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彬子女王の手記  1

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 文芸春秋7月号にも

「彬子女王 母には三笠宮両殿下にお詫びして欲しい」という手記が載るようですが

こっちはブログに載ったもの。

雑誌とブログでここまで・・・・・と。宮内庁は結局止める事が出来なかったのですね。

以下の文。敬語の使い方がおかしい部分は赤で記します。

「仁親王殿下薨去から3年

「父からの最高の贈り物ー三笠宮家との絆」

 タイトルからしてもう 一体何なの?「三笠宮」を名乗っているのにあらためて

「三笠宮家との絆」っていうと、本当に上から目線のプライドを感じる。感じすぎます。

 

 この6月6日で父の死から3年を迎える。

   私にとって父の死は、覚悟していたようで、まったくできていないものだった。

   正直言えば、未だ失ったもののあまりの大きさに戸惑いを覚えているほどだ。

   でも、父は最後に私たち姉妹に最高の宝物をくださった。

   それが今の私たちを支え、力を与えてくれている。

   その宝物、三笠宮家との絆を、父亡き今、

   大切に育んでいくことが残された私たちの定めと思っている。

 まずしょっぱなから「殿下が亡くなるまで、三笠宮家との絆はなかったんですか?と問いたいです。

  親しみをこめているんでしょうけど、この場合、「父」ではなく「仁親王」とお呼びするべきかも。

  「父」に対して「三笠宮家」は「祖父母の家」になるわけで。

  曖昧な敬語の羅列が苛立たせるんですけど。

 要約すると

「父の死は覚悟していたけど、いざ本当に亡くなってみると、その気持ちをあっさりと

覆す程悲しみにくれてしまい、今もまだ続いている。

父が最後にくれたもの。それは私達姉妹のルーツである「三笠宮家」との絆であると思う」

こんな漢字でしょうか?

 

 父を亡くし、母は病気療養中でご不在という状況で取り残された私たちに、

   手を差し伸べてくださったのは、三笠宮家の方々だった。

   ちょうど3年前の今頃のこと。父を失った悲しみに浸ることもできないほど

 毎日さまざまな儀式があり、

 右も左もわからない状態で、

  ひっきりなしに来られる御弔問のお客様に対応をしていた仁親王邸では、

  当然のことながら些細な失敗が繰り返されていた。

  それをどうするかの判断に追われ、本当に訳がわからなくなってしまった私は、

  恥ずかしながら一切の思考がストップしてしまい、廊下で立ち尽くしてしまっていた。

  そんな私に「しっかり!」と声をかけ、お客樣方へのお茶の準備の指示をしてくださったのが、

  父の姉である近衞の伯母だった。

  また、父の妹である千の叔母も、自ら伯母と共にお茶出しをしてくださった。

  そのおかげで仁親王邸は無事その日の行事を終えることができた。

  その時ほど親族のあたたかさを感じたことはなかった。

 なぜ母の「御不在」という書き方をするのか全くわかりません。

   皇族なのに敬語と謙譲語がわからないってどういうこと?

 ここでわかる事は、葬儀を取り仕切るべき「当主の妻」の不在。代わりに

   取り仕切ったのは娘。しかし影の立役者は近衛庸子氏と千容子氏だった。

  「近衛の伯母」「千の叔母」という言い方も今一つで。間違ってはいないけど。

  「近衛家に嫁いだ伯母」とか「千家に嫁いだ叔母」とか・・・そういう言い方は出来ないかな。

 ちょっと、父が亡くなった時を思い出しました。

  すごくよく似ていると思います。

  私はまだ21歳で、喪主の母は頼りにならず右も左もわからない私が葬儀を取り仕切るにあたり

  口を出したのは母方の親戚連中で。

  こういう人たちに取り込まれたのか?とちょっと・・・・・

  だって本当の親族なら「お具合が悪いと言ってもお母様なのだから、こちらに来て

  戴くのが筋ではありませんか」と進言すべきでしょう?

