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文春・新潮編集室様へ  9

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 真の保守派が皇室に「NO」を突き付ける日 

 

 平成になった途端に湧き出した天皇への「NO」

最近、佐藤浩市主演の映画「64」が話題ですが、昭和64年というのは

6日間しかありませんでした

翌1月7日の早朝に昭和天皇がおかくれになったので、午前中からすでに

平成になっていたわけですね。

いつか来る日と覚悟はしていても、本当に昭和天皇がいなくなって今上の時代に

なった時、国民は何か変わった・・・と思ったでしょうか。

平成になった途端、週刊誌の見出しに変化が起こりました。

今思えば、あれが保守派の最大の「警告」だったのかもしれません。

 平成元年2月7日の「FLASH」には

「改憲派困惑!天皇陛下の「護憲」のお言葉の意外な波紋」

の見出しが。

 今上といえば「護憲」つまり「憲法9条」を守る宣言がはやばやと出されていたわけです。

当時はそれは「いい事」であると思っていました。

平和な時代にふさわしい陛下だと。

 平成元年2月10日週刊ポスト

「皇室の新権力と人事体制『美智子皇后の逆襲』と

言われる宮中某重大事件」

 内容はわかりませんけど「逆襲」と書かれている事が、今思えば「ああそうか」と。

 皇太后の兄が4畳半の部屋で亡くなったとか・・・そういう「栄枯盛衰」を考える時

 新しい皇后陛下は、昭和の在り方を全部否定したのかなと。

  どういう人事が行われたかわかりませんし、ここで書かれている「宮中某重大事件」が

 どんなものなのかもわかりません。

 (ご存じの方がいたらご一報を)

 でも、とにかく新しい両陛下はそういう風にしてスターとしたという事です。

 平成元3月10日週刊ポスト

「今国民がいちばん知りたい美智子皇后の

宮中民主化革命」の見出しが。

 宮中に革命を起こしたのは天皇ではなく、あくまで皇后であったという事。

  そしてこの時より、皇后はただ単にそう呼ばれるのではなく「美智子皇后」と呼ばれるように。

  昭和時代には考えられない事でした。

  皇族の名前というのはそうそうたやすく呼ばれるものではないのです。しかしながら

  「皇后」の前に「美智子」の名前がつくというのも一種の民主化革命だったのでしょうか。

  少し嫌味っぽい見出しですが。

 平成元年4月7日週刊ポスト

「新天皇夫妻を悩ます『礼宮の反抗』天皇家次男の

『皇籍離脱願望』

 多分、礼宮殿下の「結婚」問題ではなかったかと。

  当初、川嶋紀子嬢には反対だったのかしら?

  それにしても「天皇夫妻」と書かれることも、昭和時代にはありませんでした。

 この頃、礼宮の結婚に対して両陛下は「長幼の序」を説いたと言われています。

 両陛下の懸案は礼宮の結婚よりも皇太子の結婚であったわけで。

 それは当然と言えば当然でしたね。

 でも、この記事をきっかけに、もしかすると「お許し」が出たのかもしれません。

 この頃、マスコミは皇室に対して容赦ない書きようでした。

 無論、庶民には事情がわかりませんから「不敬」と思う口もあったかもしれませんね。

 平成元年8月に「礼宮の婚約」が報じられると、何かが大きく弾けたように

  「紀子ちゃんフィーバー」が起きました。

  川嶋紀子嬢がこんなに国民に受け入れられると、果たして両陛下は思っていたでしょうか。

  皇室からみれば「3LDK」のプリンセス、身分違いの結婚だったかもしれませんが

  国民の側から見ると「今時珍しい程古風なお嬢様ぶり」にくぎ付けになったんですね。

  しかも、このお嬢様は国民を不愉快にさせる事を一切なさらない。

  男女同権、雇用機会均等法世代ではあっても、礼宮の後ろに恥じらうように控える

  紀子さんを非常に好ましく思っていたんです。

 浩宮の妃候補は誰もかれも「お金持ち」で「帰国子女」系、ブランド品を着て

  風を切って歩くタイプばかりが報道された中、こんなにも紀子さんが愛された背景には

  日本人が望む「皇族妃」は、やっぱり「優しい笑顔」とか「恥じらう初々しさ」を持っている

  人だった事がうかがえます。

   こればかりは民族としての本能で、理屈ではどうしようもなかったのだと思います。

 平成2年5月24日女性セブン

「美智子様、晴れ着から髪型まで 

 異例の嫁姑愛「紀子ちゃんは私が守ります」

 これは微笑ましいエピソードとして語られているようですが、今思えば恐ろしい

  皇后の「女帝」ぶり。

 まず一つは「紀子ちゃんは私が守ります」の一言。

  多分、昭和時代に皇太后ら皇族から「いじめ」を受けたと思っていた皇后が

  そういうものから嫁を守りましょう・・・と決意した、「姑愛」にあふれた記事だったのでしょう。

  しかし、一方で「晴れ着から髪型まで」をアドバイスというより「命令」しているのも皇后なわけです。

 みなさんもご存じですが、納采の儀での帯は皇后から貸してもらったものですね。

  皇后の入内まで納采の儀に振袖を着る習慣はなかったのです。

  本来は洋装でもよかったのかもしれません。

  しかし、わざわざ自分の帯を下賜する事で皇后の財力と権力の強さを見せつけたのです。

 また「守る」という言葉は、皇太子が小和田雅子嬢と結婚するときにも使った言葉で

  要するに皇后の心の中に「皇室は敵」という思いがあったのかもしれません。

 平成2年6月21日女性セブン

「またこんな声が・・・紀子さんいじめ 

   美智子様の異例の嫁姑愛にやきもち」

 「また」とあるという事は、それ以前にも「紀子さんいじめ」があったという事ですね。

  「異例の嫁舅愛」という言葉の強調に皇后の「悪意」を感じます。

  ご自分は姑に愛されていなかったという事で、そういう「慣例」がなかったって話でしょう?

 

昭和天皇が亡くなって僅か1か月やそこらで批判的な記事が出始め。

でも、それも礼宮と川嶋紀子さんの婚約で全て吹っ飛び。

本当に礼宮と紀子さんは両陛下にとって「救いの神」だったのだろうと思います。

 

 

 

 


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