東宮御所は恐ろしく暗い場所だった。
今まで皇居とか東宮御所とか、とにかくそういう場所には縁がなかった。
だから暗いも明るいもない筈なのに
門をくぐったその瞬間から身震いがする。
「やっぱり緊張する?そりゃあそうよね。日本で一番偉い場所だもの」
広々としたセダンの後ろ座席にゆったりと座った女性が言った。
「先生、今、震えたでしょ。わかるわ。その気持ち」
オーノは(それは違う)と思ったが、言葉では
「そりゃあ、我々庶民には遠い存在ですし」と言った。
気をよくしたのか、彼女は「そうなの。でも私達も準皇族だから」と自慢げに言う。
「準皇族」などという言葉があるのか、そこらへんの知識は全くない。
ただ、目の前の女性がふふっと笑って、その笑顔を見た時
(病んでるよな)と思ったくらいだった。
今時の日本でこんなにこんもりとした緑に囲まれている屋敷があるだろうか。
それなのに緑が全て真っ黒に見えるのだ。
初夏の光を浴びて美しい筈なのに。
税金で暮らしているんだよなあ。
皇室に対する尊敬の念など持った事のないオーノは
軽い嫉妬と妬みの感情に襲われたが、それを必死に顔に出さないよう努力した。
まあ、自分がどんな表情をしようとも隣の女性は気づかないだろう。
そんな女だ。
やがて車は広い玄関に止まり、女官や侍従の出迎えを受けて、二人は車から降りた。
「いらっしゃいませ。イケダ様」
女官長が無表情で会釈する。必要最低限の会話しかしない・・・と心に決めているようだった。
「お姉さまに伝えて。先生をお連れしたって」
「畏まりました」
女官長が去り、二人はプライベートスペースの一室に入った。
公人が来てもいつでも対処できるように、東宮御所はいつも完璧に掃除されている。
チリ一つない・・・筈なのに、どういうわけかピカピカ感がなく、どんよりしている。
空気がくぐもっているというか、息苦しいというか。
すれ違う者がいない長い廊下。声を出してはいけないような雰囲気。
これが東宮御所というものなのだろうか。
やがて、女官に付き添われて・・・・・入って来た女性。
それが皇太子妃だった。
そろそろ暑い時期に入ろうとしているのに、とっくりセーターのようなものを着て
ストライプのパンツスーツを着ている。
不機嫌さを隠そうともせず、部屋に入っても視線は妹に集中した。
「一体、何の用事なの」
「まあ、お姉さまったら。可愛い妹がご機嫌伺いに来たのよ。もう少し優しく出来ないの」
レイコはむくれた顔で言ったが、マサコは取り合わなかった。
「お父様が心配しているのよ。お姉さまがずっと東宮御所にひきこもりになって
このままでは本当に体を壊すって」
「それはそれでいいんじゃないの」
「よくないわよ。お姉さまは病気なの。気が付かないうちに病気になってるのよ」
「どこが」
「よくわからないけど心が風邪をひいているんじゃないかって。だって変でしょ。
ご自分の部屋から出て来ないし、電話にも出ない。回りにはドアの隙間から
メモを渡すような事してるし。可哀想にアイコだってほったらかしで。
いつもベッドに寝てるんですって?そんなに体調が悪いの?