 父を亡くし・・・って「父の葬儀」だもん。当たり前じゃん。

 要約すると

「母が病気療養中で不在であった為に私が一切の取り仕切りをしなくてはならず

 そのせいで数々の失敗をやらかしてしまった。

 その時に助けてくれたのは二人の伯母・叔母であった。

 おかげで弔問客にお茶出しをする事が出来たのだった」

 あーわかるわかる。こういう時、積極的にぶつかってくる人に弱いよね。

 「味方なんだわ」と思ってしまう。今まで疎遠だったのに急に優しくされると余計にそう思う。

 

 三笠宮家の長男として生まれた父は、将来三笠宮家を継ぐことになることから、

  宮号を賜らず、仁親王家当主として独立した生計を立てていた。

  本来であれば長男として、三笠宮家を支える立場であったはずの仁親王家だが、

  雑誌などに報道されたように、長い間三笠宮家の中で孤立した存在であった。

  その大きな要因が長年にわたる父と母の確執であった。

  私も妹も特別なお祝い事などを除いては、御本邸を訪ねることもほとんどなく、

  どことなくぎくしゃくとした雰囲気もあって、三笠宮家の方々と

  深く親交を結ぶことができなかったように思う。

  そんな家族の状況にも関わらず、父亡き後、葬儀のことだけでなく、

  私たち姉妹を様々な場面で面倒を見てくださったのが、

  祖父母や高円宮妃殿下を始めとする三笠宮家の方々であった。

  最近では皇室のしきたりなど、わからないことがあると、

  すぐに御本邸の祖父母を訪ねてご相談をさせていただいている。

  そんなとき、祖父母の口から語られる父や叔父、叔母たちの他愛もない思い出話は、

  かつての三笠宮家の姿をよみがえらせるものであり、

  私の知ることのできなかった父の姿を垣間見る本当に貴重な物語だ。

 いいのか?こんな事を暴露して。

  「両親の確執のせいで本邸と疎遠になた」と告白しているんですよ。

 基本的に彬子女王は、三笠宮家に生まれながら宮家の歴史、皇室の歴史に疎かったのでは

  ないかと思われます。理由は誰もそれを教えなかったからという話?

  彬子女王にとって「父」は皇族というか「皇族という職業についている人」くらいの認識だったのでは?

 父と母の確執(つまり仲違い)がどうして長老殿下と疎遠になるのか。

  個人的に、最初に仁親王と三笠宮殿下の間に「疎遠」が生じたのだとすれば

  それは例の「皇籍離脱」宣言のあたりではなかったかと。

  当時はまだ彬子女王は生まれていなかったっけ?

  印象ですけど、三笠宮は桂宮ともそんなに仲がいい・・・というイメージはありません。

  桂宮家創設の宴には三笠宮殿下はいなかったし。

  仁殿下も桂宮も、学習院時代に「皇族」である事に関して随分嫌な目になったでしょう。

  つまり、そういう「血筋」に関して親に責任転嫁するような事があったのではないかと。

 祖父母あら昔話を聞いて「へえ、うちってそんな立派な家だったんだ」と初めて知り

  プライドを強く持つ。

  宮家として格下であっても、今では「長老」と言われる程古い家なわけだしね。

  それが生きるステイタスになったのかもしれませんね。

   30になるまで皇室のしきたりを祖父母に聞く必要がなかった生活ですか・・・・・

 

 三笠宮家の方々以外にも、父の死に際して様々な方からお力添えをいただいた。

  天皇皇后両陛下から賜ったあたたかいお言葉は、

  どれだけ感謝を尽くしても尽くしきれないほどの

  大きな心の支えとなった。

  皇太子同妃両殿下、皇族殿下方から日々いただくお心遣いが

  どれほどありがたかったことだろう。

  また、斂葬の儀を始めとする一連の葬儀にあたっては、宮内庁職員、宮家職員、皇宮警察、

  警視庁の皆が真摯に、それぞれの役割を超えて「殿下のために」と準備をしてくれた。

  皆の気持ちに頭が下がる思いでいる。

 この一件に関して秋篠宮家と常陸宮家は全くの無関係だという事がわかりますね。

  宮内庁らには上から目線。どこの御姫様だ?って感じです。

  

 


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