予定は入っていません。なぜ私に報告しないのですか」
「申し訳ありません。妃殿下がすぐに予約の電話を入れろとおっしゃって。無論
私もこういう事は東宮大夫や女官長に報告義務がある事はわかっています。
でも、両殿下が早く早くとせかされるし、もうどうしていいかわからなくて。携帯を持っていましたので
電話したらお席が空いているというし。
それで事後報告になりました。本当に、ついさっき、決まったんですのよ」
「決まる前に私に報告するのが女官であるあなたの仕事ではないの?
何でもかんでも両殿下の言いなりになる事ではありません。それくらいは」
「まだなの?」
マサコがアイコを抱きながら遠くで叫んだ。
「アイコがお腹すいちゃうよね」皇太子も言った。
コワタはおろおろとし「まず、こういう事は東宮大夫に報告し、それから皇宮警察の方に
連絡を入れて・・・という手順が」
「それじゃ間に合わないでしょ」
マサコが怒鳴った。怒鳴ったので回りはピンと張りつめた糸のように緊張する。
皇宮警察の面々も、半ばあきれ、なかばうんざりしつつこっちを見ている。
彼らが残業になるのか、それとも人員を交代するのか。そういう事も極めて重要な事柄なのである。
「日本の皇太子ってレストランにもいけないわけ?」
まるであざ笑うかのような言い方だった。
そんな風に言われた皇太子はちょっとむっとする。
「言う通りにしてくれないと僕の立場が」
コワタはどうしようもなかった。
「オカヤマ。両殿下について行きなさい。私は東宮御所に戻って色々手続するから」
オカヤマはにっこり笑って「承知しました」と答えた。
これだ・・・こういう事が重なってタカギは退任を決めたのだ。
そして結果的に誰も東宮女官長になるたがらなくて白羽の矢が立ったのが自分だったのだ。
オカヤマめ・・・・単純にご機嫌取りをしているだけなのか?
女官長の自分を軽んじるとは。
いやしかし、自分も彼女の立場だったら・・・・変に疑っては空気が悪くなる。
とにかく今は早急に宮内庁と皇宮警察に連絡をいれなくては。
大膳のシェフの顔が目に浮かぶ。
どんなにがっくりするだろう・・・いや、怒るだろうな。食材を無駄にしたと。
「女官長になったばかりだからこういうミスをするんだろう」と言われるかもしれない。
きっとタカギだったら「いけません。そんな予約はすぐに取り消して帰るべきです」と
言ったかもしれない。
そういう勇気のない自分に嫌気がさす。
どれくらい・・・・もつかな。
頭の中に東宮大夫や東宮侍従長。皇宮警察の面々に大膳課の料理人の顔までが
詳細に浮かんできて、早くもコワタはノイローゼになりそうだった。