「どうしてあんなに機嫌が悪くなったんだろうね」
天皇はいぶかしげに皇后を見た。
皇后は首が痛いのか、時々曲げては揉んだりしている。
「そんなに痛いなら医師に診て貰えば」
「私、我慢する事に意義があると思いますのよ」
皇后は笑った。
「先ほどの話ですけど、葉山には一緒に行った方がよかったのではありませんか」
皇后は目線を落としながら言う。
冷えた紅茶の替えを持ってこさせ、一口飲んでは見たものの
心は別な所にある風だ。
「東宮妃は葉山に一緒に行けるものと思っていたんですよ」
「それはわかっているけど、どうしてあれらの為に私達が予定を変えないと
いけないの?ミーはわかってる?
アキシノノミヤ家もいたし、私達の天皇・皇后としてのメンツもある。
忙しい予定の中から侍従たちが必死に見つけ出してくれた予定を
なぜ変えなくちゃいけないの?」
「変えるのではなく、一緒に過ごせばよろしいじゃありませんか」
皇后は微笑んだ。
「あちらは付属邸なのだし。無理に顔を合わせる事もないでしょうし」
「どうしてそこまで言うの?」
天皇はかなり不機嫌になって、お茶をごくりと飲み込んだ。
どんなに不機嫌になって怒っても妻には勝てない自分を知ってはいるが。
「私は皇太子が心配なのです」
皇后は夫の目をじっとみつめた。
「東宮妃が病気になって以来、ひどく気落ちしてやつれ果てていますわ。
この度のアキシノノミヤ妃の懐妊で自分に自信を無くしていますのよ。
アイコもあのような状態ですし。
せめて静養の時期くらいは」
「東宮家はオランダへ行くんだよ」
天皇は少し声を荒げた。
「私達がいない間に勝手に決めてしまったじゃないか。
そもそも皇族が私的な外国訪問をするなんて考えられないよ。
国民がどう思うか」
「女王陛下からのお召があったのですわ。それに病気治療ですもの。
私も大昔に葉山に引きこもった事を思い出しました。
あの時の陛下はとてもお優しかったわ。
私にだけだったのかしら」
皇后はくすっと笑った。
「私ども、民間出身にとって皇室は大きな壁のように見える時があります。
何もかもうまくいかない時に自由にさせて下さって感謝しています。
東宮妃も同じでしょう。
オランダまで出してやれば、あとから「あれをしてくれなかった」「これもしてくれなかった」
と言われずに済みます。
今回のオランダ静養について私達は知らぬふりをしていればよろしいのです。
とはいえ、私は本当に皇太子が心配なのです。
あの子は昔の陛下とは違いますわ。気が弱くて・・・将来
天皇になるという重責に耐えて来たのですもの。少しでも肩の荷を軽くして
やる事が私達の仕事ですわ。
今は引きずられているように見えても、将来は必ず妻を導く存在になるでしょう」
「理想だね。とにかく今回は一緒は嫌だな。数日くらい、何も考えずに過ごしたい。
キコやマコ達ならいいんだがね」
「私はアキシノノミヤ妃の方がわかりませんわ」
少し涼しい風が入ってきた。
御所ではあまりエアコンを使わないようにしている。
節約の為でもあるし、あまり暑さを感じないからだ。
しかし、二人のいる部屋の空気はよどんで、こもっている。
それに気が付かないのは天皇と皇后だけだ。
汗をかかない二人には、空気の変化すらわからない。
「キコがわからないってどういう?」
「前置胎盤のような重大な事をさらりと言ってのけるのですよ。
だからといって東宮妃のように休むわけでもない。
普通通りに笑っているのです。一体何を考えているやら。
そんな事をされたら、私だって首が痛くても頑張らないといけなくなります」
そして「ああ、痛い」と言って肩をさすってみせる。
「もし、これで男の子を産んだら・・・・・それを思うとぞっとするのです」
「ぞっとする?」
天皇は驚いてまじまじと妻を見た。
皇位継承権のある男子を得られないばかりにどれ程の苦悩があるか。
もし男子を得る事が出来れば積年の悩みが吹っ飛んでしまうし
皇祖に対しても面目が立つ。
「ええ。ぞっとします。もし男子が生まれたら皇室に嵐が起きますわ」
真顔で言う。
「皇太子家に男子が生まれないというのは、つまり、皇位継承権を女子にも
与えるべき時が来たという事なのだと私は思います。
世の中の流れがその方向に向かっているのだと。
日本国憲法で定められた「男女平等」の思想が、皇室にも改革を
もたらすべき時が来たのだと思っていました。
ところが、アキシノノミヤ妃はその流れにまったをかけたのです。
時代の歯車を逆に動かそうとしているのです。
問題は、彼女に、いえ、宮にそのような事をささやいたのは誰かという事です。
昔から宮は兄には遠慮して育って来た子です。
それが僭越な事をするとはどうしても思えなくて。
何か吹き込まれたとしか・・・・・でも、生まれるのが女子だとしたら
それはそれで皇室にとって必要かどうかわからない子になりますわ。
私も昔、言われました。
「お子様は一人でよろしいの」と。
子供が育つ確率が低かった時代ではありません。
一人生まれればちゃんと成人出来る世の中ですから。
今は、仮にアイコがダメでもマコがいますしカコだっている。
もう必要ありませんわ」
淡々と、あまりにも淡々と語る妻の姿に天皇は言葉を失った。
「私達も歳です。嵐などに遭いたくありませんわ」
そして皇后は立ち上がると窓を少し開けた。
冷たい風が入って来る。
それでも一旦yどんだ空気を元に戻すのはなかなか至難の業だった。