皇后陛下はかつて
「皇室は祈りでありたい」とおっしゃいました。
この「祈り」とはどういう意味でしょうか。
私が通っていた高校の講堂にはゲッセマネのイエスの肖像画と一緒に
「喜ぶものと共に喜び 泣くものとともに泣きなさい」と書いてありました。
当時、素晴らしい言葉だなあと思った記憶があります。
自分もかくありたいと思いました
キリスト教でいう所の神は「常に私達と共にあり、一人子を使わされる程に
私達を愛して下さっている」
ゆえに私達も、同じように生きるべき。それこそが神の祝福であると。
これは「愛」であり、仏教でいう所の「慈悲」だと思います。
皇后陛下の「祈り」とは、まさに「国民と共に喜び、国民と共に泣く」という
スタンスの事だと思います。
神道にはそのような思想はないと思います。
言葉で教義をあれこれ言うのと違い、神道は「生活」そのものが神の道だからです。
毎日、神棚にご飯と水を備える=日々の糧に感謝
というように、自然界のありとあらゆる所におわす神の為に「祀り」を執り行い
時に戒められる・・・というのが神道です。
毎日の生活に「恵みと感謝」があり、それをうっかり忘れると災害などが起きて
人は「日常」がどんなに大切であるか再確認するのです。
キリスト教では人に起こる不幸は全て「神の試練」です。
よく「神様は私達に試練をお与え下さった。だからこれを乗り越えなくてはならない。
その先に本当の幸せがある」と言います。
でも神道では、神様が気まぐれに災害を起こしたりします。
人はなすすべもありません。
ただただ恐れ、怒りや祟りを鎮めるだけです
天皇というのは、全ての国民に成り代わり、神道で最も重要な「祭祀」を行う立場です。
そこに「私」はありません。
一年365日、国の安寧と国民の幸せを祈るのが仕事です。
人々は普段は「天皇」の存在など気づきません。それくらい身近にあるからです。
だけど、ひとたび何か起これば「国家の中心」として心の中に現れてくるものであると思います。
かつてダイアナ妃はマザー・テレサに教えを請い、福祉の道に入りました。
莫大な財産を持ち、ゴージャスに生活しつつも、一方で貧しき人に心を寄せ
象徴的に活動していく「心の皇太子妃」になろうとしました。
その理由は「他人を救う事で自分も救われたいから」ですよね。
ダイアナが抱えていた数々心の「傷」
それを癒すのは同じような、あるいは自分よりも弱い立場にいる人達へ奉仕する事。
まさに「喜ぶ者と共に喜び、泣く者とともに泣く」事で、自分自身が救われていったのです。
両陛下の「国民と共に・・・」「皇室は祈り」という考えには、この「自分への救い」が
非常に色濃く反映されているのではないかと思います。
昭和の皇太子妃夫妻は、今思えば「皇室」という世界でかなり孤立していたのではないかと思います。
「血筋」「家柄」「伝統」そういったものを打ち壊して「我が道を行く」というのは
非常に困難であるし、理解を得るのは難しい。
ひどい事も言われたでしょうし、離れて行った人も多いでしょう。
自ら傷つき、人を恨む事も多かったのではないかと。
でも、そこにキリスト教の思想があれば耐えられる。そしていつか救われると思ったのでは。
それが「信仰」ではなく「思想」として取り入れること自体は悪くはないんですよね。
けれど「皇室」というのは、人を超越して連綿と続くDNAの継承なわけですから
「祈り」もまた「無私」でなければならないのだと・・・私は思います。
最近の女性雑誌は殊更に「皇后陛下の慈愛」を強調します。
首の痛みに耐えながら、それでも国民の為に尽くす皇后陛下と。
キリストの女性版のようです。
そのうち「私達の罪を背負って・・・慰霊の旅」とか書かれるかも。