侍従が呼び鈴を押し、出て来たのがヒサシだったので、
思わずぎょっとした。
ヒサシは侍従の顔など無視して、直接、皇太子の腕をつかみ
握手にみせかけて玄関に引き込んだ。
「いやいや殿下、こんな寒い場所にようこそ。お疲れでしょう。すぐに温かい茶を。
いや、酒がいいかな。やっぱり殿下は熱燗の方が」
「オワダさん、本日は・・・・」
口上を述べようとした侍従を無視し
「今日は殿下御ひとりでお泊り頂く。あなた方はホテルでもとって待機してくれ」
そしてにっこりと笑った。
「いいでしょう?殿下」
皇太子が反対するわけもなかった。むしろ、ほっとした様子で
「ええ、勿論。僕は全然構いません」と言った。
「ではお付の内舎人を・・・」
「いやいや、家族水入らずで過ごしたい。こんな狭い別荘では内舎人の力など
必要ない。殿下のお世話は我らで十分」
ヒサシの後ろにはユミコとレイコとセツコが立っていた。
「しかし、そういう事は東宮大夫や宮内庁長官と相談して決めなくては」
なおも食い下がる侍従に
「このオワダ家を信用できないというのかね」とヒサシは睨みつける。
「私達が殿下に何をすると?将来の天皇陛下に毒を盛るとでもいいたいのか。
冗談じゃない。皇太子殿下は婿だぞ。我が家の大事な婿殿だ。失礼にも程がある」
「宮中の作法を」
「ここは軽井沢で東宮御所ではない。治外法権だよ。お引き取りを。
大丈夫。2・3日後には必ず迎えを呼ぶ」
言うなり、ヒサシはぴしゃりと玄関のドアを閉めてしまった。
憐れな侍従達は寒い中に放り出されたようなものだった。
窓から侍従達が離れていくのを見送って、ヒサシは自ら皇太子の肩を抱くように
応接室のソファに座らせる。
「マサコとアイコを呼びなさい」
ヒサシは「アイコ」と呼ぶのだ・・・それが皇太子には親しみのある言い方のように思えた。
「いや、今回は本当に娘のわがままで申し訳ない事を致しました」
「いえ。僕の方が悪かったんです」
そこに入って来たのはトシノミヤを抱いたマサコだった。
挨拶もせず、応接室の前に突っ立っている。
そんな娘にヒサシは苛立った。
「殿下がわざわざ来て下さっているのに、その態度はなんだ。さっさと座らないか」
びくっとしたマサコは仕方なく皇太子の隣に座った。しかし、口をきこうという意志は
ないように思えた。
皇太子は、トシノミヤを抱き寄せた。
「さあ、パパだよ。お土産を持って来たんだ。開けてみようね」
玄関先に置かれたままの袋を持ってこさせ、中から沢山の人形や
ぬいぐるみをだし、見せてやる。
最初は興味を示したトシノミヤだったが、少し「ぱ」と言ったきり喋らなかった。
それでも、床に広げられたおもちゃを使って自分の世界に没頭し始めたので
周囲はほっとしたのだった。
その間に、テーブルには日本酒とつまみが用意された。
「さあ、殿下。再会を祝して乾杯と行きましょう」
ヒサシは上機嫌な様子で杯を勧める。
皇太子は嬉しそうに一口飲んだ。
「ああ、これはおいしいですね」
「黒龍です。わざわざ殿下の為に取り寄せました。なかなかいけるでしょう?
