ご日程
両陛下
10月3日・・・両陛下 → 桂宮墓所参り
勤労奉仕団に会釈
新任外国大使夫妻とお茶
天皇陛下 → 通常業務
10月5日・・・両陛下 → 日本武道館開館50周年記念式典出席
10月7日・・・両陛下 → 勤労奉仕団に会釈
「明日の象徴」受章者に会う
外務省から進講を受ける
天皇陛下 → 通常業務
お稲刈り
10月8日・・・両陛下 → 在京外国大使夫妻と午餐
厚生労働大臣表彰の保健文化賞受賞者に会う
勤労奉仕団に会釈
長崎県開催第69回国民体育大会の関連行事等について説明を受ける
(「菱田春草 展」)鑑賞
10月9日・・・両陛下 → 千家夫妻より挨拶を受ける
ルクセンブルク皇太子夫妻と昼食
天皇陛下 → お稲刈り
皇太子同妃両殿下
10月3日ー4日・・・・皇太子殿下 → 秋田県訪問
・ 知事らと昼食
・ 第29回国民文化祭・あきた2014「増田のまちなみ蔵史めぐり
・ 県勢概要聴取
・ 重要無形民俗文化財「本海獅子舞番楽視察
・ 第29回国民文化祭・あきた2014開会式出席
・ 第29回国民文化祭・あきた2014視察
10月6-7日・・・皇太子殿下 → 京都訪問
・ 科学技術と人類の未来に関する国際フォーラム
10月8日・・・皇太子殿下 → 勤労奉仕団に会釈
両殿下 → 千家国麿・典子夫妻披露晩さん会
10月9日・・・両殿下 → 千家夫妻に会う
ルクセンブルク皇太子夫妻に会う
赴任大使に会う
日本では普通に「ギョーム皇太子」と呼ばれていますが、ルクセンブルクは公国なので
正確にはギョーム大公世子と呼ばれるようですね。
彼の中にはハプスブルク家の血も入っていますし・・・並の家系ではない。
ステファニー妃はラノワ伯爵家(ベルギー)の娘。
いつも彼女を見ると若い頃のアントワネットの肖像画を思い出してしまう。
きっと本物のアントワネットってこんな風に可愛らしくて愛らしかったんだろうなと思います。
お二人は来日してすぐ、明治神宮参拝。
目と鼻の先にいる皇太子妃が絶対に行かない場所ですね。
東宮御所では皇太子が玄関までお出迎え。皇太子妃は歓談しただけだったそうです。
結婚披露宴にはあんなすごい恰好で出て来たのに、翌日の公務はあっさり出てこない。
いったい、どんな「病気」なのか、みんな追及しないとダメじゃないの?
秋篠宮両殿下は10日に帰国。お疲れ様でした。
皇太子の京都訪問。台風の為に出発が3時間遅れた・・・・だったらいっそ日帰りでよかったのでは?
どうしても一泊したかったのか、お出迎えに駆り出された人たちがえらい目にあったそうです。
秋田でも京都でも交通規制がひどくて・・・・
それでも文句言われない皇太子殿下。日本人は優しいな。
なんだかんだ申し上げて、この度の皇太子妃の「お振舞」は
情けないやら悲しいやら
相手が高円宮家の女王だったからいいけど、これを眞子様や佳子様でやられたんじゃ
たまったもんじゃありません。
もっとも、眞子様の成人の儀も悠仁親王の着袴の儀もお祝い一つ言わなかったし
食事会もブッチした彼女ですから、本当に好き嫌いが激しい、自分の中できっちりと
線引きをしている、そうとう根性がねじ曲がっているお方とお見受けしまう。
それに、あの人達が天皇や皇后になったら結婚の儀には参列しないわけですし
そういう意味ではよかったかなと
過去に、昭和天皇が仁親王の披露宴に出席した事がありましたよね?
その時、あんな風に花婿と花嫁にエスコートされて出ていらしたのか・・・・・な?
ルクセンブルクのギョーム皇太子夫妻の為に玄関に出迎えもしなかった皇太子妃。
ステファニー妃は家柄も血筋も我が国の皇太子妃とは真逆の正当すぎる程正統派。
しかも若くて可愛らしい。
ゆえに出てこなかったと言われればそれまでだけど、チャールス&カミラの時は
玄関に出迎えて取材までさせたわけだし。
今後、オランダ国王夫妻が来た時、どうするんでしょう?
ここで出て来たらあからさまにルクセンブルクを差別した事になりますけど
出てこなかった出てこなかったで「お友達」の王妃に失礼だし。
こういう事は皇太子妃自身の評判だけではなく、日本の皇室の評判を落とす事になります。
という事を国民は知らないといけませんよね?
両陛下が何も言わないのをいいことに、本当に誰もいさめず好き勝手させたい放題。
臣下としては両陛下が何もなさらない以上、動けないのだという事を、両陛下は
どれだけわかっていらっしゃるのか。
久子妃はどういう形で出席されようとも、相手が皇太子夫妻なら満足でしょう。
でも、三笠宮両殿下のお気持ちを考えた事がおありなんでしょうか?