熱があるわけでもないし、検査をしても異常がないって。だからきっと心の病なんだろうって
思うのよ。それでね、今日、オーノ先生をお連れしたの。
先生はケイオウ出身で私どは同窓生になるわ。アメリカで主人と知り合ったの。
権威ある精神科の先生よ」
マサコは初めてオーノを見た。大きな瞳だった。どこか狂気をはらんでいるような気がした。
「お・・オーノです」と名刺を渡す。
名刺をじっと見つめるマサコはひどく嬉しそうだった。まじまじと名刺を見つめる。
「どうしたの?先生がご挨拶しているのよ」
「だって、名刺を貰うなんてなかった事だもの。この10年ずっと」
どうやらマサコは「名刺」を受け取って「社会人」として認知されたような気になってるらしい。
マサコの瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
「お姉さま」
レイコが驚いて叫びそうになるのをオーノは手で制した。
「おっしゃりたい事をおっしゃってください。イケダさん、外に出て」
レイコは言葉もなく、慌てたように外に出て行った。
「暫く、誰も入れないで下さい」
後姿にオーノはそう言い、マサコの手をとった。
「どうぞ、今のお気持ちを全て吐き出して下さい」
子供のように泣きじゃくっているマサコは頷いた。
「みんな意地悪。みんな嫌い。少しも私の事をわかってくれない。
誰も私を大事にしない。嫌いな事ばかりさせる。そして出来ない出来ないと
ぎゃあぎゃあ怒る。最悪。最低。
好きで結婚したんじゃない。好きで子供を産んだんじゃない。
私は外務省にいたかった・・・」
それから先はもう、延々と2時間以上、同じ事をしゃべり続けていた。
時には泣き、時には怒り、叫んだり。
これが今までテレビで見てきた皇太子妃の本性だったのかと。
オーノは頭を抱え込んだ。
「出来る事から始めましょう。毎日、日記のように、今日出来た事を書くのです。
まず自分を受け入れて」
彼が行っている認知行動療法は「うつ病」に効果的であると信じている。
しかし。
一通りの話を終え、またレイコが呼ばれ、今度は3人でお茶を楽しんだ。
さっきまでのマサコは別人だったのかもしれないと思う程、
快活になっている。
「先生の話を聞かせて」
「いや・・・」(何を話せと・・・)
「どうして精神科を選んだの?」
「それは手術が嫌いだから」
記憶の中に嫌な影が蘇る。
「まあ、それは冗談ですが。私の持論は心が病気になると
体の病気も治らないというもので。要は心というのは目に見えないものですが
非常に重要な部分です。
日本は長い間、精神医学に関しては世界から後れを取ってきました。
やっぱり日本人の習性なんでしょうね。
怠けられないと思えば必死に頑張る。頑張りすぎて疲弊してしまい、それが
目に見えない体調の悪化につながるのです。
自分を認められず、許す事が出来ず追い込んでいくんですね」
「そうそう。そうなのよ」
マサコは大いに頷いた。
「でも、世の中、精神科医と歯科医と美容外科医は医者じゃないという事ですし
それでも美容整形などは儲かるからいいけど、精神科は・・・・」
「そんなのおかしいわ。心のお医者様こそ沢山収入があるべきよ。まして
先生はケイオウを出ていらっしゃるし留学までしていらっしゃる学者様だもの」
「いやいやなかなか・・・・」
脳裏に浮かぶ言葉。
(あいつ、医者になるなんてすごいなあ。さすがだよ)
(医者ったって精神科医だぜ。鉄格子ついた部屋で気が狂った人間を相手にしているんだろ。
そんなの医者じゃないよ)
(まあ、悩み聞いて薬処方すればいいんだから楽だよな)
(うまくやってるよ。あいつは全く)
いつかの同窓会でそんな話を耳にした時の嫌な気持ちが蘇る。
それからなかなか認めて貰えない「認知行動療法」の事も。
医者になったといえば聞こえがいいが、結果的にみな、同じような事を
思っているのだ。
「ところで、先生、姉の状態はどうですの」
唐突にレイコが話題を変えた。
「は・・はい」
オーノは言葉に詰まる。
(どう考えても反社会性人格障害などとは言えない。よく見積もっても
自己愛性人格障害としか・・・ミュンヒハウンゼン症候群を起こしかねない)
「どうなさったの」
「いや。あの、こんな事を申し上げてはなんですがお身内に精神疾患の患者が
出たというような事は?」
「まあ先生ったらなんてことを」
レイコが怒った声を出したので、オーノは黙ったが、そこをマサコが庇った。
「先生は医師として聞いているの。どうかしら。私達の家系でそんな人いた?」
「いるわけないじゃない。オワダもエガシラも優秀なんだもの」
「ははは・・優秀で生真面目すぎる傾向があるようですね」
オーノのお世辞に姉妹は喜び、くすくすと笑った。
ただ、今姉妹を見た感じでも、爆発しやすい性格なのは明らかであるし
話に脈路がなかったり、話題を継続していけない事などから
コミュニケーション障害も違われる。
どれもこれも、環境によってそうなったというようり、元々持っている
気質のように感じる。
そういえば・・・・今まで関心がなかったから何も知らなかったけれど
内親王は「自閉症ではないか」と疑いがあったのでは?
