7月になり、学習院大学のOBによる定期演奏会の日。
本当に久しぶりに鑑賞したノリノミヤの為に演奏されたのは
メンデルスゾーンの「結婚行進曲」
秋に挙式を控えた宮へのプレゼントだった。
この演奏会には皇太子も出席し、ヴィオラの腕を振るったのだが
その後は二人ともよそよそしく挨拶をし、並んで演奏を聴いていても
ほとんど会話をしなかった。
皇太子はどこか上の空で、他の事を考えているように見える。
それがわかるからノリノミヤもあえて会話をしようとしなかった。
皇太子を上の空にしている原因は、あと10日ほどで始まる
万国博覧会だった。
皇太子が名誉総裁である以上、必ず現地へ行かなければならないのだが
皇太子妃の気分が定まらず、予定を組む事が出来ないでいるのだった。
いわゆる「適応障害」の為、予定を立てられると負担だ、時間に追われると
負担だ、決まりごとが多いとプレッシャーになり落ち込む等々
週刊誌等を通じて、「心の病」という錦の御旗を見せつける皇太子妃の
振舞は日々ひどくなる一方だった。
皇后は朝一番で全社の新聞を開き、皇室の記事に関して確かめる。
当然、週刊誌などの見出しも見るわけだが、その見出しに一喜一憂しては
ため息をついている。
かつての自分と同じ病である・・・と報道されれば
「そうだ。あの頃は本当に苦しかったし悲しかった」と反芻する。
爵位を持たない家の出身であるがゆえに、皇室に入った時から
自分だけ浮いているような感覚を持ったあの日。
一々「これがしきたり」と言われて、でもどこに理があるのか
さっぱりわからず右往左往したあの頃。
皇室は皇后にとって未知の世界そのものだった。
いつまでも慣れるものではない。だからこそ、殊更「皇太子妃」として
必死に振る舞って来たのだ。
だが、どうやら皇太子妃は「必死に振る舞う」事すら出来ないらしい。
もしそうさせたのが自分だったら・・・・と思うと皇后は怖い。
とはいえ、今まで頑張って「戦後皇室の象徴」として完璧な「皇太子妃像」を
作り上げて来た自分の足元が崩されていくような感覚も怖い。
どちらにせよ、うまくいかない事に皇后は激しく傷つき、さらに皇太子妃を
傷つけてはいけないと思うのだった。
そんな母を見ているとノリノミヤは結婚などせずにこのままここにいたいと
いう衝動にかられるのだが、
「お前は自分の幸せだけを考えなさい」とアキシノノミヤが言うので
かろうじて何事もないようなふりをしている。
最近の皇后は「どうしてもクロちゃんじゃなきゃダメだったのかしらね」と
いうようになった。
「あなただったらもっと・・・」といいかけてやめる。
それを口にするのは皇后のプライドが許さないらしい。
「家柄のいい所に嫁いだからって幸せだとは限らない」
それは天皇の姉達を見ていればわかるではないか。
しかしとも思う。天皇家の皇女ともあろう者が旧皇族からも旧華族からも
相手にされなかったとあっては、それはそれでさらに傷つく。
だからヨシキとの結婚は娘が望んだ事なのだと皇后は思いたいらしい。
無論、そうなのだが、ノリノミヤとしては母がどうしてそこまであれこれ
細かく考えるのか今一つよくわからないのだった。
小さい頃から「将来降嫁する」という事を前提に育てられてきた。
今、持っている全ては借り物なのだ。
だから全ておいて行こう・・・と宮は考えている。
本当の自分は何も持たないただの人間なのだ。
これからクロダヨシキという人と一緒に一から作り上げる。
サヤコという人間を。
内親王という身分は借り物。だけど祭祀や公務に関して
手を抜いた事は一度もない。
ちっぽけな自分ではあるけれど、皇族として生活をさせて頂いているのだから
と考えてきた。
それなのに、どうしてそういう考えをマサコに伝えられないのだろう。
理想の母だったのに、何もかも完璧な母だったのに、
それもこれも表面的な事だったのかなと思い始める。
しかも、皇后は、政府が立ち上げた皇室に関する有識者会議に
非常に期待しているようなのだ。
ノリノミヤの婚約直後に立ち上がった有識者会議は
将来、皇統が絶えかねない現状を打破する為にどうしたら
いいかと考える会議だった。
東宮家の一人娘であるアイコには皇位継承権がない。
男子は皇太子と弟のアキシノノミヤである。
男系の男子を貫けばアキシノノミヤの代で皇統は絶える。
アキシノノミヤが天皇になった時、改めて「女帝」を考えても
アイコに皇位は行かない。
ゆえに、今、有識者会議が立ち上がったのだ。
天皇も皇后もこの件に関しては何も話さなかった。
「天皇というものは政府の要請なしに動かない」事を理由に
放置しているようにも見えた。
国連のオガタサダコは皇后の友人だった。
彼女が有識者会議メンバーに入った事で、情報はおのずと入って来る。
言葉に出さなくても天皇も皇后も皇室典範の改正には賛成しているようにも
見える。
「少し変わるかしらね」と時々皇后が言う。
一体、何を期待しているのだろう。
「わかってはいるの。本当にわかってはいるのよ。だけどサーヤは
誰よりも長く私の傍にいてくれて。生まれた時からどんなに大事に大事に
育てて来たか。日本一の貴婦人として立派に育ったあなたが・・・・・
35年もの長い間、内親王だったあなたが」
そこから先が続かない。
いくら娘といえど身位の差は無視できない。
これからは御用邸に泊まる事も、御所で深夜まで語らう事も
許されないのだ。
この所、本当に憂鬱な顔をするようになった皇后。
そして、今頃、東宮御所で妻はどんな風に過ごしているのだろうと
やきもきしている皇太子。
「内親王と東宮」としての最後の演奏会なんだから、一緒に来るべきでは
なかったのか・・・などと言っても無駄だ。
ミヤは早く帰りたい衝動にかられて、必死にそれを隠していたのだった。