それにこっちはめったに手に入らない獺祭です。そしてこっちは」
ヒサシは次々に銘柄を見せては別々の杯についで回る。
まるで利き酒のようになっている。
皇太子は嬉しそうにどれも飲み干す。
「いや、こっちはフルーティですね。ああ、こっちは辛口の極みだ。僕の好みですよ。
ああ、この色、コクといい素晴らしい」
「殿下に気に入って頂けてこんなうれしい事はありませんよ」
ヒサシも笑顔だったが、あまり飲んではいなかった。
「僕が酒好きだという事は、両陛下もご存じなんですけど、こんな風に飲み比べをした
事はありません。夕食会などでもほんとうになめる程度なんです。
大膳は言えばそれなりのものを出してはくれるけど「体に毒」といって、あまり飲ませて
くれないんです。さあ、これからという時に終わってしまって。
僕が文句を言うと皇后陛下が「みんな、あなたの体を心配しているのだから」と言って
大膳の言う通りにさせてしまうんです。
弟も昔は結構飲んでいたんですが、結婚してからはタバコもやめるし酒も少しで
何と言うか、優等生なんですよ」
「大切なお世継ぎの体に何かあってはいけないからでしょう。いやはや、両陛下の
お気持ちはよくわかります。私も引っ込めた方がいいかな」
「いいえ!」
皇太子は慌てて制した。
「初めての楽しみを奪わないで下さい。僕は本当に楽しんで飲んでいるんですから」
「皇太子という地位もなかなか窮屈なものですな。好きな酒も思い切り飲めないとは」
「ええ。そうなんです。みんな僕を20歳かそこらの子供だと思っているんです。
だからああしろこうしろとうるさくて。予算があるからあまりいい酒は買えないとかなんとか」
「ではお贈りしましょう。いくらでも殿下の為に献上しますよ」
「本当ですか?嬉しいなあ」
皇太子は満面の笑みでまた一口飲んだ。
「ああ、本当においしい。こんなおいしいお酒は初めてです。まるで喉にするするっと
入って行くようで。きっと今までリラックスして飲むという事がなかったからかも。
しかもこんな真昼間に」
「昼間の酒というのは格別ですな。誰もが働いている時間に飲める贅沢。
これは殿下のような御身分だからこそ味わえるんですよ」
「そうですか」
皇太子は「へええ」というように感心した面持ちでヒサシを見た。
「庶民と言うのはあくせく平日は働くものです。たまの土日は安い発泡酒で喉を潤して。
発泡酒はご存知ですか?ええ、第三のビールなどともてはやされていますがね、
いわゆるビールもどきですよ。たまに本物のビールを飲むったって、せいぜいエビスを
1、2本が限界でしょう。つまみはさきいかかポテトチップス。今日の「酒盗」には
かないませんって。それで月曜からまたあくせく働くんですから。それに比べたら
殿下は恵まれています。日本中の名酒を集めようと思えば一言、号令をかけるだけで
献上して貰えるんですから」
「え・・・?そう・・そんな事、したこともありません」
「御存じなかったんですか?皇太子と言うのはそれだけ権力を持っているんですよ。
望めば栄耀栄華を究められる。この日本に殿下に飲んで頂きたくないという酒造会社が
あるでしょうか。ないでしょう?どんな会社だって殿下に飲んで頂いたらいい宣伝になるし。
ゆえに望めばいくらだって送って貰えるんです。その代わり「皇太子殿下も口にされた」と
一言つけ加えさせて頂きますがね。こんど、地方へ行ったらやってごらんなさい。
「この地方の名酒を出してほしい」と」
「はい」
皇太子は目を輝かせて素直に頷いた。
「昼食はイタリアンをケータリングしましたの。どうぞ食堂へいらして」
ユミコの案内で食堂へ入ると、テーブルの上には沢山の料理が大雑把に
並べられており、ワインの瓶も何本か並んでいた。
「皇太子殿下はワインもお好きかしら?我が家はどちらかというとワイン党で」
ユミコの愛想笑いに皇太子は真面目に「ええ、大好きです」と答えた。
見た目が派手なイタリアンは、皇太子の心をすっかり魅了した様子だった。
マサコはそんな夫をちらっと見るだけで黙々と食事に専念しているし、
トシノミヤは手伝いに預けたままだ。
レイコもセツコも皇太子に話しかけるというより、二人だけでひそひそ話をしている。
けれど皇太子はちっとも気まずくなかった。
こんな風に好き勝手なことをしても叱られない環境というのが楽しかったのだ。
皇室ではどんな食事会でも食事を楽しむというよりは会話を楽しむのが常。
そのネタを仕込むのに1週間はかかる。
もてなされる側になってもそれは同じで、地方へ行った時などは、まるで地理の
テストを受けているような気分だった。
しかし、ここでは誰も強制的に話をさせようという人がいないし、ぐいぐいワインを飲んでも
誰も怒らないのだった。
「いや、今日は楽しいですな。うちには娘しかおりませんので、殿下がマサコと結婚した時
おそれながら実の息子が出来たような喜びを感じました」
「僕も、もう一人のお父様とお母様が出来たようで嬉しかったです。妹も増えて」
「今だから言いますがね。私は息子が欲しかったんですよ。後継ぎの息子が。
しかし、生まれたのは女ばかりで。それでとりわけマサコには期待を大きくかけて
私と同じ外交官の道を志して貰いました。
本来なら大学4年で腰かけ程度に働いて嫁に行けばいいものを、この娘だけは
私のような、いや、私より上の地位を得て出世して欲しいと心から望んでいたんです。
マサコは小さい頃から利発でその期待に応え、ハーバードを出て外務省に
入ってくれました。親子二代で外交官も夢ではなかった。この子も仕事に意欲を
感じて頑張っていましたしね。まあ、はっきりって殿下との結婚話が浮上しなければ
マサコの運命も変わっていたかもしれません。
この娘は私によく似て、野心家でした。仕事が第二の趣味のようなもので。
10年前は男女雇用機会均等法が出来たばかりの頃だったでしょう?いわば
娘は女性の代表として頑張って行こうと思っていたんですよ」
「ええ。わかります。マサコは本当に優秀だと思います」
「縁談をお断りすることも出来たんですよ。私は普通の親とは違いましてね。
女性も男性と対等に仕事をするべきだと思ったし、その為に障害になるような
事はたとえそれが結婚といえども排除すべきだと思っていました。男女の対等な
関係なしにこれからの日本はありえません。
国際社会で日本だけがいまだに男尊女卑なのです。だってそうでしょう?