そうなるとますます遺伝的傾向が。
「で、どんな病名がつきますの?」
レイコが尋ねた。
要はそこか・・・・と勘のいい医師は思う。
ここで、変に「うつ病」だの「〇〇障害」などと診断すればまずいという事かもしれない。
言葉を慎重に選ばなくては。
「そうですね・・・病気・・・といえるかどうか・・・」
「病気ですよ。だってこんなにやつれて。毎日部屋に閉じこもりきりなんですよ。
私の前でだってさっきのように泣いたりして」
「ああ・・そうですね。病気ですね」
「うつ病なんでしょうか」
「うつ病・・・・といえなくも」
「でも、そんな名前を公表したら偏見を持たれるわ」
マサコが今にも泣きそうな顔で訴える。
「気持ちが沈みこむと何もできなくなるんです。私、ネットで調べました。
これはうつじゃないかって。私みたいなタイプに多いんですって。
それはそうでしょう?
女であっても私はそこそこ学歴もあって自己実現したいと思って生きて来たんです。
まさか皇室に入ってお飾りの役目をさせられるなんて思いもよらず。
毎日針のむしろです。
私の存在なんてどうなってもいいんだわ。誰も私を認めてくれないのよ・・・」
「妃殿下、落ち着いて下さい。そんな風に思い詰めないで心を自由にして」
「でも、先生!私がうつ病だって世間に知られたら、私、どんな目で見られるか」
「・・・・・」
何となくやらせの芝居を見ているような気がする。
いや、自分もまた登場人物の一人だった。
「そうでしょう?」
「ではどんな病名にいたしましょう」
「・・・皇室嫌い病とか・・自己実現なんたら病とか・・・ああ、もうわからないわ。
結果的にこの環境が大嫌いなんです」
「では適応障害というのはいかがでしょう」
「てきおう・・障害?」
マサコは聞いた事ない名前に少し驚いた。
「環境に適応できない為に急性として起こる障害です。
症状は人によって様々ですが、環境を変える事で完治する・・・という。
治療の一環として休養、それから自分のライフワークを見つける努力をする
という」
「それで決まり!」
マサコは叫んだ。
「適応障害にしましょう。私に公務が出来る?」
「嫌な事をいやいややっていると症状が悪化するので、今は好きな事を好きなだけ
おやりになって下さい。軽い睡眠薬で不眠症は回復するでしょう」
「ああ・・・心からほっとしたわ」
マサコは安堵のため息を漏らした。レイコも笑った。
「これで偉そうなカナザワをぎゃふんと言わせてやれるわね。
あの医者が何と言っても無駄よ。こちらには皇太子妃の専属医がついているんですもの。
お姉さまはオーノ先生しか信用しないわよね」
「ちょっと待って下さい。専属って・・・」
そんな話は聞いていなかった。
自分としては患者の言いなりになって診断をつけた事にかなりの罪悪感を抱いていたし
出来ればこれきりにしてほしかった。
がんのように目に見える疾患なら白黒をつけやすいのだが、精神医学の場合
どこまでもグレーゾーンである。
まして「悩み聞いて薬処方して金貰って」と陰口をたたかれる精神科の世界で
患者の言いなりになったとしられれば大問題。
学界の信用にかかわる。
「名前を借りるだけよ。普段はつききりじゃなくていいわ。ただ、私の具合が悪い時は
付き添って欲しいの。私は先生を信じるし、全力で先生をバックアップする。
絶対に損はさせないわ」
皇太子妃の専属医・・・・・麻薬のように魅力的な肩書だ。
これさえあれば医学界において自分の名声が高まる。
運が自分に向いて来た事を彼ははっきり悟った。
「承知しました。妃殿下のおおせのままに」
後に日本一有名な精神疾患名となる「適応障害」
思惑絡みの医師と患者が決めた病名。
最初は誰もこの病名を知らなかったし、信用もしなかった。
しかし、「皇太子妃を苦しめる心の病」という肩書が一人歩きしはじめ
やがて若い女性中心に適応障害の診断を受ける者が続出していく。
本当は誰もその病気の実態を知らなかった。
オーノ自身、この診断名が定着しようとは思いもせず。
この病名がやがて「自分に都合のいい精神病」の代名詞になるとは・・・・・
精神医学界に大きな傷を与えた事をオーノは気づかなかった。