ご公務の削減は困難
①国事行為は国家機関としての天皇が天皇の意思に関わりなく「内閣の助言と承認」により憲法で定められた儀礼的活動を行うもので削減できない。
例えば副大臣の認証式は列立にするなどのわずかな運用の余地はあったとしても。
②公的行為は天皇の意思(思召し)によって行われる。
いわば顔が見え肉声の聞こえる「人間天皇」(自然人)が皇后とともに国民や海外の人々と心を込めて接して積み重ねられる。
政府は憲法に定められた象徴の矩(のり)を越えないよう責任を持つが、政治利用は慎むべきもの。
いわば「自発的な運用」の問題であって、一律にスキームを決めて当てはめて削減・軽減するのは難しい。
天皇と補佐機関の宮内庁との間で適時適宜に「運用」を相談されるべきものでしょう。
③「その他の行為」(祭祀を含む)も、「運用」の問題として天皇と宮内庁で相談してお決めになるものです。
戦後、元首から象徴となった天皇は、行政権も軍の統帥権も恩赦権も失い、立法でも裁可権を失い公布権のみとなりました(佐藤功『君主制の研究』)。
国家機関としては内閣の助言と承認に基づいて憲法に定める国事行為のみを行う。
そこに天皇の意思の入る余地はなく、儀礼的・形式的役割に限定されています。
ただ、象徴の地位にある自然人としての「公的行為」が容認されてきた。
内閣の助言と承認は必要なく、天皇の意思(思召し)による。
「思し召し」も連発すれば「権力」になりうるという事がわからないかなあ?
現天皇陛下は、帝国憲法下の神勅にもとづく元首としての天皇よりは日本国憲法下の象徴のほうが伝統的な天皇のあり方に沿うとの考えを示されたことがある。
それが「強いお気持ち」連発なの?
戦後の象徴天皇の歩みは、「神勅天皇」「統治権の総攬者」だった昭和天皇が昭和21年のいわゆる「人間宣言」と「戦後巡幸」から再出発して始まりました。
現天皇も、その道を継承し発展させておられるのだと思います。
天皇の生身の顔も見えず肉声も聞こえない神格化された時代がありましたが、今は人間として天皇の面差しが見え、肉声が聞こえるご活動です。
天皇にとっても「国民」とは、のっぺらぼうの集団ではない。
一人ひとり名前と顔があり、様々に苦しんだり悩んだり喜んだりしている「市井の人々」(お言葉)です。
英語の「ピープル」の語感に近いかもしれません。
私も国内のみならず外国のご訪問などでも同行取材して、それを感じた場面は枚挙に暇ありません。
「お気持ち」の中で天皇陛下は、務めを果たすなかで人々への「信頼と敬愛」を育めたことに天皇の側から感謝されました。
人々への思いに寄り添い理解してこそ天皇の「祈り」にも内実がともなう。
これが「初代象徴天皇」の28年間の「模索」の結晶なのだと拝察します。
天皇にとって「公務」は負担だけではなく、象徴として生きる責務であると同時にやりがいでもあり、自らも力づけられる大切なものだと拝察します。
その意味で公的行為は、いわば天皇が皇后とともに精妙な綾錦を織りなすように積み重ねる多彩な活動です。
一律にスキームをあてはめて削減・軽減するのは難しい。
宮内庁もこれまで何度も陛下の公務削減を提案したが、陛下は難色を示されてきた。
象徴としての責任感によるもので、今後、削減したり途切れさせたりするべきではないとのお考えなのでしょう。
しかし次世代の「天皇」の公務はなし崩し的に少なくなり、「静養」も公務とか
「鑑賞」「海外旅行」まで公務になってしまいますが。
代々の天皇によってお考えやなさりようは変わり得る属人的なものという面もあるかもしれない。ただ、その意味からも、皇室活動の「運用」の問題であって、天皇と補佐機関の宮内庁とで相談して決めていかれるべきものだと思います。
ちなみに、天皇の行為の三分説は、私の印象としては昭和40年代後半頃に整理され明確化され定着したのではないかと思っています。
昭和天皇のご訪米の話が持ち上がった時期です。
当時、二つのニクソン・ショック、つまり日本の頭越しの中国訪問と金ドル交換停止(ブレトン・ウッズ体制崩壊)によって日米関係が危機に陥りました。
ニクソン政権と佐藤内閣、田中内閣との間で天皇の訪米計画が持ち上がりましたが、「天皇の政治利用ではないか」との批判があがり、金脈問題やウォーターゲート事件で更に強まりました。
宮内庁の側は消極的で、当時の宇佐美毅長官が断っていったん見送られ、野党も訪米のタイミングは「皇室の意向や宮内庁の判断」を政府が尊重することを条件に矛を収めました。
そして日米双方の政権交代後に実現することになりました。こうした経緯もあって、「公的行為は天皇の意思による」という契機が明確にされたのだろうと考えております。
従って、天皇の公的行為は政治が随意に求めることは遠慮するという不文律も定着したのでは
ないかと思います。
昭和天皇の時代はそうであっても、今上の場合、政府を主導して「左」思想に傾けようと
している節があるでしょう。
政府が求めてもいないのに慰霊をしたり、「申し訳ありませんでした」と謝ったり。
韓国へも行きたいらしいし。そういう事が国益にかなっているか。
要は「天皇の行動が国益にかなう」ものでないといけないのです。
昭和の頃はあらわにならなかった今上の「思想」が時代と逆行している場合、誰かが
それを止めなくてはなりません。
それは政府以外にはないのでは?
昭和50年(1975年)の訪米に関しては、それを支えた外務省幹部OB から聞いた話も印象に残っております。
実は当時、香淳皇后(当時72歳)にご高齢特有の症状が既に始まっており、関係者はずいぶん心配し、はらはらされていたといいます。
結果的には大過なく、香淳さまの笑顔は「エンプレス・スマイル」として多くの米国民に好印象を残しました。
ただ、昭和52年夏に那須御用邸で転倒して腰を痛められて急速に御症状が進み、地方行啓や行事出席がほとんどない状態が続いて、平成12年(2000年)に97歳で逝去されました。
この間、25年間におよんだのです。
超高齢化時代に、同様のことが天皇に起き得ることを考えると、長年月を「摂政宮殿下」でつなぐことはむしろ非現実的だということを示すエピソードだと思います。
でも、香淳皇后の代行は美智子妃殿下が行っていて問題はありませんでした。
超高齢化しようが後継ぎがいる以上、そこまで心配する事なのでしょうか。
よくわかりませんが、「上皇」という名の天皇、「天皇」という名の皇太子が誕生する
だけじゃないのですか。