その文章を読んだ時、天皇も皇后も言葉も出ず、唖然茫然とするばかりだった。
互いに顔を見合わせ、どちらが先に言葉を発するだろうとさぐりあうかのような。
あまりの静寂に、隣室に控える女官達は何かあったのか?と勘繰ってしまう程だった。
「慢性のストレス因子などが原因になっている場合・・・・というのは皇室の環境の事かね」
天皇はうなるように言った。言葉の端々に多少の怒りを感じる。
「皇室というのは一種独特な環境ですから」
皇后はそう言って見解文に目を落とした。
「発症に影響した環境面のストレス因子を積極的に取り除き、
ご活動の範囲を広げていっていただくことが大切になります・・・これが医者の言うことかね。
発症に影響したストレスが原因なら離婚すればいいのに」
「陛下、トシノミヤがいるのですよ」
皇后は厳しい顔つきで言った。
「どんな母親でも娘は可愛いものです。今だって何とかトシノミヤを元気にさせようと
努力しているのではありませんか。環境のストレスというならそれは皇室ではなく
トシノミヤの事でしょう」
「だったら療育すればいいだけの事だ。どうも東宮を見ているとただ単に隠したい
だけではないのかと」
「当たり前です」
皇后は少しむきになった。
「子供、特に初めての子供を育てるのは母親にとって大きな圧力です。
陛下のお子を間違って育ててはいけないというプレッシャーは計り知れません。
私だって」
「ミーだって?」
「色々悩みましたもの」
「そうはいってもね。不満たらたらではないの?出産後に公務をしたからとか」
「回りが配慮しなかったのですわ。私達と時代が違うという事を回りが理解しなかった」
「随分とさっきからミーは庇うんだね。皇太子妃を」
「いいえ。そういうつもりはありません。ただ、女の気持ちというのは女にしかわからない
ものです。殿方にはどうしたって」
そういう風に言われるとなにやら罪悪感にかられる天皇はおしだまる。
皇后も言葉をきってお茶を飲む。
この見解文を読み、皇后の心に去来したもの。
それは苦しかった「過去」
請われるままに皇太子と結婚した。あの時は若かったし怖いものがなかった。
どんな環境でもやっていけると自負していた。
裕福な家に生まれたお嬢様で終わりたくなかったから学問を身につけた。
美しさだけは天性ものだったけれど。
本当に努力したのだ。
努力しても認められた事はなかったと思う。
そもそも「努力」を顔に出す事自体「センスがない」と言われてしまうのだから。
それでも皇后は闘って来た。いつか頂点を目指す・・・・到達する・・・その日まで。
しかし、この若い(皇后からすればである)皇太子妃はそれほど打たれ強いわけでも
なさそうだ。
「だけどやっぱりこの医師団の見解はおかしいと思うがね。
診察なんかしていないんじゃないか?ただの言い訳だよ。
これでは皇室と宮内庁が悪者に見えるじゃないか。医師団ときちんと話すべきだ。
今後の事もあるしね」
「それはおやめになった方が」
皇后はやんわりと止めた。
「そんな事をしたら東宮妃が傷つきますわ」
「傷つくだって?」
「ええ。自分達の主張が間違っていると真っ向から言われて傷つかない人が
いますか?ましてや陛下に」
「だって事実だろう?」
「けれど事実を明らかにすればいいというものではありませんわ。東宮妃は東宮妃なのです。
メンツを守ってやらなくては。たとえこれが医師が書いたものではないにしても
東宮職から出されているという事は、つまり承認されている訳ですから」
「じゃあ、どうするんだい?」
「何も。今は何もできません。黙って見守るしか」
「しかし、こんな馬鹿にした文章を国民が受け入れると思うかね」
「受け入れているじゃありませんか。この文章に関してどこからか抗議が来ましたか?」
問われて天皇はまた黙る。
「それよりも私達が気にしなければならないのは、どうやったら皇太子妃が心を開いて
くれるかという事。今は閉じているのです。心を閉ざしているから、疑心暗鬼になっているのです。
主治医がきちんと投薬をしていると書いてあるんですもの。きっと大丈夫です」
「いつになったらその疑心暗鬼が解けるのかね」
「さあ・・・それは私にもわかりませんが」
「時間がないのだよ」
天皇は苛立った。さっきから妻が嫁の味方ばかりするのが気に入らない。
皇統の問題はそんな軽い話ではないのに。
「そうはいっても、皇太子妃に今さら子供を産めとはいえませんでしょう。もう40を
超えているんですもの」
「だからどうしたらいいかと悩んでいるんじゃないか。その事に比べたら・・・・・」
「アイコがいるではありませんか?」
微笑んだ皇后のセリフに天皇は思わず「え?」と腰を浮かしそうになった。
一瞬、妻にも老いの症状が?と思う程に。
「ミー、皇統は男系の男子と決まっている」
「アイコは男系女子です。男系女子の即位は過去にありました。ですから珍しくないのでは」
「ではその次はどうなるんだね。あのアイコが普通に結婚して・・・いや、内親王の即位は
独身と決まっている」
「それだって皇室典範を改正すればすむ事です。だって本当にこんな事態はない事ですもの。
大昔のように皇室の状態によって法律を変える事が出来る時代ならよろしいけど
今は」
「アキシノノミヤがいる」
「男女の間で差別する事を国民が許すでしょうか」
静かに皇后は言った。
「ことここに至っては流れに任せるしかないのでは?何かに拘って尾を切るような真似は
しない方がよろしいかと」
一言も言い返せなかった。もうすぐ70になろうとする天皇には。
マサコの誕生日は散々だった。
前日に、皇居に里帰りしたサヤコを交えての夕食会には出席したのに
その日は朝から「風邪気味」と言い出し、誰一人会う事が出来なかったのである。
事前に連絡でもあればみな無駄な外出をしなくてよかったのに
当日の朝になって突如「風邪」と言われたものだから、周囲は大慌てとなる。
風邪気味であっても風邪かどうかはわからない(侍医に見せなかったので)
ただ、延々と部屋に引きこもるマサコに、みな必死で声をかけたら無駄だった。
一応、学友と呼ばれた人たちや、学校などで世話になった人達も好きか嫌いかは
別にしてかけつけてくれたのだが、その誰にも会う事がなく、門前払いとなってしまった。
東宮職は謝る事もしなかった。
彼らはもう次からは絶対に来ないと心の中で誓ったろう。
こんな無礼千万な皇太子妃は初めてだった・・・・しかし、世間はまだ騙されている。
一番迷惑をこうむったのは天皇と皇后だった。
定例の「誕生日夕食会」の為に2時間も前から着替え等を済ませ、出発する為に
待機していたのに、夕方5時になって突如「夕食会中止」の連絡が来たのだから。
さすがの天皇は不快のあまり、表情をこわばらせ、自分の部屋にぷいっと入ってしまった。
残された皇后は「大丈夫かしらね」といいつつ、「スープを届けるように」と
大膳に指示をするのだった。
その気遣いに、侍従も女官もみな、涙を流さんばかりに感動したのだった。