お二人とも高齢であり風邪をひいて入院までしていた程のご体調。
それでも孫娘の晴れの式には出席しなければと頑張っていらっしゃった。
それが・・・・6時開始予定の晩さん会が20分も遅れた挙句、孫娘より目立つ
皇太子妃が一緒に入場
皇太子のスピーチではバイオリンの演奏をトチったエピなん朗々と話されて。
それでも皇族ですから、「花子とアン」みたいに「異議あり」と言えなかった。
じっと粛々としているしかなかった。
でも長老殿下の内心は煮えくり返っていたと思います。
先に桂宮のお通夜では一人で完璧な喪服で登場し、宮邸行事は出ず、カメラが入る
場所だけ出てくる始末。
20年も昔に反対した事が今になって「やっぱりあの時の自分の反対意見は正しかった」と
つくづく思われた事でしょう。
一方で「今上が民間から妃を得た時からすでに今の事態は予測されていたのだ。
もう自分達がいた皇室は消え果た。長生きなんてするもんじゃない」とご自分は
古きよき本物の皇室一緒に旅立つ覚悟を決められたかもしれません。
皇太子夫妻が側近の意見に耳を貸さない・・・でも、本当はそのご両親である
両陛下もまた、そうであったのではないかと。
よかれと思ってやってきた事が全て裏目に出て、皇室の「権威」を失墜させてしまった。
もはや「サラリーマンより働く天皇・皇后」という・・・あまり嬉しくないレッテルを貼られて。
(ご本人達は嬉しいかもしれませんけど)
「しきたりを破る」という事は相当な覚悟が必要ですよね。
25年前、私達が結婚する時、あえて「仲人」は置きませんでした。
当時は仲人は会社の上司がするもので、披露宴のお客も会社関係とか
親の関係者が多かったものです。
それを破る時、散々回りから色々言われましたよ。
「格式が」とか「しきたりが」とか
でも、私達は「結婚式」の意義を深く考えた末、「新郎新婦の紹介は自分達でやろう」と
決めました。
でもそれはあくまで「恋愛結婚」だったからで。
見合い結婚ならちゃんと「仲人」は必要だったろうと思います。
今は仲人なしが普通になって、司会者が全部やっちゃう感じですけど、そんな風に
何でも崩してしまえばいいというものではない。
伝統を壊す時は、その伝統に匹敵するだけのものを自分達が作り出さないと。
私達の場合はそれが「お互いを紹介し合う」原稿作りだったわけですが。
両陛下だって、家柄や血筋でない「皇族」の在り方を追及しようとして
今に至って来たのだと思います。
だけど、現在、それは祝日をまとめて連休にしてしまったような意味しかなくなっています。
もし皇太子妃が元皇族や華族出身者であり、聡明で子だくさんの家から選ばれた女性だったら
美智子皇后陛下の存在意義はより高まっただろうと思います。
「民間から皇后になったが、男系男子を産み、皇室の伝統を守り継いだ見事な一生であった」
しかし、今の段階では皇后陛下にそのような賛辞は贈れません。無論、陛下にも。
自己流を守る為に皇室の伝統破壊を推し進めた天皇と皇后として未来に語り継がれるでしょう。
「天皇は家柄と血筋のない妃を守る為に旧皇族・旧華族を全て敵に回し、関係を絶った。
長男の皇太子はそれゆえ、3代前が不詳であり、またチッソという日本一の公害を出した
企業のトップの血を継いだ女性と結婚。天皇と皇后はそれを許した。
皇太子妃は皇室に馴染めず、その責任を夫と舅達に負わせ、次第に心を病み
奇妙な振る舞いをするようになる。生まれた長女は自閉症だったが、国民には伏され
「優秀で聡明」であるとされた。しかし小学生の頃からすでに不登校であった内親王は
中学でも躓く。誰もがその矛盾に気づいていたが誰も何もいわなかった。
こうして皇太子夫妻は日本国民からそっぽを向かれ、世界の王室から距離を置かれ
もはや元号制も無駄ではないか、皇室制度もいらないのではないかとの議論を
耳にしながらも御簾のうちに親子3人で引きこもり、3人がどのような生活をしているのか
側近ですらわからないようなありさまであった。
後継ぎ夫婦のありように心を痛めた天皇と皇后は、どうしたらいいかわからなかった。
ただひたすら日本中を回る事で、必死に皇室の威厳を保とうとした。
すぐそばに救いの皇子である次男一家がいたが、そういう時に限って「伝統」が
頭をもたげ、次男一家を重用する事が出来なかったのである。
日本中の山が荒れ、雨が街を流し、国民は怯え「これは神の怒りではないか」と
噂ししあったが、科学者でもある天皇はそれを信じる事はなかった。
よもや自分や自分の子供の振舞が天照大神の怒りを買うなどという事は
全く信じられなかったのである。
後、4代に渡って引き継がれてきた養蚕は途絶え、新嘗祭も消え、天皇は
五穀豊穣を祈る存在ではなくなった。
次代を継いだ天皇は祭祀が嫌いな皇后に合わせ、伊勢への参拝、陵への参拝をとりやめた。
祭祀一切を側近に任せた。
また人と会う事が嫌いな皇后に合わせ、大使、外国王室、奉仕団等、人々との公式な謁見を
取りやめた。
このようにしていつしか皇居に人の出入りはなくなり、一般参賀もなくなり、皇居の庭は荒れ果て
国民は一家の姿を見る事もなくなった。
国家では皇室予算を削る事を決定し、それにより皇弟一家は家計が苦しくなり地方での
公務を減らさざるをえなくなった。その次の天皇になる筈の皇子は細々と「加冠の儀」を宮邸で
行い、ひっそりと伊勢へ参拝した。身に着けたのは世継ぎの象徴・黄丹の袍ではなく、黒の袍だった。
一方天皇と皇后は予算の削減に腹を立て、抗議する一方、那須や葉山の御用邸を売り払い
使用人を減らし、宮内庁の奥に保管されている歴代の宝物をサザビーのオークションに出品し
生活を維持していった。
皇弟は何度も意見したが聞き入れられず、ひそかに暗殺を企てられ・・・・・」
こんな事、ただのたわごとで終わりますようにっ