(3)東南アジアとの和解の70年
ア 東南アジアとの和解の70年
1945年に第二次世界大戦が終結してからの10〜15年間は、
東南アジアにおいて各国が独立を達成し、
民族自決の機運が盛り上がりを見せた時期であった。
東南アジアは19世紀末までにタイを除き全ての国が欧米により植民地化され、
第二次大戦中は日本の支配下にあった。
したがって、東南アジアの国々にとっては、独立時の喫緊の課題は経済発展を成し遂げ、
名実共に自立することであった。大戦後、世界は自由主義体制と
社会主義体制の間で冷戦に陥った。
しかし、東南アジアでは体制選択の焦点は共産主義と民主主義ではなく、
いかに国家建設・経済発展を実現するかにあった。
こうした状況下、東南アジアでは独裁的な政権が上から国家建設・経済発展を
推進しようとする開発独裁型国家が相次いで誕生した。
1957年のタイにおけるサリット政権の誕生、1965年のシンガポール独立と
リー・クアンユー政権の発足、同年のフィリピンにおけるマルコス政権誕生、
1966年のインドネシアにおけるスハルト体制の成立と、
東南アジアの多くの国々で上からの国家建設・経済発展が選択された。
その一方、インドシナは冷戦の時代、事実上、
戦争が続き、本格的な経済発展は冷戦終焉以降に始まった。
日本は東南アジア諸国と賠償、準賠償協定を締結し、和解を進めた。
経済発展を最優先事項とした当時の東南アジア諸国にとって、
日本からの賠償、その後の経済協力は極めて大きな意味を持ち、
日本と東南アジアの和解に大きな役割を果たした。
また、日本企業も、1970年代以降、東南アジア諸国への直接投資と技術移転、
さらには国境を越えた生産ネットワークの展開によって経済の相互依存関係が進展し、
経済分野を中心に人的交流が活発化し、国民間の和解が進んだ。
しかし、1970年代には、東南アジア諸国で日本の経済進出に対する反発もあり、
これが1974年の田中首相の東南アジア歴訪時の反日デモ、
反日暴動につながった。こうした動きに対応して、
日本は1977年、福田首相が「福田ドクトリン」を発表した。
「福田ドクトリン」は、日本が軍事大国にならないこと、東南アジア諸国との間で
「心と心の触れ合う相互信頼関係」を築くこと、
東南アジア全域の平和と繁栄に寄与することをうたい、
東南アジアの国々に大きな安心感を与えた。
また、同年に立ち上げられた日・ASEAN首脳会議は2014年で17回目を迎え、
1970年代からこれまで脈々と強化されてきた
日・東南アジア関係を象徴する存在となっている。
日本との間で第二次大戦中の慰安婦問題が存在したフィリピン、
インドネシアとの間では、1990年代のアジア女性基金の活動により、
同問題に関する和解は大きく進んだ。
このうちフィリピンでは、アジア女性基金から償い金が支払われ、
日本政府による医療福祉支援事業が実施され、
そして首相からのおわびの手紙が被害者の方々へ渡され、
インドネシアでは高齢者社会福祉推進事業が実施されたことにより、
慰安婦問題に起因する反日感情は大きく和らぐこととなった。
日本ってひどい国だよね。
イ 東南アジアとの和解の70年への評価
日本と中国、韓国との関係に比べ、日本と東南アジアとの関係は、
この70年間で大きく改善し、強化された。
この背景には、中国、韓国の国民の歴史において戦争、植民地支配の
苦しい経験の中で、まさに日本が敵となっているのに対し、
東南アジアの国々の国民の物語の中では
、日本は主たる敵とされていないことがある。
日本の支配下、たいへん苦しい思いをした東南アジアの人々は大勢いた。
しかし、その前に長年にわたる欧米の植民地統治を経験していた彼らにとって、
日本は第二、第三の植民地勢力であり、
植民地支配と戦争の苦難が全て日本の責任であるということにはならなかった。
シンガポールのリー・クアンユー元首相が、
日本の第二次大戦中の行いにつき、
「許そう、しかし忘れまい(Forgive, but never forget)」と言ったように、
東南アジアの国々では大戦中に日本がひどい事をしたという記憶は残っている。
我々はこれに留意しなければいけない。第一次大戦後、
世界的に民族自決の動きが高まっていたにもかかわらず、
1930年代から日本はその潮流に逆らい帝国建設を進め、
アジアのナショナリズムと衝突すると同時に英米をはじめとする列強も敵にするとい
う国策上致命的な過ちを犯し、アジアの国々の国民を傷つけた。
インドネシアでは残留した日本兵が独立のために戦ったという事例もあった。
しかしながら、膨大な数の犠牲者が出たフィリピンやシンガポールをはじめとし、
東南アジアの人々の中にも、大戦中、日本によって自分の親族や友人を失い、
たいへん苦しい思いをした人が少なくないことを忘れてはならない。
日本と東南アジアの国々は現在、非常に友好的な関係をもっているが、
こうした経験は東南アジア諸国の国民の間で物語として今も受け継がれている。
東南アジアの国々は日本が戦後一貫して平和路線を貫き、
アジア諸国の発展に貢献してきたことを認識しており、
日本との関係をとても大事にしている。東南アジアの指導者からは、
「日本はどんな時でもサポートしてくれる。
それが一番大事である」という言葉をよく聞く。1
990年代後半にアジア通貨危機が発生し、
東南アジア諸国が破滅の危機にあった際、
日本は多額の財政支援を行い、これらの国々の経済再建に少なからぬ貢献をした。
最近の例で言えば、インドネシアのジョコ・ウィドド大統領が就任後初めて
訪問したアジアの国は日本であったし、
第二次大戦中に日本の戦場となり多数の犠牲者が出たフィリピンのアキノ大統領は、
来日時の国会における演説で、「先の大戦は我々全員にとって悲惨なものであり、
大戦がもたらした苦しみに対し、全ての人々がつらい思いを覚えました
。しかし、その灰じんの中から我々両国民の関係が不死鳥のようによみがえったのです」と
述べた。戦後70年の間をかけて東南アジアで育まれた日本への信頼を大事にしつつ、
同時に東南アジアの人々の心に残る大戦中のつらい思いに謙虚に向き合い、
我々は東南アジアとの協力関係を今後一層強化していく必要がある。
「たいへんつらい思いをさせた」
「たいへん苦しい思いをした」
「許すけど忘れない」
日本って本当に残酷な国だったんだなあ・・・・とこれを読んだ人は
間違いなく思うでしょうね。
私自身、本当に情けなくて国民をやめたくなるわ。