結婚したらほとんどの女性が男性の名前を名乗る。こんな理不尽なことがありますか?
韓国も中国も夫婦別姓。完璧に平等です。
まあ、それはいいとして、だから私は盛んにマサコには結婚をしないように言いました。
しかし、娘はあなたを選んだ。この私よりも」
「私よりも」を強調されて、皇太子はちょっと体が震えるような気がした。
ヒサシの声は低く、穏やか過ぎる程穏やか。
そんな声で「私よりも」と言われた事は、責められているような気もするし
優越感を感じもする。マサコはこの父よりも自分を選んでくれたのだと。
「殿下はお約束された。皇室外交をさせて下さると。娘はその一言を頼りに結婚したんです。
でも私は最初からわかっていましたよ。そんな事はできっこないと。
いくら皇太子殿下といえども皇室の伝統を変える事は出来ないし、こちらから
アクションを起こして外国に行く事など不可能だとね。でも娘は純粋だから
殿下のお言葉を信じてしまった」
「嘘ではありません。僕も将来の天皇として皇室外交が今後はもっともっと必要だと
思いました。両陛下が皇太子時代、一年中地方か外国へ行き、その度に多くの人々を
感動させてきました。僕は、マサコと一緒ならより外国で同じ・・いや、それ以上の事が
出来ると思っているんです。でも」
「でも。そうは甘くなかったと。そりゃそうです。皇室なんですから世継ぎの心配をするのは
当たり前だ。しかし、今の世の中、男子だけが皇統を継ぐなんてナンセンスではありませんか。
今、日本の出生率は1・25くらいですよ。一人産むかうまないかの時代です。
なのに皇室だけ子だくさんを期待すると言うのは間違っていませんか。
マサコが不妊だった事は認めましょう。でも、今時、その原因を女性にだけ求めるというのも
おかしい。不妊の原因を作っているのは夫婦二人なのです。
殿下はこの点をどう思われますか」
「僕は医師ではないので、その原因がどういうものかわかりません。けれど
マサコがずっとその事に苦しんで来た事は確かだと思います。
陛下が生まれる時もコウジュン皇后は大層苦しんだようですし」
「つまり、皇室と言うのは旧弊で時代遅れな所なんですよ。女性を泣かせるような」
ヒサシは断言した。そう言われると皇太子は何とも言えなくなった。
家族はみな、黙ってヒサシの言葉を聞いている。
こんな風に囲まれてしまっては、正常な思考が働かない。いや、自分が少し
何かに操られている事すら、今の皇太子には理解できなかった。
「殿下の可愛い内親王も、女というだけで天皇にはなれません。
その事がどんなにマサコを苦しめているか」
ヒサシの声は震えていた。回りは少しもらい泣きしているようだった。
「ええ。そもそもはマサコが男子を産めなかった事が原因です。不甲斐ない娘です。
私だって男子が欲しかった。でも叶わなかった。その代わりに優秀な娘達を
与えてくれたんですよ。神様は。優秀さに男女の変わりはありません。そして
殿下のお子に男も女もないのではありませんか」
「その通りです。その通りですとも」
皇太子は酔いも手伝って大きく頷いた。
「僕はマサコと皇室を変えていけたらと思っているんです。今までの皇室ではないものを
作りたいです。でもその為にはまず僕達が幸せにならないといけないと思うんですよ」
「それは結構。マサコ。殿下はこうおっしゃっているが、お前はどうなんだね。
まだ離婚したいのか?」
いきなりふられたマサコは答えようもなく、黙る。
「二人で話し合ってはどうかね」
ヒサシは上目使いでそういうと、ワイングラスをくるくると回した。